最終話 希望

 ニルは、死んだ。

 ネーヴァも、死んだ。

 ニルが生きれば、彼は英雄となる。それは、あってはならぬことであることを、彼は知っていた。

 ネーヴァが生きれば、ユランが新たな国の主となり、彼は英雄となる。それは、あってはならぬことであることを、彼は知っていた。

 彼らは、自らが何をしなければならぬかを、知っていた。

 それに、彼らは忠実であった。

 彼らは願い、そして、行動したのだ。



 王国歴、三百二十七年。風は、初夏。どういうわけか、パトリアエには、雨がめっきり少なくなった。

 黒ずんだ血で汚れ、破れた旗が、グロードゥカの広場に翻っている。


 民の活気は戻り、以前のようにパトリアエは賑わっている。統治政府は急ごしらえながら、それまで、アトマスやリョートが心血を注ぎ、作ってきた仕組みをそのまま流用したから、国内はよくまとまっている。いや、フィンは、リョートやアトマスがこれを作ると信じ、託したのだ。

 アイラトは、よくやっている。統治政府の長として。

 国家の基盤は、自由経済。今の統治政府は、戦いの直後の乱れを治めるため、一年の期限を設けて定められた一時的なもので、秋に行われる選挙のようなもので、ほんとうの統治政府の人選が決まることになっている。

 統治政府の長とて法の下にあり、逆らうことは出来ぬ。国のありよう自体を示した法が最も上位で、人の罪を裁くための法、人と人が円滑に関係を持てるための法などもある。

 一応、軍はある。それはパトリアエであり、ユランであり、バシュトーであった。

 彼らには、パトリアエ人も、バシュトー人もなかった。全てが、ただの人。ただ、自らの隣にいる者の瞳に自分が映っていて、その自分が笑っていることを喜ぶ、人。


 旧バシュトーの領土も版図に加えた。砂漠の国が、パトリアエとバシュトーの戦いの間に、その領土を掠め取ろうという動きを見せたが、バシュトーに貸して帰国したその兵どもがフィンの創ろうとしている国の強大なことを説き、あれほどの凄まじい戦いをする軍と圧倒的な求心力を持つ長とがある国と争えば、滅びを招くだけ、と結局取り止めになった。


 その国の国号を、ウラガーンと言う。建国の大戦において、暴れる風をもたらした隊。

 その指揮官も、ストリェラ一人を除き、ほとんどが死んだ。生き残ったストリェラも、戦いが終わるとすぐに世を捨てて陰棲し、今ではその居所も知れない。

 ストリェラは、ひどい病に冒されて、戦いが終わったあとすぐ死んだと史記には記されている。

 しかし、筆者は、それはストリェラ自身が流した話であろうと考えている。この史記目録の題材になっているウラガーン史記の著者は、正確には分かっていない。公に編まれたものではなく、個人が編んだものであるとするのが一般的な見方で、筆者もその説を支持している。

 それは、この史記が、戦いに勝った国家がその正当性を後世に主張するために編んだと言うには、あまりに客観的で、あまりに人の心の中に手を入れるような描写が多いことからも分かる。そして、その客観性の中に、溢れんばかりの愛と悲しみがあるのだ。

 筆者は思う。これを編んだのは、ストリェラであると。彼ほどの働きをし、常にニルの側にいながら、実際、リュークとストリェラの兄弟は、あまり、史記の中では登場しないのだ。

 誰しも、自分のことは、よく分からぬものなのかもしれぬ。

 また、その兄リュークについての記述が少ないのは、彼が、からではないかと、筆者は考える。その双子の兄の生と死を、彼は、平明な視点では、最後まで捉えられなかったのかもしれぬ。

 神話のようにして伝えられる建国から、戦いの終わりまでを書き綴った、長い長い物語。彼は、どれくらいの時間をかけて、この史記を編んだのであろうか。

 世を捨て、一人、ひたすらに、これを綴ったのであろう。

 そこに名を刻む、あらゆる者の生と、死と、希望を。

 その作業を終えたとき、ストリェラがどんな気分であったのか、今の筆者や、頁を進めた読者諸氏ならば、なんとなく分かることであろう。

 秋の統治政府の人員を決めるとき、満場一致でアイラトが引き続きその頂点に立つこととなったが、彼は、固く辞退し、そのまま、歴史から名を消した。

 どこか、別の国で、別の者として生きていったとも、東の山脈の村で、家畜の世話をしながら生きたとも言われる。


 今のウラガーン国がどうなっているかは、あえて言うことでもないから省くが、彼らの願いと、希望は繋がれた。


 その、最後の一節について、書く。



 王国歴三百二十七年、初夏に戻る。ちょうど、ニルとフィンが出会った十年後、フィンは、グロードゥカの広場において、処刑された。

 彼女に向けて数えられた罪は、かつてのバシュトーをその私利のために乱し、人心を惑わせ、二国を戦乱へと引きずりこんだ上、建国の英雄ニル・アンファングをも自ら殺したことなどがあった。その罪の多いことは、罪状を読み上げる役の者の声が途中で枯れ、別の者に代わったとされていることからも見て取れる。

 軍装に身を包んだアイラトが、その間、ずっと、縄に繋がれ、こうべを垂れているフィンを見下ろしている。

 そこには、多くの兵や民が集まっていた。かつて、フィンは、よくこういった人の集まりの中で、その心の中に楔のように刺さる言葉を吐いたものである。しかし、この日に限り、フィンは、何も言わない。

 彼女の求める国に、英雄は要らぬのだ。それは、彼女自身もまた。

 彼女が生きている限り、すべての人間が彼女を頼り、支えにし、生きることとなる。それをさせてしまえば、彼女もまた、腐るのだ。

 ストリェラのように世を捨て、隠れて生きるわけにもゆかぬ。必ず、フィンは実は生きていると噂する者が現れる。それは必ず、次の火種になる。

 だから、彼女は、いつも用いていた灰色のフードのように、自らに罪を被せ、人の心を惑わす悪女として妖しく微笑んだまま、その首を人の前で落とされ、大聖堂の前に晒されなければならないのだ。

 彼女が、ほんとうはそのような悪女でも罪人でもないことくらい、誰でも知っている。彼女を知る人で、彼女の死を望む者など、一人もいないのだ。しかし、彼女が何を求め、何を創ろうとしていたのかを深く知り、彼女を深く愛する者ほど、彼女を、生かしておいてはならないことが分かる。

 彼女が、それを望んでいることが、分かる。


 彼女の血を、この地に降る最後の一滴とすること。彼女が、この地に墜ちる最後の星になること。そうすることで、彼女の願いは、希望は、繋がれるのだ。


 フィンを広場に引き出す前、アイラトは、彼女に会ったとされる。もし、史記を編んだのがストリェラなら、陰棲の身で、どのようにしてその秘密の行動を知り得たのか甚だ疑問であるから、創作であるとする説が強い。

 それでもよい。ここに、それを記す。ストリェラの、希望的観測を。彼が、そうであってほしい、そうであっただろう、という想いを。



「フィン」

 アイラトの甘く、優しい声が、牢獄に響いた。フィンは、いつもと変わらぬ様子で、美しい瞼を開いた。

「大丈夫?」

 アイラトは、一国の頂点に立つ者には、とても見えぬ。それほど、彼はふつうの優しい青年であった。そういう者こそ、フィンの国に似合う。血を好まず、力を欲せず、ただ和と親しみと誠をもって、人に向き合う者こそ。

 だから、彼は、死すべくして死ぬこの一人の女を気遣い、声をかけに、わざわざ来たのだ。

「フィン」

 また、鉄の格子の向こうに、声をかけた。薄暗い空間に、フィンの瞳が瞬くのが分かった。

 死なないで。とは、言えなかった。その代わり、

「もうすぐ、時間だよ」

 と言った。

「そう、分かった」

 と、フィンは答えた。

「一緒に行こう」

「アイラト。あなたは、優しい人ね」

「せめて、俺に、縄をかけさせてほしい。いいだろう?」

「ええ、お願い」

 アイラトは格子の鍵を外し、中に入った。

 フィンに、笑いかける。フィンも、同じようにした。

 そっと差し出された両手に、縄をかけた。

 痛くならぬよう、それでいて、人前に出てからほどけてしまって、格好の悪いことにならぬよう、気を配りながら。

「行こう」

「ええ」

 アイラトが先に立ち、フィンを曳いて、街路を歩いた。その姿を、人々が、列をなして見守る。

「天下の大罪人、フィン・コロールである。これより、法に照らし、その罪を裁く。人よ、続け。己の心に、焼き付けよ。彼女の姿を。そして、考えよ。自らが、どう生きるべきかを」

 と、アイラトが、大声を上げた。大罪人を裁くことを、民に宣言する君主の台詞として申し分ないものでありながら、人に、フィンから託された希望を胸に強く刻め、ということを言外に込めた、いい台詞である。


 そして、広場へ。

 アイラトが見下ろすフィンの首が、上がった。罪状の読み上げが終わったのだ。

 どこからか、嗚咽が聞こえた。しかし、罪人の処刑で、涙を流してはならぬ。

 フィンは、自らの死において、涙を流すことすら、人に禁じた。

 どこまでも、己の無い女である。

 ただ、為すべきことのため。

 自らがこの世に生を受けたのは、そのためであると信じて。

 ただ、願い、そして、それを、願うという行為では終わらせず、人の心に芽吹かせ、花を咲かせるため。

 ただ、希望のため。

 彼女は悩み、笑い、喜び、悲しみ、欺き、汚し、汚され、戦い、抗い、求め、示し、追い、生きた。

 その刃を、アイラトが握った。

 フィンが首を下げて、白く美しいうなじを、露わにした。うつむきながら、出来るだけ、笑顔を作った。

「罪人、フィン・コロール。法により与えられたの権利のもと、ニル・アンファングの刃でもって、これを誅する」

 刃が、光った。

 いや、光ったのは、アイラトの涙であったかもしれぬ。

 それを悟られぬよう、アイラトは、落ちたフィンの首には眼もくれず、ニルの用いていた刃を、フィンの胴に突き立て、立ち去った。

 その亡骸は、三日の間、そこに放置された。

 腐乱が始まる前に、彼女の身体は、どこかに葬られた。

 首は大聖堂の前に晒され、やはりその後、隠すようにして葬られた。

 

 以前にも触れたが、ニルとは、ラテン語でゼロを意味する同音の語があり、彼の姓であるアンファングとは、ドイツ語において始まりを意味する語がある。

 フィンとは、やはり、ラテン語で、終わりを意味する同音の語がある。

 ゼロから始まり、そして終わり、また始まる。二人の間は無限であり、二人は、一つであるのだ。


 今にして思えば、ニルとは、暴れる風そのものであったのだと思う。

 風に、色はない。風は、吹くのみ。

 だが、風は、何かを運ぶ。

 それは、例えば、希望。



 今なお、ウラガーン国では、雨は少ない。単なる気候の変化によるものなのか、どうか。その代わり、夜になれば、彼らの頭上には満点の星屑が輝く。

 星屑と言えば、興味深い話がある。星屑の花は咲かぬ季節でも、今でもグロードゥカでは、どこからか運ばれてきたその香りが、一瞬、漂うことがあるという。

 名も伝わらぬ花の香りがするというのは何とも妙な話であるが、恐らく、それは、ニルとフィンのことを口にするのを禁じられながら、なお彼らを胸に抱き、希望と生を明日へと繋ぐ人が、自らの隣にいる人の瞳に映る自分が笑っていることを喜び、自分の瞳にも、今自分が見ている相手の笑顔が映り、この世の全ての人が、そうあれかしと願うからであろう。



 少なくとも、筆者はそう思っている。



 ウラガーン史記目録 完

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