世界を注ぐ

 ニルは、そこに居た。ダンタール、リューク、ストリェラと共に。そこに居た、というのは、初めて、彼らが、表舞台に立ったことを示したいから、そのような表記をした。



 王国歴三百二十六年の、初夏。彼らは、そこに居た。首都グロードゥカの、王宮や軍本営にほど近い一角の、壮大な館の、屋根の上。

 その身を包む外套には、マホガニー色と炭色の縞。密かに、あつらえたものである。それを、雨に濡らして。

 別に、制服というわけではないが、その縞模様は、雨の夜、彼らを闇に溶け込ませるから、彼らは好んでそれを用いる。

 濡れたまま、彼らは立っている。喜ぶでもなく、悲しむでもなく、ただ闇を見ながら。

「行くぞ」

 夜に出す声で、ダンタールが言った。言って、中庭まで降りた。音もなく。

 雷鳴。そして、稲光。今夜の雨は、いつもより強い。しばしば光るそれが、彼らの形を一瞬、浮かび上がらせた。

 屋内への扉。鍵が、かかっている。ニルが素早く、きりのようなもので、その錠前を壊した。その間、三人が周囲を警戒している。

 中庭にこそ人影は見えぬが、雷雨の夜でも、警護の兵の詰所らしき小屋には、明りが点っていた。夜通し警備をしているらしいが、特に目立った警戒は見られない。

 このご時世に、国の頂点にある者が、不用心なことだ、とダンタールなどは思ったが、ウラガーン相手ならば、どのような用心をしたところで、同じことであろう。

 屋内を、滑るように駆ける。パトリアエの建築様式は決まっている。主の部屋は、最も高く、そして奥の部屋にあるのだ。その部屋の扉を、音もなく開いた。しかし、そこに、人影はない。ウラガーンは、戸惑った。標的が、夕暮れ時、館に戻るのを、確かに見届けたはずだ。

「館の中を、探すのだ」

 雨に濡れた足跡が、床を戻った。二人、館の中を巡回している警護の者を、見つけた。普通ならば、身を隠すところだが、このときのウラガーンは、違った。

 四人、顔を見合わせると、その兵の持つ灯火へ向かって、殺到した。驚いた兵が、剣を抜こうとする。しかし、一人はダンタールの突進を受け、もう一人は壁を蹴って後ろに回り込んだニルにより、羽交い締めにされた。膝を曲げられ、身体の自由を奪われて。

「主は、どこにいる」

 ニルは、耳元で、囁いた。口を塞がれた兵は、教えぬ、という風に、首を横に振った。向かいで、ダンタールも、同じようにしている。そのダンタールが、ニルに目配せをした。

 ニルは、口を強く塞ぎ、おもむろに、自らの短剣を兵の腹に突き立てた。兵が、ニルの手の中で、くぐもった絶叫を上げる。

「言え。お前も、ああなるぞ」

 ダンタールは、を、捉えた男に見せた。居館であるにも関わらず張られた武骨な石の床に転がった灯火の上、ニルが捉えている男が腹を更に裂かれ、全身を激しく痙攣させ、自らの痙攣でもって内蔵を撒き散らし、血の海を作っている。

「ああなりたいのだな。よし」

 ニルが、腕の中の男を捨て、リューク、ストリェラと共に、ダンタールが捉えている男のほうに、歩み寄った。

 人というのは、不思議なものである。はじめ、ゆっくりと歩み寄る三人に、男は震え、呻いているだけだった。しかし、ニルが、その靴で床に落ちた灯火を踏み消したとき、男はダンタールの口の中で叫んだ。

「地下だ。地下に、おられる」

 男は、それを言い、自ら舌を噛んだ。血と闇の恐怖に一時でも負けたことを恥じたのか、主に対して申し訳が立たぬと思ったのかは、分からない。どちらにしろ、この館の主は、やはり相当な人物であることを、感じた。舌を噛んだところで、すぐに死ぬわけではない。しかし、男は、自ら望んで、それを示したのだ。それに、ダンタールが止めを刺してやった。

 二つの死体を置き去りにして、四人は駆けた。地下へ。一階の広間にも、兵が四人居た。やはり、少ない。そのうち三人を、ダンタールは一振りで薙ぎ倒した。今度はリュークが、地下への階段の在処を聞き出し、殺す。

 その男が示した方向。

 階段が、ある。

 やけに冷たい風。

 まるで、氷でも貯蔵されているような。

 四人のウラガーンが、降りる。

 長い、階段を。

 その、一番下。

 木の板に鉄枠が嵌め込まれた扉を、開ける。

 開けた先は、何もない、空間。ただ、椅子がひとつと、男が一人。

 壁に、ぼんやりとした灯火がかかっている。それに、男は揺れていた。どこからか絶えず落ちる、水滴の音と共に。

「何者だ」

 男の声は、落ち着いていた。氷のように、冷たく。

「お前の命を、奪う者だ」

 そう言って、ダンタールが、剣を構えた。男も、腰から長剣を抜いた。

「ウラガーンか」

「それを、隠そうとは、もはや思わぬ」

 男は、とても平静であった。あろうことか、含み笑いをしている。

「壊しに来たか。俺も、今、壊しているところだ」

「何の話だ」

「腐った国を。そこに棲む、魔物を。そう、この部屋でも、俺は、一人の魔物を、壊した」

「コーカラルのことか」

「おや、コーカラルを、知っているのか。俺の愛しい、コーカラルを」

「貴様、あいつを、愚弄するのか」

「あの魔物は、俺が壊した。犬か猫にでもなるかと思ったが、魔物を壊したところで、中から出てきたのは、やはり魔物だった」

「許さん」

 ダンタールが、剣を深く構えた。

「あれは、あれの意思で、動いたのだ。俺は、頼み事をしただけだ。お前が今、いかるのは、何のためだ。彼女のためか。違う。自分のためだろう。彼女を、大切に思いながら、守ることの出来なかった、自分にお前は怒っているのだ。それを、俺は壊したい」

「お前、頭が普通じゃないな」

「人の心に棲む、怒り、悲しみ。その全てから、人は、解き放たれなければならぬ。お前ですら、俺は、壊し、救ってやりたいと思う。そこにこそ、清く、美しい、俺達の国が、出来上がるのだ」

 しかし、と男は続けた。

「それも、どうやら、ここまでか。馬鹿なことだ。俺は、お前達の愚かしさに、足元を掬われるわけだ」

 なにが面白いのか、男はまた笑った。笑って、ふと気付いたような顔をした。

「そうか。これは、俺の負けか」

「そうだ。俺達を全て斬れば、あるいは、勝てる」

「いいや、負けだ。俺は、自らの力に、酔っていた。自らの才知よりも優れたものを持つ者など、この地上にいるわけがないと、どこかで確信していた」

 ウラガーンは、誰も答えない。

「それが、俺の、つまづき。クディスのフィンは、まだ生きているな」

 二人のやり取りを聞いていたニルは、ちょっと驚いた。何故、それが分かるのか。

「お前。今、驚いたな。分かるさ。現に、お前達は、今こうして、俺の前にいるではないか。他の誰が、俺を殺そうなどと思い付くのだ」

「どういう、意味だ」

「愚かなり、ウラガーン。自らの牙を、爪を、聖女に使われるか。お前達ほどの武があれば、他に何でも出来るというのに」

 男の腰が、深く沈む。猫のような身体。少し、ネーヴァに似ている。灯火に揺れる、金色の髪も。

「俺のすることは、他には無い」

 ニルが、ダンタールを制し、進み出て、腰のヤタガンの柄を、逆手に握った。その方が、斬撃の威力は出ぬが、順手のときのように腕を回さなくてよい分、速く抜ける。男の姿勢、目配りから、自然とそう選択した。

「俺は、フィンなのだ。聖女でもなんでもない、フィンなのだ。俺には、他に、何もない。お前の言う、怒りや悲しみのない国を、フィンならば、作れると、そう信じているのだ」

「面白いことを言う。では、そのフィンのすることが過ちであったとき、お前は、どうする」

 ニルは、ちょっと考えた。口の周りを覆う布を、空いている手で、外した。

「ならば、俺も、過ちを、共に償おう」

 フィンと共に。それを、言う必要はないと思った。言う必要がないついでに、別のことも言った。

「お前に、こんなことを言っても、仕様がないが」

 ニルは、少し足を開いた。男も、同じようにした。ダンタール、リューク、ストリェラの三人は、いつでも飛びかかれるよう、武器を構えている。

「自分でも、分からなかった。しかし、今は、はっきりと分かる。フィンの、見るもの。フィンの、考えること。フィンの眼の中の、世界」

 ヤタガンの柄を握る左手の指に、僅かに力が加わった。それだけで、凄まじいまでの殺気が放たれた。

「それに、俺は、憧れているのだ」

 そう言って、彼の持ち味とも言える、頼り無げな笑みを、見せた。

「そんな、理由で」

 ニル以外の三人のウラガーンは、唾を飲み込んだ。これほどまでに強い殺気を放つ者を、誰も見たことがない。

「お前が何故死ぬか、分かるか」

 冷たい風。扉は、閉まっているはずなのに。

 男の方から、それは吹いてくるようだった。

「お前の死ぬ理由わけは、お前が知っている」

「そうだな。俺は、お前に殺されるのではない。自らの道を、疑うということをしなかった、自分に殺されるのだ」

 抜いた。

 男の方から。

 冷たい、風。

 それが、頬に来た。

 同時に、炎のような熱も。

 しかし、ニルは、怯まない。

 その風を受けながら、一歩、踏み出した。

 風が吹き付けるなら、更なる風を呼び、巻き返すのみ。

 右足。筋肉が縮むのを、感じた。身体をねじるようにして、ヤタガンを抜く。

 もう、長い間、何人ものを、斬ってきた。

 しかし、今はじめて、そのヤタガンが、光った。

 小さな、光。

 そして、星屑の花の、香り。

 それを、感じた。

 その香りは、風となり、男の向こうへと吹き去った。


 静寂。ニルの頬から流れる血液が、雨の滴のように、石の床に、落ちた。

 絶えず鳴っている水滴の音に、それは混ざった。しかし、いつものように洗い流す雨は、降らぬ。

 星屑の花の匂いだと思ったのは、血の臭い。その中に、男は沈んだ。

「そして、俺が生きる理由は、俺が知っている」

 血振りをし、ヤタガンを革の鞘に戻した。

 その場に、座り込む。

「ニル、斬られたのか」

 三人のウラガーンが、駆け寄ってくる。

「いや、大したことはない。でも、少し疲れた」

 仲間の前では、気を許す。男と話したときのような、堅い口調ではなくなっていた。

「俺、見たんだ」

 あまりの立ち会いに、ニルの精神は消耗しているらしい。一気に襲い来る疲労を隠せぬ息と共に、言った。

「九年前の、あの日。はじめて、俺はフィンに会った」

「ああ、覚えているさ」

 リュークが、ニルの背を支えてやる。

「そこで、俺は、フィンの眼を見た」

「眼が、どうした」

 ストリェラが肩を貸し、差し伸べられたダンタールの手を取り、ニルは立ち上がった。

「そこに、世界があった」

「ニル、何を言ってるんだ」

「暗闇の中、俺が、映っていたんだ。それが、世界だと思った」

「ニル、大丈夫か」

「大丈夫だ。俺には、何もない。あのとき、フィンの眼の中に、俺を見たのは、俺という空っぽの器に、なにを注ぐべきか、フィンが見せてくれたのだと思う」

「そうか。お前がそう思うのなら、そうなんだろう」

「九年経って、やっと分かった。俺の見たいもの、知りたいこと、行きたい道を、そこに、注いでゆかねばならないのだと。それが、生きるということなのだと」

「ニル」

「俺は、フィンと共に、生きる。ダンタール。コーカラルのことは、とても残念だ。しかし、その悲しみは、あんたの中に、注がれただろう。だから、あんたは、進まなきゃいけないんだ」

「リュークにとって。ストリェラにとって。俺達は、それを、自分の世界を、内に注いで、生きてゆくのだ」

「ニル。わかった。怒りや憎しみで、生きて行くことは、出来ないとお前は言うのだな」

 リュークが、言った。

「少し、違う。怒りも、憎しみも、悲しみも、全て、俺なんだ。何でもいい。自分が、自分であることを喜べる国。そんな国で、俺は生きたい。ただそう思っているだけだ」

「ならば、お前の言うそれを、お前は証明しなければならないな」

「ああ、そうする」

「俺達兄弟も、付き合うことにする。いいな」

「あんた達の、したいようにすればいい。俺は、嬉しい」

「ダンタール。あんたは、どうする」

「俺も、そうする」

 コーカラルを失った悲しみの他に、心に引っ掛かりがある。プラーミャ。その引っ掛かりを、解消しなければならない。自らが望み、願い、生き、そして、他者に向き合わねばならない。

 そうして、四人のウラガーンは、館を出た。雨は、止んでいた。朝が近付く夜を、また密かに、音もなく駆けてゆく。



 史記のこのくだりで、筆者もまた想像を裏切られた。アトマスの暗殺、パトリアエの瓦解を狙ってくると警戒していたリョートの思考を、遥かに上回ることを、フィンは考えていたのだ。そう、今さら、言わずもがなだが、ウラガーンが忍び込んだ館は、リョートの館。パトリアエの次代を担う宰相リョートは、王国歴三百二十六年の初夏、ここで死んだ。

 リョートを無き者とし、フィンは次に何を見るのか。ニルはともかく、他のウラガーンも、筆者も、彼女が産む乱れには、全て意味があるのだと、ようやく思えてきた。


 フィンの実の父アトマスは、生きている。あれほど手をかけ、愛したリョートに、残された。

 ニルの言う通り、生きるということは、器に、世界を、ゆっくりと注ぎ込んでゆくことなのであろう。しかし、それが一挙になだれ込み、溢れたとき、人は、どうするのであろうか。

 同じくコーカラルという大切な者を失ったダンタールは、呆然とし、そしてそれを受け入れる方へと向かい始めたように思える。

 では、アトマスは。

 単純な疑問の、数ある解のうちの一つについて、次の頁から、述べられてゆくであろう。

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