リョートが、戻った。どこかで、それを待っていた自分が居るのを、コーカラルは否定することが出来ない。薄暗い、地下の部屋。世話をしに来る女達は、決してコーカラルに口をきかない。リョートが、唯一、コーカラルと会話の出来る人間であった。そして、リョートは、限りなく優しくコーカラルに言葉をかけ、限りなく激しくコーカラルを抱いた。暑い、寒いは分かる。しかし、今がいつなのかも分からぬ。時間すらも絶たれたコーカラルと外界とを繋ぐ唯一のものが、リョートだった。

「長く留守にして、済まなかった」

 リョートは、まずコーカラルを執拗に抱いたあと、こうして、優しく、どこに行っていて、何をしていたのか、話してくれるのだ。何か珍しいものを見たとか、面白いことを聞いたとか、そういった娯楽的な情報と共に。

 リョートは、にかかっていた。そろそろである。プラーミャは靡いたが、ウラガーンは、やはり靡かなかった。それどころか、今まで隠れていた勢力を全て糾合し、ユランなる名を名乗り、ノゴーリャを封鎖し、表の世界に殴り込んできた。すでに、プラーミャを伴い戻る道中、その首魁の名も、何者であるかも、全て聞いた。コーカラルが、プラーミャ自ら育てた者であることも、聞いた。

 蛇とは、頭を潰すものだ。尾を切っても、仕様がない。プラーミャは、ユランを、自らの手で潰すと言った。しかし、リョートはそれをさせるつもりはなかった。あれほど優れた情報網、戦闘力を持った集団である。丸ごと潰してしまうのは、惜しい。蛇の頭だけを潰し、身体はそのまま手に入れればよい。それもあるが、なにより、プラーミャの手を、汚れたものにしてほしくなかったのだ。自らが作ったものを、子を、自らが潰す。そのようなことを、プラーミャにさせたくはなかった。ずっと、高潔なままで。己を持たず、ただ国家のために。彼にそれをさせれば、自らの手で己を壊すことになる。において、それは、あってはならないことなのである。

 この世にある、あらゆる国。かつて存在した、あらゆる国。これから生まれる、あらゆる国。そのどれと比べても、最も美しい、唯一の国に、パトリアエはなるのだ。それが、アトマスの、リョートの、理想。王など、飾りでよい。民のために、国家はあればよい。そして、その全ての者が、汚れなく、美しくあらねばならない。汚れきっているのは、自分と、父と慕うアトマスの二人でよい。そう思っていた。



 汚しついでに、目の前の女の心に打ち込んできた楔に、鎚を振り下ろすことを、しようと思った。今日、この女は、壊れるのだ。

「今日は、あまり、お話をしないのですね。つまらない旅でありましたか」

 と、コーカラルが乞うように言う。この、おもねるような猫なで声が、リョートは嫌いだった。しかし、この女を、心から愛していると自分で思い込んだ。二重思考とでも言うべきか、全く興味も何もない、忌むべき生き物を目の前にしながら、それが心底愛しくてたまらない自分を、自分の意思で作り出し、それをほんとうの自分だと信じ込んでいるのだ。

「お前に、話すべきかどうか、迷っていたのだ」

 と、リョートが言う。コーカラルは、ちょっと不思議そうな顔をした。

「ウラガーンが、滅んだのだ」

 コーカラルの脊椎に電流が走るのを、リョートは見た。その眼は、その名の通り、氷だった。アトマスの願いは、氷の青が、空の青になること。しかし、その氷は、ほの暗い地下の灯火を、揺らしているに過ぎない。

「お前のウラガーンは、もう、この世にない」

「ダンタールは?ネーヴァは?」

「名までは、私は知らぬ」

 と嘘を言った。

「パトリアエ中央正規軍が、彼らと戦った。お前の知る者かどうかは分からぬが、彼らは、一様に、マホガニー色と炭色の縞の外套を着て、戦った。恐るべき、武の力だな。ウラガーンは」

「彼らは、死んだの」

 コーカラルが、最も聞きたいことが何なのか、リョートは分かっている。だから、論点を迂回させた。

「多くの者が、死んだのだ」

 そう言って、コーカラルの髪を撫でた。その手を、コーカラルは恐るべき速さで跳ねのけた。リョートの眼には、その動きは捉えられない。これが、ウラガーンなのだ。

「ごめんなさい」

 我に返ったように、コーカラルは言った。

「いいさ。お前の仲間も、私の部下も、死んだのだろう」

 涙も出ぬ、とは、今のコーカラルのことだろう。信じるしかない唯一の情報について、長く、検証するということから遠ざかっているために、それはすなわち、真実となるようになっていた。

「なかでも、驚くほどに大きな剣を振り回す男。それと、両の手に、おかしな武器をつけて戦う、猫のような金髪の男。その二人に、最も手こずったそうだ」

 コーカラルの眼の中に、ダンタールと、ネーヴァが映ったのを、リョートは見た。彼らが、どのように死んだのか、聞きたくないが、知りたがっている。

「大勢の中央正規軍に囲まれても、二人は、最後まで立っていた。しかし、いかに彼らが強くとも、数の力には叶わなかったらしい。金髪の男が、槍に串刺しにされかけて、斧を受けようとしたとき、それを庇おうと、大男が割り込んできたそうだ。二人は、もう、既に死んでいたのかもしれんな。しかし、彼らは、立っていた。そして、最後の力で、互いに刺し違え、死んだそうだ」

 コーカラルの眼が、洞穴のように広がってゆくのを、リョートは、心底憐れに思った。そういう自分を、作ってきたのだ。

「なあ、コーカラル。私の、愛しいひとよ。お前の悲しみは、痛いほど分かる。それを、私に、分けてはくれぬか」

「分けるのですか」

 コーカラルは、もう放心状態になっている。

「そうだな。せめて、彼らの思い出話を、聞かせてほしい」

 コーカラルは、そもそも、自分がここに捕らわれているということを、忘れている。彼女は、彼女の心の中で、完全に、リョートのものになっているのだ。

 彼女は、リョートの嘘という唯一の真実を、簡単に受け入れた。そして、死者のために、思い出話をした。

 それで、リョートは、ウラガーンの全てを知ることが出来た。



 意外だったのは、フィンのことである。何故かバシュトーに亡命した、アトマスの実の娘。それが、裏で糸を引いている。アトマスに、報告すべきか、どうか。

 様々な情報を総合すると、フィンは、全て、自らの意思で、こんにちのこの混乱をもたらしたとしか思えぬ。バシュトーも、パトリアエも、彼女の手の中で、彼女が描いた絵を自らの地図にし、踊っていたとしか思えぬ。

 ほんとうの敵を、リョートは知った。恐らく、彼女は、今、時を待っている。リョートがそう考えているように、蛇の頭を潰す時を。蛇の身体を、そのまま手に入れるために。

 あえて、バシュトー人を亡国の民にしたのは、そのような曖昧な形態で、国が成り立つはずがないことを、彼女が知っているから。束の間の安寧の味を与え、かつ無理を生じさせ、安寧をさらに求めさせる。そうして、一つの方向に向かう力を、極限まで引き出すのだ。それらが向かう先は、パトリアエ。リョートが、アトマスが、心血を注ぎ、築こうとしている、美しき国。それを、そのまま、彼女は、手に入れようとしている。そうとしか思えない。

 ほんとうの敵とは、自ら敵であるとは名乗らぬものか。敵ではないものを敵と思わせられ、幻の中で、リョートは戦っていたのか。行き場のない怒りが、こみ上げてくる。全て、アトマスの娘のために、部下をバシュトーとの大戦で死なせ、国内を困窮させ、必死でそれから這い上がるため、何もかもを塗り替えた。それがなければ、パトリアエは、今なお、不正と汚濁にまみれたままの国であったろう。

 全て、フィンが描いた。自らが、戯作の登場人物の一人でしかないことに、耐え難い屈辱と、怒りを覚えた。

 ウラガーンなど、どうでもよい。この国の、いや、この世界のために、生かしておいてはならぬ者が居るのだ。それが、アトマスの娘であった。

 アトマスには、何も言わぬことにした。言っても、悲しませるだけだ。アトマスは、その悲しみを、また高潔な心で浄化し、進むのだろう。それでは、いけない。自分の国に、悲しみの曇りなど、一つとして、あってはならないのだ。そう思った。

 蛇の頭を潰し、身体を手に入れることを思っていたはずが、いつの間にか、その蛇は、反吐が出そうな感情に、未だ、誰にも名をつけられることのなかった感情になって、リョートの中を駆け回っているではないか。

 これは、頭を潰すことにはならない。いつの間にか、尾を頭だと思い込まされ、躍起になっていたのだ。しかも、もう、後には引けぬ。なにしろ、ユランが存在してしまっている。蛇の尾に、パトリアエは、自ら食らいついてしまっているのだ。離せば、蛇から、手痛い反撃を食らう。

 どうにもならぬ。西の国で流行っている、象牙や木で作られた駒を決まり通りに動かして戦う遊びを、王宮でしたことがある。その遊びで言うならば、今のこの状況は、チェック・メイトである。

 それを、覆すには、遊びの決まり事を、規範を、秩序を、無視した行動が必要になる。

 いつまで、続けさせるつもりだ。

 心の中で、見たことも会ったこともないフィンに向かって、言った。


 そのフィンの作った決まり事と規範と秩序によって締め付けられた遊びの中で、一つ、フィンの知らぬがある。それをするのにちょうどよい駒が、今目の前で、遠い眼をしながら、聞きもしないウラガーンの思い出話を、まだぺらぺらと喋っている。

 それを、そっと遮って、リョートは言った。

「コーカラル」

 彼女は、リョートに名を呼ばれるのが、好きらしい。歳の割に可愛らしい目元を、向けてきた。

「一つ、お前に頼みがあるのだ。お前にしか、出来ぬことだ」

 コーカラルは、嬉しそうな顔をした。

 駒とは、使うものである。コーカラルと同じ顔をしてやっているリョートにとっては、ただそれだけのことであった。 

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