英雄の居ない国で戦う英雄

 傷ついたニルは、その場に倒れ込んだ。シャムシールも、死んだ。これからのバシュトーを担っていくであろう若き指揮官が。

 生き残ったパトリアエ人は逃げ散り、生き残ったバシュトー人は、シャムシールの死を悼んだ。誰の背にも、悲しみが重くのしかかった。

 ほんの僅かな間、休息する。

 その間、方々から伝令がもたらされる。

「サンクトヤルスク、陥落」

「カムグラード、陥落」

「ルハシンスク、陥落」

 グロードゥカを囲むように配置された城塞都市を同時に攻めていた部隊が、それらをとしたという報せだ。いよいよ、ここにバシュトーとパトリアエの長い戦いは、終わったのだ。その要塞群を陥とし、首都グロードゥカを丸裸にしてから、各方面から軍を集結させて取り囲み、一気にそれを覆す作戦であったが、最後にアトマスが打った、あり得ぬことを起こす一手により、首都と付城との順序が逆になった。

 それらにフィンはただ、グロードゥカへ。という指示を与え、各地へ戻した。


 さすがに、いかに権謀術数に長けたフィンとて、まさか初めからアトマスを誘い出し、それを討つつもりでウラガーンを配置したわけではなかろう。

 しかし、アトマスの思考、彼の求めるもの、今までの行動の傾向などを細かに見れば、そしてその心の微細なの中にあるものを知れば、出来たかもしれぬ。

 しかし、それは、どちらでもよいことだ。フィンは、自らをしてこの位置に立たしめるべくして、あらゆる位置に立って来たのだ。そして、そのフィンが、仰向けになり天を仰ぐニルに、残酷な要求をするのだ。

「グロードゥカに、行きましょう」

 と。

 先に入ったアイラトらユランは、既にグロードゥカを押さえていることであろう。そして、ニルと入れ違うようにして戦場を離脱したネーヴァ。すれ違うとき、一瞬、眼が合った。

 あれは、グロードゥカで待つ。という意味ではなかったか。フィンを連れて、来いと。

 ネーヴァが、何故フィンを守るようにしてこの戦場で戦っていたのか、ニルには分からない。だが、ネーヴァは、自らの求めるものは、人がそうさせるものであると、強く感じていたとニルには思えた。人が、自分を勝手に押し上げ、ユランを作り、それに希望を懸け、触媒としたのだと。

 フィンも、そうなのかもしれぬ。しかし、フィンは、自ら望んで、人にそう。個人としての希望と、ユランの運動率とが一致するようで、どこまでも一個人であったネーヴァとは、やや異なる。

 フィンの声は野に満ち、夜空に輝き、雨となり降り注ぐ全体的なもの。ネーヴァの声は、その雨の、一粒の主体的なもの。

 どちらも、同じである。同じであるがゆえ、彼らは、ぶつかる。摩擦を生み、その正しきことを示すように、彼らはいつも戦うのだ。


 少しの休息の後、ニルは立ち上がった。全身に傷を負っているが、それがために死ぬような傷ではない。ただ、消耗が激しい。食って寝れば、数日で回復するようなものではあるが、数日の間、生命そのものを削り、戦っていたのだ。

 このとき、ニルが死にかけていたら、フィンはどうしたのであろうか。

 いや、それを問うても、無駄であろう。


 ニルは、草の上に、上体だけを起こした。

「立てる?ニル」

 フィンが、ニルを気遣った。

「さあ、を、しに行きましょう」

 ニルには、その意味が分かったらしい。ちょっと眼を見開き、フィンを見て、何か言おうとしたが、やめて、身体を重そうに持ち上げ、馬に跨がった。

 二人は、何も言わず、静まり返った戦場を、馬で歩いた。よく、挿絵などの題材になる光景である。

 陽の光が、二人の影を縁取り、この地に焼き付けている。

 歩いてゆく。バシュトーの者で動ける者は、何も言わずその後に続き、動けぬ者は、ただその光景を見ていた。

 誰も、何も言わない。

 風の音。

 草が、揺れる音。

 鳥の声。

 花の香り。

 そして、自らの鼓動。

 それだけが、語っていた。


 そのまま、歩いた。グロードゥカには、ゆっくり馬を歩ませて、明日の昼には着く。駆けさせれば、今日のうちに着くが、徒歩かちの者も居て、なにより先頭をゆくニルとフィンが、とてもゆっくりと、その土を、景色を愛でるように、懐かしむように馬を歩ませているから、進軍は、とてもゆっくりであった。

 夜、歩を止めると、誰からともなくたきぎを集め、水を汲み、休息した。

 ニルとフィンは、手を握り、時折、何かを話していたらしい。

 何を話していたのか、誰にも聞き取れなかったが、二人は、微笑わらっていた。

 誰もが、彼らと同じように、側にいる者と何かを語り、そして、その者の眼の中で微笑んでいる自分を見た。

 ニルとフィンは、そのまま、手を取り合って眠り、夜明けに目覚めた。

 目覚めると、二人はまた馬に跨がり、同じように歩む。


 そして、一行は鳳凰が翼を広げたような、広大な城壁を持つ、グロードゥカへ。

 それは、軍ではなかった。人の集まりであった。ただ、二列やところどころ三列、四列になり、人が歩いている。それが、グロードゥカの石畳の街路を踏んだ。

 時折、ふわりと、星屑の花の香りが、鼻をくすぐる。

 一行は、大通りから少し逸れた裏通りに入った。

 そこには、ウラガーンがかつて根城にしていた酒場を兼ねた宿が、そのまま残っていた。

 それを、フィンは、懐かしそうに見て、その煉瓦の壁を、指でなぞった。

 そのまま、その通りを抜け、河に架かった橋を渡り、さらに北へ。市場を越え、湾曲した道を、さらにゆく。

 敷かれた石の、一つ一つまでが懐かしい。積まれた煉瓦の、一つ一つまでが、それぞれの物語を持っていた。

 ほとんど、人のないその巨大な街を歩いた。


 石畳が白くなった。東の山脈で採れる白い石を切り出し、敷き詰めている。周囲の建造物も、全て白亜でもって塗り固められている。

 その真っ直ぐな道の先に、巨大な大聖堂の建物が見えている。

 フィンは、その中で一生を終えるはずであったのだ。人々の、祈りの対象として。

 しかし、フィンは、そこを自らの意思で飛び出し、人々に、精霊や教典に祈りを捧げるのではなく、自らの生に幸あれ、自らの隣にいる者に幸あれと、願うことをさせた。

 精霊への祈りは、一方通行である。精霊は、見守るばかりで、何かをしてくれることはない。

 しかし、人を想い、願うことは、その相手のために、何かをしようという気持ちにさせる。

 それを、フィンは、もたらしたのだ。

 ソーリの海を染めるほどの血でもって。

 東の山より高く、屍を積んで。


 その先に、ネーヴァとアイラトは居た。

 はじまりの、場所に。

 大聖堂の、正門を背にして。

 雨は、降らぬ。きっと、もう、降り尽くしたのだろう。

「ニル」

 ネーヴァが、一歩進み出た。

「ネーヴァ」

 ニルも、馬から降り、振り返って一度フィンに笑いかけると、ネーヴァの方に歩いた。

 ネーヴァのいる、数段の階段の上の、広場へ。

 フィンの後に続いた人々は、立ち止まった。

「俺たちは、ここまで来たな。ニル」

「ああ、ここまで来たのだ。ネーヴァ」

「共に、この先に行く道は、無かったのか」

「わからない。道は、一つではなかったように思う。しかし、いつも、俺たちが選べる道は、一つしかなかった」

「確かに、そうだ」

 ネーヴァが、少し笑った。

「フィンのためではない。己のためだ。それだけは、言っておく」

「わかっている、ネーヴァ」

「フィン」

 不意に、ネーヴァが、ニルの後ろ、階段の下のフィンに、声をかけた。フィンは、そっとフードを外した。

 陽の光に、薄い色の髪が輝いた。

「もう、この国に、雨を降らせないでくれ」

「それをするのは、わたしではないわ」

 と、フィンは、少し悲しそうに微笑わらった。

「わかっている。お前に、何かを言いたかったのだ」

「あなたのような人は、もう、この国には、生まれない。これから生まれてくるあなたは、皆、自ら、生を喜び、求め、生きることが出来るわ」

「そうなるといいな」

 ネーヴァが、腰からジャマダハルを抜き、拳に付けた。

「全く、馬鹿な話さ。なあ、ニル」

 ニルは、ぼんやりと、頼りなげに笑った。

「この場でも、お前は、そんな風に笑うのだな」

「仕方ないさ」

「お前を、俺は、とても好きだった」

「俺も、そうさ」

「始めよう、ニル。俺たちの聖女が、俺たちの死を、欲しがっているぜ」

「ああ。この国に、英雄はいらない。俺も、アトマスには、なりたくない」

 ニルも、ヤタガンの柄に、左手を逆手にかけた。そのまま、腰を落とす。

 龍の翼に、爪でもって応じる構え。


 一匹の金の龍が、その翼を広げた。

 もう一匹の黒い龍が、その爪を走らせた。

 それらは互いにぶつかり、火花を散らし、その位置を入れ替えた。

 二人とも、分かっているのだ。

 どちらが勝っても、フィンの創る国で、二人は生きることが出来ぬと。

 そして、それが、正しいことであると信じている。

 よく、二人でこうして、稽古をしたものだ。

 宿の裏庭、夜に紛れ、星屑の花の咲く木の下で。

 取っ組み合って、冗談を言ったこともあった。

 いつも寡黙で、茫洋ぼうようとしているニルと、細かな神経を持ち合わせ、合理的思考を持つネーヴァ。

 二人は、まるで違うようで、どこか、似ていた。

 そして、互いの足りぬものを、補い合ってきた。

 今、この瞬間において、二人は、紛れもなく、フィンの国の住人だった。

 互いの瞳の中に、自分が映っていて、その自分が微笑むことを、喜べる国。

 二人とも、その国を創るため、ここまで来たのだ。

 取る道は違っていても、二人の願いは、今、ここにおいて、重なった。


 この国に、英雄は、もう要らぬ。

 生きながらにして、伝説となる勇者は、もう要らぬ。

 二人の最後の仕事は、世の人が二人を建国の英雄とせぬよう、その身をここに葬り去ること。

 彼らの存在を、かつてのパトリアエのように腐らせぬために、彼らは今日、死ぬのだ。

 

 その二人の血の飛沫を、フィンは、浴びている。皮と、肉と、血の管が破れ、二人の命が、雨になって降るのを、その滴の歌を聴いていた。

 フィンだけではない。アイラトも、フィンに導かれて従ってきたバシュトー人も、二人がそれぞれ作ってきた血の河に自らの血を流し、それぞれ積み上げてきた屍の山のいただきに自らの屍を積もうとするのを、ただ息を飲んで、神々しいものでも見るかのように見ている。


 風は、なお暴れている。


 一度、武器が振られる度に、そこに近付いた。

 二人の道は、ここで、終わるのだ。

 しかし、二人は、知っている。

 その先に、人の希望があることを。

 それが、二人の道。

 今、同じ点に立ち、そして、二人は重なり、その先へゆくのだ。


 ネーヴァが、ニルの右肩を刺した。

 ニルは、少し眉を動かした。

 膝を繰り出し、ネーヴァの身体を離す。

 身体が触れるほどの超接近戦において、ネーヴァは、なお強い。

 二歩、三歩離れたくらいの位置において、ニルは、なお強い。

 互いに、その距離を取らせぬよう、動いた。

 死を求めながら、死を避けた。

 その美しき矛盾。

 ニルが、地を蹴った。

 また、すれ違う。

 ネーヴァの身体を通りすぎたニルの脇腹から、夥しい量の血。

 今まで散らしていた血とは違い、それは鮮やかな色をしていた。

 巧みに急所を外していたものが、遂に、そこに入ったのだ。

 ニルが、膝をつく。一気に、命が抜けたのを彼は感じた。

 その背に向かって、ネーヴァは低く羽ばたいた。

 二本の羽根を、突き出す。

 ふと、風が止んだ。

 ネーヴァの瞳に、膝をついたまま振り向きつつあるニルが、映った。

 そこから伸びる、逆手に握った鋼の光も。

 風が止んだ方が、かえって匂いは強い。

 ネーヴァは、自らの腹を、光が貫くのを感じながら、そう思った。

 ニルが、何かを言うのが、分かった。

 分かったところで、ネーヴァの思考は、途切れた。

 ニルの瞳に、拳からジャマダハルを落とし、膝をつくネーヴァが映った。その顔はニルを見て微笑わらっていたし、ネーヴァの色の薄い瞳にも、微笑うニルが、映っていた。

 光を引き抜くと、それは、消えた。


 ニルはよろめきながら立ち上がり、ヤタガンを握ったまま、フィンのもとへ。

 一歩、一歩、階段を降りてゆく。

 フィンは、また、涙を流していた。

「フィン、やったよ」

 ニルの声は、優しい。その微笑みは、暖かい。

 ネーヴァの血の滴るヤタガンを、そっと、フィンに渡した。

 このまま放っておいても、ニルは死ぬ。

 しかし、フィンに、それをさせた。

 フィンが、それをする必要があることを、誰よりも彼女を見、理解していたニルは、知っていたから。

 フィンが涙をこぼし、ニルの左手から、それを受け取った。

 その胸を、ヤタガンで刺し貫いた。その真っ黒な瞳に、微笑う自分が映っているのを、見ながら。



 ニルは、最後の瞬間、フィンの身体に崩れながら、あの花の匂いを感じただろうか。

 この国に、英雄は、要らぬ。



 誰もが、言葉を発しない。

 その静寂の中、フィンは、アイラトに語りかけた。

 新しい国のことを。

 最初、アイラトは、何を言っているのか分からなかった。何故、フィンが自分にそれを言うのかも、分からなかった。


 しかし、それを聴くうちに、フィンは、自らの最後の仕事へと進もうとしていることが、分かった。

 だから、その国の形、統治の方法などを、一つ一つ、心に刻み込んだ。


 次の頁で、この史記目録も、最後となるであろう。

 その頁を、めくることとする。

 そこに、彼女の最後の仕事のことが、書かれている。


 その前に、自らの胸に崩れてくるニルを抱き締めるとき、フィンの発した、彼女の人間としての部分から出たと思われる言葉を、記しておく。

「ニル、大丈夫よ。ありがとう」

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