痛み
アトマスは、怒りを忘れていた。悲しみも、忘れていた。戦場において、それら絶対的なものは、意味を為さなくなる。
このとき、彼の中にあるのは、ただ、戦いそのもの。それ以上でも、それ以下でもない。
空気の揺らぎ。敵の陣の放つ気。それを、自らが望む形に持っていく戦略。そして、自分で拵えたその戦場にある敵を破壊する戦術。
今、アトマスが空けた穴に、歩兵が殺到している。最初の一撃で、敵の一隊の指揮官らしき者を、その周囲もろとも粉砕した。
突撃してくる敵を、アトマスは、一騎で止めたのだ。戦いにおいて、しばしば、そういうことが起こる。
歩兵が、穴を広げて行く。バシュトーの騎馬が次々と倒れてゆくのを、アトマスは反転しながら見た。
昔のように、ヴァラシュカを振った。振ることが出来た。しかし、右腕に、痺れるような痛みが走っている。やはり、若くはない。老いている。自らの身体が、生よりも、むしろ死に近づいているのを、否定することは出来ない。
しかし、まだ生きている。生きている限り、求めるのだ。
理想を。愛すべき国家を。それを為しても、リョートは戻らぬ。だからこそ、やめるわけにはゆかぬ。
それは、個の内側の、絶対的な感情。
この戦場には、無意味なのだ。そう思い、戦場自体を平らな眼で見た。さっきまで晴れていたはずの空が、曇っていることに気付いた。ぽつり、と鎧をか弱く打つのは、雨粒か。
来い。そう思った。粉砕してやる。
果たして、それは、来た。前方からではない。ハルバシュカの城壁を迂回するようにして、同時に、東西に。およそ、五百ずつ。
ニル。馬を駆り、先頭を駆けている。遊撃隊は、ハルバシュカの南方に隠れていたのだ。二百五十が、四隊。それを、ニルとリューク、ダンタールとストリェラの二隊にまとめ、ハルバシュカの戦場に急行した。
彼らが到着すると、乱戦が始まっていた。二万ほどのバシュトー騎馬が、蛇のように原野に蠢いて、そこにパトリアエ重装歩兵が、食らいついている。
雨が、地を濡らしはじめた。まだ、土が
あれが、アトマスか。ニルは、そう見定めた。
馬に慣れたバシュトー人ではないが、ニルは類い稀な身体能力と平衡感覚を持つ。馬首を回し、そちらへ急行した。ともかく、勢いを止めねばならない。驚き、戸惑ったとき、人は行動を停止する。ニルは、ずっと長い間、その心の虚に、刃を突き立ててきたのだから、今、バシュトー軍がどのような状況にあるのかよく分かる。
アトマスを、止める。あわよくば、討つ。東から迂回してくるダンタールも、同じことを考えているらしい。
霧のように細かな雨を切り裂くように、ニルは駆けた。
アトマス。白銀の軍装。一騎だけ、騎馬。
それは、雨の中に、白い軌跡を残しながら、縦横に乱戦の中を駆けていて、敵にぶつかれば、必ず敵は飛沫そのものになった。
馬上、ヤタガンを抜く。
駆けてくるアトマスに、横からぶつかる格好。
馬を並べるように進路を変え、斬りつけようとした。
その瞬間、天地がひっくり返ったかと思うほどの衝撃が走った。ニルの後ろに続く者が、二騎、吹き飛んだ。
アトマスの向こうから、ダンタール。腿でしっかりと馬を挟み、馬上で、自慢の大剣を振った。それを、アトマスは、右手だけで握ったヴァラシュカで受け、流した。
半分見えた背中の隙に、ニルのヤタガン。
正確に、死角から、鎧の継ぎ目を狙う。
しかし、引かれた肘当てに、弾かれた。
死角から放った必殺の一撃を弾かれるのは、初めてである。
ニルも、ダンタールも、体勢を崩す。
あの一撃が来る。
ニルは、死を覚悟した。
後方のハルバシュカからは、ようやく混乱から脱した味方が、隊列を整え、出てきている。
しかし、戦いとは、数ではない。勢いなのだ。
ニルの勢いも、ダンタールの勢いも、アトマスのそれを止めることは出来ず、逆に、止められてしまった。
背中越しに、アトマスの兜が、振り返った。頬当てとの隙間から覗く眼が、ニルを見ていた。
ヤタガンが、旋回する。
体勢は、崩したまま。
馬の背に、自らの背が付きそうなほど、のけ反っている。
そのまま、振った。
刃に付いた雨の粒が、滑ってゆく。
それは、刃の峰まで来ると、降る雨とは違う軌跡で、飛んだ。
いや、その場に残った。
ダンタールの方に刃を向けた、ヴァラシュカの柄。
それが、伸びてくる。
しかし、ニルは、ヤタガンを振るのを、やめない。
狙うのは、頬当ての下、首筋。
届く。
触れた。
そのとき、ニルの胴体を、美麗な装飾の施されたヴァラシュカの柄が打った。
落馬。
濡れた土の臭いと、鉄のような臭いが、鼻に満ちる。
アトマスの兜を、飛ばした。打たれた分、僅かに、剣筋が逸れたのだ。
体勢を崩していたから良かったものの、まともな斬撃を繰り出せる体勢であったなら、
「ニル!」
最後尾についていたリュークが馬を止め、ニルに声をかけた。
「大丈夫だ」
言ったが、無事ではない。
外套の下に鉄の胸当てを着けていて、これである。しかも、柄。これが刃の方だったら、跡形もなく吹き飛ぶであろう。
痛みというより、燃えるような感覚。身体の中で、何かが暴れているような。
アトマスは、そのまま過ぎ去った。飛んだ兜と、泥の上の蹄の跡だけを残して。
陽が、暮れようとしている。
戦闘は、停止した。
雨で火は消えたが、まだ焦げた臭いが立ち込めているハルバシュカの城壁の中に、引き揚げる。占拠してから街の入り口急造した簡素な馬小屋に、馬を繋ぐ。歩けば、すぐに大きな広場。出撃の前後に、各隊が集合するのに適している。
そこで、ニルは、あり得ぬものを見た。
城内に残していた、二千ほどの兵。それが、壊滅していた。
多くは、急所を一突きされて、死んでいる。しかし、あちこちに、死体が固まって散らばっている箇所がある。
ダンタールが、
アトマスのヴァラシュカの一撃も、恐ろしい。まさに、神の武。しかし、この死体の酷さは、どうだ。
「プラーミャだ」
ダンタールが言った。それが出来るのは、この世で、プラーミャしかおらぬと。
よく見れば、民のような格好をした者が、武器を握ったまま死んでいたりもする。
「民の反乱?」
リュークが、死体を改めながら、訝しい声を上げた。
「いや、リューク。それならば、バシュトー兵を、こうも容易く、一撃で仕止められるわけがない」
では、答えは一つ。
「雨の軍、か」
リュークが、溜め息をついた。プラーミャは、パトリアエに
ニルは、ちらりと、ダンタールを見た。あまり感情の滲まぬ灰色の眼で、じっと散らかった死体を見ている。
アトマス。帰陣してから、額から血を流しているのに気付いた。従者が慌てて手当てをしようとしたが、その手を払い除け、本営に入った。
椅子に腰掛けると、今さらのように、痛みがやって来た。あの、後から来た隊。あれが、ウラガーンか。短髪の大男も、黒い長髪の細身の若い方も、ヴァラシュカで砕けなかった。
若い方の男は、凄まじい殺気を放っていた。知らずのうちに、身体が反応したのだ。それがなければ、討たれていた。
兜が飛んだのは、知っている。しかし、血を流すとは。
驚きと、腹立たしさと、そして、笑いたくなるような気持ちが、痛みと共に、赤い血になって流れている。
「あれが、ウラガーン」
光を浴び、輝いたことのない武の力。闇に紛れる、雨の粒。
生まれてはじめて、それと向かい合った。
ヴァラシュカを振るった右腕が、やはり、痺れるように痛んでいる。
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