緑玉の天寵

文月(ふづき)詩織

第一部 緑玉の天寵

前日短編

000. 新たな主従の誕生を

 その日、リャナは初めて皇居に足を踏み入れた。


 皇居は一つの街を成している。兵舎を兼ねる重々しい城壁の内側には、完璧な統制のもとに整えられた緑の園が待ち受けていた。


 まっすぐ奥に続く石畳の道から煉瓦の小道が左右に分岐している。右手は迎賓館げいひんかん、左手はヴァルハラに繋がっているという。

 石畳の道を進めば、石造りの巨大な城がそびえ立っている。これこそが広大な神聖帝国の政治の中心、玉座の置かれる皇宮である。


 皇宮の向こう側は皇帝一家の居住空間だが、リャナがそちらに足を踏み入れることは許可されていない。割り当てられた仕事場は迎賓館だった。新米女官には重い職場を前に、リャナは気を引き締める。


「それでは、最初の仕事を申し付けます。」


「はい!」


 エプロンとドレスが合体したような可愛らしい服をひるがえし、リャナは気合十分に上司の背を追う。


「とても重要な仕事です。」


 前を行く上司は振り返りもせずにそう言った。


 皇居の女官に採用されるのは皆貴族の娘だ。雑務を嫌がる者も多いと聞く。それを避けるための前振りなのだろうと、リャナは上司の言葉を解釈した。


「光栄です。」


 リャナはそこらの貴族のご令嬢とは違う。没落貴族の娘である。掃除だろうと洗濯だろうといといはしない。


「今日からしばらくの間、こちらには少々難しいお客様が滞在されます。あなたにはその方のお世話をしてもらいます。」


「はい、光栄で……え?」


 リャナは思わず足を止めた。上司は構わず残りの数歩を消化して、長い廊下の突き当りにある扉を叩いた。


「失礼いたします。」


 豪華絢爛に飾り立てられた部屋だった。バルコニーに通じる窓は開け放たれていて、赤い夕焼けと涼やかな風が部屋に流れ込んでいる。


 中央のソファに客人が座していた。上司がひざまずく。リャナも慌ててそれにならった。ソファの脇の小さなテーブルの上で、盛り合されたフルーツが甘い芳香を放っていた。


 先帝の遺児、イオストラ・オーネ・レイカディア姫。先帝が崩御した折、第一皇位継承者であった彼女はまだ幼かった。水面下の政争の末、先帝の弟であった今上帝きんじょうていが玉座に就き、イオストラは西の都アンビシオンに追いやられた。

 その彼女が間もなく十八歳。神聖帝国における成人の年齢を迎える。


「お身の回りの世話をさせていただく者のご紹介に上がりました。」


 慇懃いんぎんな口調で上司は言った。リャナの背筋を冷たい汗が伝う。この上司、本気でリャナに彼女の世話係をさせるつもりらしい。


おもてを上げよ。」


 凛とした声が鼓膜を揺らす。リャナは恐る恐る顔を上げた。


 彼女の目は光を余さず吸い込んでしまいそうな暗黒色。剛直なまでに真直ぐな濡羽ぬればの髪は光の筋を描いてつややかに腰まで伸びている。身に着けているのはドレスではなく、軍服をアレンジしたと思われる活動的な服だった。首からはそれ自体が光を放っているかのような、鮮やかな緑色の宝玉を下げている。

 迂闊うかつに寄れば斬られそうな、鋭い雰囲気を纏う少女だった。


「名はなんという?」


 イオストラは迷惑そうにリャナに問うた。


「あ、はい。リャナ・ア――」


「リャナ、だな。では用があればお前に言おう。今は何の用もない。」


 ぞんざいに言って、イオストラは手ぶりで下がれと指示した。上司は一礼して退出した。リャナも続いた。


 迎賓館の長い廊下を引き返しながら、リャナは延々と状況を思い返した。


「……私があの方のお世話を?」


「ええ、一任します。」


 きっぱりとそう言って、上司はそそくさとリャナの前から去って行った。


 リャナは唇を引き結んで速足で廊下を進み、自分の部屋に入って厳重に扉を閉め、高らかに叫んだ。


「何よそれ!」



 *****



 リャナの苦難が始まった。


 イオストラはおおむね機嫌が悪い。頻繁に独り言を呟くのだが、その時に自分が吐いた言葉で気分を害することさえあった。リャナの扱いはすこぶる軽く、与えられる仕事は茶の用意ばかりだった。茶を要求しておいて、そのまま出かけてしまうことも多かった。


 この日も申し付け通りに紅茶を持って部屋をおとなったが、イオストラはいなかった。何やら政治工作に奔走しているらしい。


「それ、いただいてもいいかな?」


 物思いに沈んでいると、いきなり声をかけられた。手にした盆の上で紅茶入りのポッドが危険な音を立てる。何とかバランスを取り戻したリャナは、次の瞬間に盆から手を離してしまった。


 一体いつからそこにいたのか、目の前に人が立っていた。落とした盆を追いかけようとしたリャナの視線は、その人物の顔に固定された。


 その人はあまりにも美しすぎた。人と言う題材で表現し得る美の限界がそこにあった。全てのパーツは最上の形で最上の場所に存在する。柔らかそうな銀の髪は金剛石の欠片をまぶしたように、部屋の灯を反射してキラキラと輝いた。

 見惚れるうちに、リャナはその人の目が不思議な色をしていることに気がついた。長い睫毛まつげの奥で、双眼そうがんはそれぞれ好き勝手に色を変える。ある瞬間には深紅、ある瞬間には黄金、ある瞬間には青……。


 放心するリャナの様子を認めて、その人物はゆっくりと口端こうたんを吊り上げた。わずかに開いた口の中に、真珠のように美しい歯が綺麗に並んでいる。


「ど、どちら様でしょうか……?」


 リャナは上ずった声で問いかけた。せわしなく視線を動かして、その人物を観察する。顔も体格も中性的だが、声ははっきりと男性的だった。黒を基調とした軍服はかなり地位の高い軍人の証だ。見るべき場所を見れば所属も明らかのはずだが、リャナはそこにはうとかった。


「イオストラ様の配下の者さ……」


 そう言って、彼はリャナが取り落とした盆を片手に載せて差し出した。リャナは慌てて受け取った。


「そ、そうでしたか! 失礼いたしました!」


 リャナは冷や汗を拭う。彼が受け止めてくれなければ、高価なティーセットを割り、絨毯に紅茶の染みを作ってしまうところだった。


「あの、お名前を伺ってもよろしいでしょうか? 私は――」


「エルムだ。よろしく、リャナ。」


 そう言ってエルムはリャナが持ったままの盆の上から茶菓子のクッキーを一つ摘まみ出し、口に含む。


「イオストラ様は、今どちらに?」


「そろそろ帰って来るよ。君の用意するクッキーを楽しみにしているようだし。」


 エルムは次々にクッキーを口に放り込んでゆく。あまりにも自然にそうするので、リャナはうかうかと見過ごしていた。ようやく我に返った時には、用意したクッキーの三分の二ほどが彼の胃袋へと去っていた。


「うん、確かに悪くない。」


 赤い舌がちろりと口からはみ出して、艶かしく唇を舐めた。


「ちょ、ちょっと……!」


 リャナは頬を引き攣らせた。勝手に主人の部屋に入り、勝手に主人の菓子を貪る。

 なんだ、この男は?

 この男に主人の欲する甘味をおめおめと奪われた、リャナの立場は?


「な、なんてことを!」


 リャナがエルムに抗議しようとした時、唐突に部屋の扉が開いた。イオストラがそこに立っていた。立派な体格の武人が、リャナの姿を認めるや剣の柄に手をかけて進み出る。イオストラがそれを押し留めた。


「リャナ?」


 彼女は不思議そうな視線をリャナの顔に向ける。視線が空の盆に向かうのを見て、リャナは大いに慌てた。


「違うんです! 私じゃなくって、この人が――」


 振り返った先にエルムはいなかった。


「そんなに空腹だったのか?」


 イオストラは悲しそうな目でリャナを見つめた。


「ち、違うのです! イオストラ様のお付きの……エルムさんと言う方が、ついさっきまでここにいたのですけど……!」


 慌てふためくリャナの説明は決して理路整然としていなかったが、イオストラは何かを察したらしかった。


「なるほど。」


 呟いて、彼女は首から下げた宝玉を握り締めた。


「手間をかけさせてすまないが、もう一度頼んでも良いだろうか?」


「か、畏まりました!」


 リャナは逃げるようにその部屋を後にした。



 ******



 時間が経過するにつれて、イオストラの態度は軟化していった。初めは露骨にリャナを遠ざけていたように思うのだが、徐々じょじょに距離は近付いた。リャナもイオストラに心を傾けるようになっていた。


「あの方はあくまでお客様です。距離感に気を付けなさい。」


 上司にはそう注意されたが、リャナには距離感がどうにも掴めない。初めて世話をする人なのだし、彼女は何かと困っていた。頼りにされると、つい手を貸してしまう。


 イオストラに感謝されると嬉しくなった。

 イオストラが悩んでいると落ち着かない。

 イオストラの陰口を聞くと、嫌な気分になる。


 いつの間にか、二人の間には信頼関係が築かれていた。


「本当のことを言うと、リャナを私の担当にすると言われたときは嫌がらせだと思ったのだ。いや、今でも嫌がらせだろうとは思っているけれど。」


「え? そうなのですか?」


 二人で向かい合って座っているのは、明らかに臣下の分を超えていた。


「見るからに新人だったもの。皇宮の事情に疎いお前を付けて私の情報を遮断し、また女官の仕事が遅いという枷で私の動きを封じようとしたのだろう。だからムッとしてあんな扱いをしてしまった。すまなかった。」


「いえ、実際に新人ですし……」


 困ったような笑顔を浮かべつつ、リャナは憤慨していた。自分が嫌がらせの駒にされていたという事実は、リャナの自尊心を少なからず傷つけた。


「連中のアテは外れたわけだ。リャナは仕事ができるもの。だが……やはり皇宮は私を歓迎していない。」


 イオストラは物憂げに呟いた。


 イオストラは精力的に人脈作りに勤しみ、そしてどうやらうまくいっていないらしい。日々貴族の資料を読み漁り、張り切って出かけ、消沈して帰ってきた。その都度リャナはイオストラに菓子を差し出した。


 気弱になっているのもあってか、彼女の独り言はだんだんとひどくなっていた。部屋に一人でいる時に怒声や弱音を零すのを、リャナは扉越しに何度か耳にした。


「正式な皇統は私なのに。どうして誰も……。ああ、解っている。だが、それは駄目だ。」


 リャナはノックするのを躊躇ためらった。しかし扉は勝手に開いた。目を丸くするリャナに、イオストラは一抱えの資料を手渡した。


「それを書庫に戻して来てくれないか?」


「か、かしこまりました。」


 どうして扉の外にいることが解ったのだろう。あれでは、かえって盗み聞きしていたようではないか。


 悶々もんもんとしつつ書類を書庫に運び、片づけをし、自分の行動をじっくりと振り返りながら迎賓館に帰る途上で、リャナはふと足を止めた。


 いつの間にか、見覚えのない場所に立っていた。近道をしようとして道を間違えたらしい。


 統制された緑が為す庭が、唐突に途切れている。純白に塗りつぶされた世界が、目の前に広がっていた。ただひたすら白く、何もない。建材の継ぎ目さえ見えなかった。天から零れたインクに塗り潰されたかのような、白い世界。


 不思議な景色だった。リャナはふらふらと足を踏み出した。一歩目が純白の地に着いた途端、奇妙な浮遊感に襲われた。無辺の世界がぐにゃりと歪み、全く異なる景色が生み出される……。


「うごぇ!」


 リャナは若い女性にあるまじき声と共に後方に飛ばされた。足を竦ませていたリャナの襟首を、誰かが掴んで引っ張ったのだ。途端、地に足が着いた安心感に包まれる。目を潤ませて顔を上げると、背の高い男がリャナを見下ろしていた。無機質な灰色の目に映り込んだ自分は、無様に尻餅をついている。


「この先は禁域だ。」


 落ち着き払った低い声で男が言った。


「ご、ごめんなさい……」


 リャナは素直に謝罪した。あんな乱暴に引っ張り出さなくても良いではないかという反発心は、不思議と芽を出さなかった。立ち上がってペコペコ頭を下げると、リャナは転がるようにその場を去った。


 逃げ去ってゆく女官を見送る男の背後の空間が、石を投じられた水面のように歪む。波紋の中心から、小柄な人物が現れた。リャナがその人物の顔を見たならば、さぞや驚いたことだろう。その顔はエルムと瓜二つだった。ただし目は緑色に輝いている。


「君は仕事が絡まねば優しいな、ラタム。」


 中性的な容貌の人物ではあったが、声ははっきりと女性的だった。


「ティエラ様も人が悪い。ただ見ているだけとは。」


 ラタムと呼ばれた背の高い男が、感情の乏しい声でティエラを責める。


「見ているだけなものか。彼女がヴァルハラに入ったら殺してしまおうと思っていたよ。」


 あと一秒あの場に立っていたら、リャナは禁域ヴァルハラに迷い込んでいただろう。ラタムの救助はギリギリだった。


「どうせなら境界をまたぐ前に止めてやれば良かったのに。」


 ティエラが言うと、ラタムは少し困ったような顔をした。


「……声をかけて良いものかどうか、迷っていました。」


「君は仕事が絡まねば本当に駄目だな、ラタム。」


 ティエラは呆れたように言った。ラタムは何かを言いかけて迷い、結局言葉を呑み込んだ。ティエラは口元だけの笑みを残して、白い世界へきびすを返す。ラタムも無言で彼女に続いた。


 純白の世界を歩むうち、彼らの姿は景色に溶けるようにき消えた。




「ヴァルハラに入った?」


 リャナの報告を聞くなり、イオストラは青ざめた。


「け、怪我はないか? 何か妙なことをされていないか?」


「ご、ご安心を。何もされてはおりません。」


 イオストラは安堵の息を吐き出すと、ソファに身を沈めた。


「リャナ、ヴァルハラには近づくな。あれは魔窟だ。」


 イオストラは痛みを押さえるように頭に手を当てる。


「奴らは怪しげな力でこの国を裏側から支配してきた。永遠の命と理外の怪力を持つ、化け物どもの集団だ。迂闊に近づくな。」


「そのような噂も耳にしたことはございますが……本当なのですか?」


「ああ。」


 イオストラは頷いた。


「この国は、化け物どもに支配されている。奴らにとって不都合だったから先帝は……!」


 イオストラは唇を噛む。込み上げてくる何かを、懸命に呑み下そうとしているように。


「私は、奴らからこの国を取り戻す。」


 彼女の呟きは、自分自身に向けた誓いのようだった。


「イオストラ様?」


 イオストラはハッとしたようにリャナを見た。失言だったのだろう。厳しい光を宿した黒い目が揺れる。


「忘れてくれ。」


 イオストラは視線を逸らして呟いた。リャナはその言葉に従えそうになかった。



 *****



 聖教会は神代から伝わる奇跡の技術を秘め持っているという。神聖帝国の建国も聖教会の後押しあっての偉業だと、まことしやかに囁かれていた。


 それほどの力を持ちながら、聖教会が政治に口を出すという話は聞かない。およそ現世の欲得とは無関係に振る舞っていた。

 そのくせ帝国の外敵には獰猛だ。神なる兵士を派遣して、常に他国と闘い続けている。

 無私の心で神聖帝国を守っている。聖教会の歴史からは、そんな印象ばかりが伝わった。


 リャナは本を閉じ、天井を仰いだ。


 イオストラを信じてあげたいとも思う。だが、聖教会による支配という説には同意しかねた。


 ふと時計を見やって、リャナは驚いた。いつの間にか時計の針は深夜を通り越している。いつもならとっくに眠くなっている時間だが、目が冴えてしまって眠れそうにない。


 何か温かいものでも飲もうと、リャナはそっと部屋を出た。


 人気ひとけのない廊下が、異様に冷たい闇をもってリャナの前に広がっていた。窓から差し込む月明かりが、リャナの影を薄く長く伸ばした。

 厨房に辿り着こうという時、リャナの耳が奇妙な物音を捉えた。リャナは思わず厨房の前を素通りして、上へ向かう階段に足をかけた。


 階段の上には濃い闇が待ち構えている。リャナは脈打つ心臓を宥めて階段を上った。この数日間で何度も往復した通路。イオストラの部屋へと向かう廊下は奇妙によそよそしく、リャナに引き返せと囁きかけた。

 廊下の突き当り、イオストラの部屋の扉は少し開いていて、中から明かりが漏れ出している。奇怪な金属音が、廊下に響いていた。


「イオストラ様……?」


 恐る恐る扉の向こうに声をかけて、隙間からそっと顔をのぞかせ、リャナは硬直した。


 イオストラの部屋に、知らない男がいた。夜陰に紛れるような黒い服を身に着け、手には剣が握られている。剣を伝う赤い雫を見て、リャナは思わず後ずさった。男とイオストラとの間に、いつもイオストラに付き従っている大柄な兵士が倒れていた。


「リャ、リャナ? 来るな、逃げろ!」


 緊迫の面持ちで男に剣を向けていたイオストラが、リャナを見て目を丸くする。


「きゃあああああー! 誰か! 誰か来てー!」


 迎賓館全体に響き渡るようなリャナの叫び声に怪しげな男が怯んだ瞬間、イオストラは剣を突き出す。流麗な動きだった。凄まじい鍛錬の成果であろう切っ先は、しかし男には届かない。男はあっさりと剣をかわして反撃に転じた。イオストラは半身になって振り下ろされた剣を避け、敵の刃に剣を添わせて追撃を封じ、喉元に飛び込む――


 高い金属音がした。イオストラの技巧的な反撃は、ただ力に任せた男の一撃によって吹き飛ばされた。剣は粉々に砕け散り、弾き飛ばされたイオストラは無様にベッドに叩きつけられた。もしも彼女の力がもう少し強く、踏ん張りが効いていたならば、剣ともども打ち砕かれていただろう。


 イオストラがぶつかった衝撃で、枕元に置かれていた緑の宝玉が転がり落ちた。侵入者の男が宝玉に手を伸ばす。


「触るな!」


 イオストラの怒声が飛んだ。裂帛れっぱくの気合に、侵入者の男は一瞬動きを止めた。イオストラは素早く宝玉を拾い上げ、胸元に抱え込む。


 足音が近づいて来た。イオストラ麾下きかの護衛が駆け付けたのである。


「イオストラ様、お逃げください!」


 そう叫んで部屋になだれ込んだ男たちが、侵入者に切りかかる。イオストラはその傍らを通り抜け、部屋からの脱出に成功した。


「ご、ご無事ですか?」


「ああ。行くぞ!」


 イオストラはリャナの手を引いて廊下を走る。剣戟と悲鳴が館に響き渡っていた。


「ど、どうして誰も駆けつけてこないのでしょう?」


「……つまりは、そういうことなのだろうさ。」


 イオストラは苦々しげに吐き捨てた。


「解っておられたから助けを呼ばなかったのですか?」


「そ、それは……驚き過ぎて声が出なかった……」


 イオストラはごにょごにょと呟いて、突然足を止めた。


「違う! どうして私は逃げているんだ! 彼らに加勢しないと……!」


「大丈夫ですよ。」


 駆け付けた護衛は五人いた。取り押さえられないはずはない。だが、確かに逃げ出したのは悪手だ。護衛の傍にいる方が安全だっただろう。


 闘いの音が止む。リャナは胸を撫で下ろした。


「戻りましょう、イオストラ様。護衛の方々と一緒にいた方が……」


「残念だが、そうもいかないらしい。」


 イオストラは冷めた声で答えた。彼女の黒い目が向かう先に視線をやって、リャナは息を呑んだ。


 侵入者の男が、闇の中から姿を現した。傷を負った様子はない。息のひとつも乱していない。剣から零れた血の雫が点々と床に赤い染みを作っている。


「覚えておけ、リャナ。あれがヒルドヴィズルだ。」


 イオストラは憎しみのこもった震え声で呟いた。


「お、覚えておけと言われましても……!」


 自分の意識と記憶がここで終わる予感を、リャナはひしひしと感じていた。


「化け物が……」


 イオストラは握り込んだ手を前に出し、ゆっくりと開いた。彼女の掌の上で、緑色の宝玉が淡い光を放っている。侵入者の表情に険しさが増した。


「エルム、殺せ!」


 イオストラが叫んだ、次の瞬間。宝玉は爆発的な輝きを発し、周囲をまばゆく照らし出した。光は収束し、超常の美を宿す究極の人の形を描き出す。軍靴が音高く廊下を打った。


「……白の……魔法使い……」


 侵入者は呆けたように呟いた。


「もっと早く呼べばいいものを……」


 笑みを含んだ声で言って、エルムはイオストラを振り返る。倒すべき侵入者を見ることさえしなかった。だが彼がイオストラを振り返った時には侵入者は姿を消していた。音のひとつもなかった。後にはただ緑色の霞が揺蕩たゆたうばかり。


「え? 何……? どういうこと?」


 追い払った、のだろうか? まるで消えたように見えたけれど……。

 混乱するリャナに、エルムは柔らかな笑みを向ける。


「やあ、いつぞやは美味いクッキーをありがとう。俺はエルム。イオストラの味方であり、根源なるものの管理者でもある。」


「こんげんなるもの……? 管理者?」


 聞きなれない単語に目を回すリャナを見て、エルムは一層笑みを深めた。


「平たく言うと……神サマ、と言う奴さ。」


「え? あなた、軍人じゃないの?」


「これはコスプレだよ。」


「はあ?」


 リャナの冷たい反応には構わず、エルムは仰々しく両手を広げた。


「さ、崇め奉れ! 貢物ならいつでも受け付けているぞ。見返りはないけれど。」


 リャナは助けを求めてイオストラに視線を向けたが、いつの間にか彼女は姿を消していた。


 廊下の突き当りの部屋から、くぐもった慟哭どうこくが漏れ出していた。



 *****



 イオストラは何かに耐えるように顔を歪め、膝の上で組んだ手にじっと視線を落としていた。


「私の判断ミスだ。逃げてはいけなかった。あの場でエルムを呼んでいたら、誰も死なずに済んだ……」


 助かったのはリャナが駆け付けた時点で倒れていた一人だけ。あとの五人は皆、命を取りこぼした。


「エルムに願えば、私は何だってできる。だからこそ何も願ってはならないと自分をいましめてきた。だから咄嗟とっさにエルムを呼べなかった。その結果、私は彼らを殺してしまった……」


 リャナは沈鬱な気分でイオストラの懺悔ざんげを聞いていた。既に襲撃の跡はきれいさっぱり片付けられて、殉職した護衛たちの遺体を故郷へ運ぶ手配も済んでいる。まるで昨日の出来事が夢であったかのように。


「私の責任だ。」


 どう言葉をかけるべきか、リャナは迷う。ベッドに寝そべって低俗な本を読みながらクッキーを貪り食らうエルムの姿が気になって、言葉を掘り出すことができなかった。


「不謹慎だとは思われませんか……?」


 ついにリャナはエルムに不快を訴えた。


「どうして?」


「人が死んだんですよ。あなたがもっと早くに助けてくれていれば……!」


「どうせあと百年も生きないだろう? 誤差だよ。」


 平然とそう言って、エルムはまた本に戻る。「ふふ、ぺぺちゃんか。なるほど……」などと呟くエルムに軽蔑の視線を送って、リャナは憤然ふんぜんと腕を組んだ。


「そいつはそういう奴だ。気にするな。」


 イオストラが暗い声で言った。


「イオストラ様、あの――」


「私は彼らの遺体と共にアンビシオンに帰る。」


 リャナの慰めをさえぎって、イオストラは宣言した。


「得るものは得た。受け取るものは受け取った。失うものは失った。簒奪者どもの意図は、よく理解したさ。」


 イオストラはゆらりと立ち上がると、躊躇ためらいがちにリャナを見つめた。


「その……もし良ければ、なのだが。一緒に来ないか? リャナ・アーダ。」


 突然の申し出に、リャナは目を丸くした。


「ん?」


 エルムが首をもたげてリャナを見る。


「すっかり秘密を知られてしまったし――」


「記憶なら簡単に消せるよ。」


 水を差したエルムを、イオストラは一瞥いちべつして黙らせた。


「すっかり秘密を知られてしまったし、お前は信頼に足る人物だ。仕事もできる。」


 リャナの脳裏に去来きょらいしたのは両親の顔と、古びた家具の並ぶ部屋だった。自分でも薄情だと思うのだが、それらは意外なほどリャナの心を縛らなかった。


「はい。」


 リャナは頷いた。


「心よりお仕えさせていただきます……」


 イオストラは寂しそうに笑ってリャナに手を差し出した。リャナはイオストラの前にひざまずき、うやうやしくその手に口づけた。


 新たな主従の誕生を、玉虫の色を帯びた双眼が愉快そうに眺めていた。



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