悲しき谺

 ダンタールの様子を、ニルは訝しんでいた。普段なら、ニルが自隊を率い、フィンのもとに急行し、ダンタールが、街の中を哨戒するはずであるのに、何故か、ダンタールは、自らフィンのところに行く、と言い出した。

 街の中、フィンのいる館近くの、小さく開けた十字路を、ダンタールの兵が、雨に濡れながら塞いでいた。

「お前達、どうしたのだ」

 ニルが、自隊を率い、声をかけると、一人が、直立して発言した。

「ニル殿。ダンタール殿は、この街路を封鎖せよ、と我らに命じ、一人、屋根を伝い、聖女クディスの居館の方へ、向かわれました」

 パトリアエ語が上手い者である。この者が、普段、ダンタールの指示を、兵に伝えているのであろう。

 進め、止まれ、回り込め、叩き潰せ、身を低く、など、簡単な指揮なら、ウラガーンの兵はパトリアエ語でも理解する。しかし、ほとんどがバシュトー人であるため、どの隊にも、彼のように、どちらの言葉も話す者が複数いる。

「一人で?」

 ニルは、青ざめた。にわかに光った稲妻が、それをより一層青白く照らした。

 ここから、フィンの居館まで、屋根を伝い、直線距離で、四百ヴァダー(パトリアエの距離の単位で、一ヴァダーはおよそ〇.八五メートル)ほど。

 ニルならば、瞬く間にたどり着ける。しかし、間に合うか。

 また、雷光。

 ニルは、街路の樽を踏み、壁に足をかけ跳躍し、ひさしの上に立ち、一気に屋根の上に、飛び乗った。


 雨が、通り過ぎてゆく。ヤタガンは、いつでも抜けるよう、左手を柄にかけたまま。フィンの館。見える。

 ウラガーンの感覚は、どれも研ぎ澄まされている。この位置からでも、ニルは、雨がこの地と自分を打つ音の中に、獣の低い咆哮のような気合いの声と、鉄の鳴る音が混じっているのを、聴き分けていた。

 ダンタールが、戦っているのだ。恐らく、プラーミャと。敵は一人という時点で、ダンタールは、プラーミャが来たと察した。それは、最短で、フィンの命を狙ってくると、即座に思ったのだろう。だから、自分が行くと言ったのだ。

 一人で向かったのは、包囲し、騒ぎになり、プラーミャを逃がさぬため。今日、ここで、ダンタールは、長年の二人の間柄を、次の次元に進めるつもりなのだ。

 ニルを向かわせなかったのは、プラーミャの武が強大であるから、ニルが死んではならぬと思ったのだろう。

 彼は、壊す者としてプラーミャに創られ、その生を歩んできた。その最期に、彼は、壊す者を創らずともよい世を創ることを阻む者を、壊そうとしているのだ。

 そして、ニルや他のウラガーンには、壊すことではなく、創る戦いをし、その国で生きろ、と言っているのだ。

 痛いほど、それが分かった。分かるほど、痛くなった。

 とにかく、急がねばならない。


 雨が、止んだ。

 ニルは、肌を打つ感覚が変わったことで、それを知った。

 それならば、剣戦の音が、より強く聴こえなくてはならない。フィンの居館は、もう、すぐそこなのだ。

 しかし、何の音もしない。

 もう、目の前。屋根から飛び降りた。

 瞬間、凄まじい音が、鳴った。

 ニルは、駆ける。足が千切れそうになるほどの速さで。

 前方に、人の姿。夜でも、それが分かる。フィンの居館の軒先に吊るされた小さな火が、ニルに、彼らの居所を示していた。

 彼らは、微動だにしない。ニルは、ヤタガンを抜いた。無駄だと知りながら。

 その背は、よく知ったものだった。ダンタール。

 しかし、見慣れぬ大剣が彼の肩を割り、背中の真ん中から飛び出していた。

 血が、足元の水と混ざっている。

 フィンの姿。ニルは、ようやく、駆けるのをやめた。フィンが、何も言わず、二人を見つめている。

「フィン!」

 ニルの声に、フィンが気付いた。

「ニル」

 と、フィンは力無い笑みを返してくる。

「二人は、今、死んだわ」

 その視線の先にあるものを、もう一度見た。

 ダンタールと、以前に一度見たことのあるプラーミャが、剣を互いの身体に食い込ませ、絶命していた。剣を、握り締めたまま。

「嘘だ。ダンタール」

 ニルが、水の音を立てて、石畳に膝をついた。

「いいえ、二人は、今、死んだの」

 フィンの言葉には、何の感情も滲んでいない。

「ダンタールは、わたしを、わたしの創る国を守ろうとして、死んだ。プラーミャは、わたしが国を創るのを阻もうとして、死んだ」

 フィンは、雨に濡れて重くなった灰色のフードを被った。それは奇妙な動作のように思えるが、パトリアエは、雨が多い。彼らは、我々ほど、衣服が濡れていることを、気にしないのかもしれぬ。あるいは、何かの象徴として描かれているのか。

「これで、プラーミャの邪魔が入ることはなくなった」

 彫像のように動かない二人を見ながら、フィンが言った。

「フィン、今、なんて」

 ニルが、膝をついたまま、蒼白な顔を、上げた。

「プラーミャを、誘い出したの。上手くいったわ、ニル」

「フィン?」

「わたしが、再び現れたと、アトマスに知らせた。わたしの戦いを、したの。アトマスなら、わたしが生きていることを、察すると思って。案の定、彼は、プラーミャを送り込んできたわ。わたしを、消すために。わたしは、ここで、彼を、消しておく必要があったの」

「ダンタールに、それをさせた、のか?」

「そういうことに、なるわ」

「フィン。ダンタールを利用したのか」

 フィンの答えは、同じであった。



 ある読者氏より、序盤、ニルとフィンの邂逅、そして別れについて、どうかこの二人には幸せになってほしい、という感想を頂いた。筆者は、この史記目録を編みながら、不思議と、二人がたとえば婚姻の契りを結び、共に手を取り合って生きてゆく姿など、想像したことがないことに気がついた。

 おそらく、このくだりが、そうさせるのであろう。

 いつも、二人は混じり、そして、離れる。その先に何があるのか、ニルにも分からない。恐らく、フィンは知っているであろう。

 しかし、筆者にも、また勇気が足りぬ。フィンに、そのことを尋ねる勇気が。

 どうやら、フィンは、自分の個人の幸福や感情のことを、一切考えぬものらしい。そのような人間に、ニルとこの先どうなるのだ、などと尋ねるだけ、無駄というものであろう。

 ただ、歴史の転換点において、歴史自身が遣わした、特異なるもの。それが、フィンだ。ただ、時を動かすため。そして、時の流れを、美しいまま、止めるため。誰も成しうることが出来ぬことを、成すため。

 筆者もまた、この史記目録を編みながら、史記の中に、溶け込んでしまっている。彼らの悲しみが、怒りが、喜びが、そして希望が、聴こえるのだ。

 聴くべきは、それである。


 続ける。



「フィン。嘘だと、言ってくれ」

「言ってほしければ、言うわ。でも、それに、何の意味もない」

「フィン」

 ニルの眼が、悲しみで満たされてゆく。

「ニル。ごめんなさい。わたしには、こうすることしか出来ないの。なぜなら、わたしは、こうしなければならないの」

「なにを、言ってるんだ」

「人の血と、死を操る、汚れた聖女」

 フードの向こうのフィンが、どのような顔をしてそう言うのか、ニルの位置からは見えない。

「でも、覚えていて、ニル」

 フィンは自らニルの方に身体を向け、駆け寄り、自らも膝をつき、顔を近付けた。雨に濡れた髪や外套や、フィンの息から、星屑の花の匂いがした。涙は、流していない。しかし、星屑の花が、泣いているように思えた。

「この悲しみも、あなたの怒りも、必ず、あたらしい国で生きる希望になる」

 ニルは、思った。あぁ、その国を見、そこで生きることは、自分もフィンも無いのだ、と。思うと、何故か、理由もなく、涙がこぼれた。

 間近で見るフィンの顔は、美しい。それを更に引き寄せ、ニルは、唇を重ねた。

 ほんの僅かな間、二人はそうしていて、すぐに、もとの二人に戻った。

 ニルは、涙を流していた。フィンは、それをそっと指で拭い、悲しげに眉を下げ、微笑んでいた。


 ダンタールの命を使い、フィンは、大きな驚異を取り除いた。城で言えば、リョートという二の丸を焼き、プラーミャという内堀をも埋めたことになる。


 翌朝、フィンは、雨が上がったまま濡れている広場に、陽光の中、立った。髪が、石畳が、きらきらと輝いている。ウラガーンの者は勿論、そうでない者も皆、ダンタールの死に、大きな衝撃と悲しみを感じていた。

「戦いを。わたし達の翼の一つが、昨夜、折れました。それは、あまりに悲しい。あまりに痛い。しかし、その翼は、折れる刹那、敵の翼を、もぎ取った。彼の死を、いたみましょう。彼が、わたし達に、生きよ、創れと言ったものを、求めましょう。翼は、まだある。それを羽ばたかせ、飛翔しましょう。天高く、雲を割いて。わたしたちは、雨を司る龍。ならば、雨を、早く止ませましょう。光の中、花が咲き、それを愛でることをしましょう」

 兵から、悲しみの嗚咽と、奮起の声が、同時に上がった。

「血の、河を。屍の、道を」

 フィンが、そう唱えた。誰かがそれに続き、瞬く間に、それは、全軍に伝播した。

 兵糧の残り。それが尽きるまでに、決着はつく。


 兵を、発した。全軍出撃。目指すは、首都パトリアエ。

 彼らは、声を上げ、進んだ。声を出すというのは不思議なもので、全軍で呼吸を合わせ、それを行うと、不思議な高揚と、言いようのない悲憤が、彼らを濡らすのだ、

 血の、河を。屍の、道を。

 その悲しき谺が、パトリアエに、響いた。

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