第八章 パトリアエ動乱
英雄と宰相
リョートは、沈思していた。この先、パトリアエを、どう守ってゆくかについて。そのため、必要なことについて。そして、その障害となるものについて。
その最たるものであろう、クディスのフィンは、コーカラルを放ち、殺した。刺し違えてコーカラルも死んだが、その挙げた成果と比べれば、軽微な損害であった。
コーカラルもそうであるが、結局、リョートが月日を費やして作り上げた作品でも、心ない者の手にかかれば、一瞬にして壊される。この国だけは、そうはさせぬ、と強く思っても、思いもしないところで、つまづくものだ。父と慕うアトマスが、そう言っていたことがある。
リョートは、今まで、一度もつまづいたことはない。民政も軍を整えることも、全て、完璧にこなして来て、パトリアエはバシュトーとの大戦の傷を癒すどころか、その前よりもよほど強く、美しい国になった。これから、最後の仕上げである。その国を長く受け継ぐことが出来るための準備が必要だ。このまま、自分一代限りで、終わらせるわけにはいかない。もはや、アトマスは権威の象徴のようになっていて、当人もそれを
この王国歴三百二十六年の、初夏。この月は、精霊を崇め、祝う祭りがある。フィンが逃げ出した、あの祭りだ。その前は、皆、仕事を休み、祭祀の準備をする習わしになっている。日本で言うところの、お盆に似ている。
リョートは、このとき、久しぶりにアトマスの顔を見た。思わずはっとするほど、僅かな期間で、アトマスは老いていた。老人と言うにはまだ早いが、髪はほとんど白くなり、顔の皺も深くなっている。なにより、眼だ。眼の光が、以前とはまるで違っている。アトマスの眼は、いつも、深く、強い光を放っていた。その眼で、時の流れを、人の心を、そして取るべき道を読み、ここまで来たのだ。しかし、今リョートの前にある二つの光には、穏やかさがあった。それは、リョートにとっては、鮮やかな驚きであった。
自らの役目を思い定め、それに邁進しているとき、人の身体は、生き生きとする。しかし、その役目を終えたと思った瞬間、ほんとうの老いが来るのだ。そういう話を、リョートは昔、アトマス自身から聞いた。今のアトマスは、その老いに、覆われようとしているように思えた。彼も、人間なのだ。人間であれば、王でも罪人でも、等しく老いる。それが、例え、英雄アトマスであっても。
リョートは、その手を取った。皺が増え、皮膚には力が無くなっている。この手では、かつてのように、あの巨大なヴァラシュカを振るうことは出来ぬのではないか。この身体では、あの重厚な白銀に輝く鎧を身にまとうことは出来ぬのではないか。
それを、肯じ、受け入れ、許せるだけのものを、自分は作れているのか。つい、そのような自問が浮かんでくる。アトマスが受け入れられても、リョート自身の中のアトマスは、この地上で最強の武で以て、パトリアエを脅かす全ての敵を打ち払う存在なのだ。その後ろ楯があってはじめて、リョートはリョートで居られる。
国内はよくまとまっているが、まだ磐石とは言えない。リョートの考える最後の仕上げとは、アトマスの持つ権威を自らに移行し、名実ともにこの国の支配者となり、人々を導いて行ける体制づくりのことである。
それでいくならば、今、最も恐れるべきは、アトマスの暗殺である。アトマスが非業の死を遂げ、その存在が悲しみと共に、伝説として人々の間に刻まれてしまえば、リョートはもう一生アトマスを越えることは出来ぬのだ。そうなれば、このパトリアエに未来はない。何としても、この老いた英雄を、守らねばならぬ。昔ならばいざ知らず、今のアトマスが刺客に襲われ、無事でいられるかは分からぬ。リョートは、それとなく、アトマスの館や、王宮や軍営に出仕するときの警護の様子などを聞いた。
アトマスは、笑いだした。
「リョート。俺が、心配か」
心を見透かされた。光の質が変わっても、その眼が見ているものは、変わらぬのだ。そう思うと、少し安心できた。
「いえ、
「そうか」
眉間の深い皺だけは、昔と、それこそリョートが子供の頃と、全く変わらない。
「この国を、担う者として。そして、一人の人間として、そう思っています」
これは、リョートの本心であった。そして、願いであった。国を愛する、愛すべき主に、師に、父に、自らの国が出来上がるのを、見せたい。そして、その国を、自分が受け継ぐのを、見て欲しい。
なにか、とても美しい歌を歌うように、リョートは心からそう思っていた。
リョートの凄いところは、決して、油断をせぬことだ。最大の仮想─と言えるかどうかは分からぬが、明るみにはなっておらず彼の思考の中でのことだから、仮想とあらわす─敵である、フィンを葬ってもまだ、彼女のような恐るべき敵がいるものとして、万事にあたる。
臆病こそ、最大の武器になる。しかし、恐れはしない。リョートとは、そういう男だった。
「ユランは、激昂しています。我々が、彼らの仲間を使い、捨て駒にしたのを、恨みに思っています。いつ、南のクディス、いやバシュトーと手を組み、パトリアエになだれ込んできても、おかしくはありません」
感傷的な想念は思考の隅に置き、情勢の分析をはじめた。分かりきったことだが、こういう意思の擦り合わせも、大切なのだ。
「しかし、ユランは、バシュトーをも、敵であるとしているのだろう」
「はい。しかし、それは、あくまで、今の話。明日、この世界がどうなっているかは、分からぬのですから」
「小賢しいことを言うな、リョートは」
と、アトマスは嬉しそうにした。そのような表情も、以前なら見せなかった。
「では、あらゆる事態を想定する宰相リョートは、次に、何を考えるかね」
「かつてのリベリオンの、プラーミャを使うことも考えました。しかし、それは、したくない」
「何故だ」
「彼に、かつての同胞を殺させることになるからです。それは、悲しいことです」
「優しいな、お前は」
「この国に、悲しみは、要らぬのです」
「人を物のように捨て駒にするお前と、慈しみ、幸福を願うお前が、いるわけだな」
アトマスの眼が、やはり穏やかな光でもって、リョートを覗き込んできた。
「いいえ、私は、私です」
「そうか、ならば、お前に任せる」
アトマスは、リョートが頭角を現し始めたときから、思っていたが口には出さなかったことを、言った。
「お前は、失敗がない。しかし、失敗をしてもよいのだ。どのような失敗でも、お前ならば、そこから、何かを必ず掴める。リョートとは、そういう男だ」
リョートは、しばらく、言葉が出ぬようだった。
「そのようなこと」
「言わずともよいことを、言ったな」
「いえ、感謝します」
リョートは、胸の前で手を組み、深々とパトリアエ式の拝礼をした。精霊に祈るときと同じ仕草を、この国では、敬う者にもする。
それが、リョートとアトマスの、最後のやり取りとなった。
満身の疲労。それを感じさせぬほどに、リョートは忙しい。あちこち飛び回り、グロードゥカに居るときは執務室に籠りきりで、アトマスの顔を見ることも出来ず、その老いに驚かねばならぬほどに。
何故、時は流れるのか。流れると言えば、水だ。首都グロードゥカを潤し、古来、繁栄をもたらしてきたアーニマ河の水に例えても、駄目だ。放っておいては、神話に出てくる
もし、それがほんとうならば、大精霊アーニマは、今、リョートの求めに応え、治水ではなく、水の流れの止め方を、教えなければならない。
水が流れれば、東の山に降った雨の一滴は、いつかソーリ海に注ぐ。時が流れれば、堅牢で荘厳な建物も風化し、崩れ落ちる。それと同じように、国そのものも、古くなる。
そうならぬためには、流れそのものを、止めることが、最も早い。
しかし、流れは、止まらぬ。やはり、水などに例えても、駄目なのだ。
余談ではあるが、徳川幕府が、二百数十年にわたり続いた理由を、ご存知だろうか。勿論、様々な理由が複合的に絡み合い、太平の世と言われる時代が長く築かれたわけであるが、筆者は、その秘訣のうちの一つに、徳川幕府の、ある政策があると見ている。
「全て、新規なるものを禁ず」
と、幕府は言う。それにより、武器は勿論、あれこれの道具類に至るまで、新たなものの開発が、止まった。徳川幕府は、そうして、時の流れの外に、自らの統治する国を置くことに成功したのだ。成立し、大坂の陣が終わり、元和偃武と言われる太平のはじまりの時点の時間を、永久に続けることこそが、幕府の最大の目的で、存在意義であったと、筆者は勝手に思っている。暴論であることは承知しているが、幕末に諸外国との関わりを余儀なくされ、時の流れの中に引き戻されるまで、実際、徳川幕府は統治を続けたのだ。それがよいか悪いかはさておき、続いた、ということは、紛れもない事実である。
実際にどうするかの方法論はさておき、リョートが目指したものも、そこではなかったかと、筆者は考えている。
時の流れを、止める。永久に続くということは、時が流れないのと、同じことだ。
そうすることで、リョートは、美しきパトリアエを、永久に輝かせようとしていたのではないか。
こうして見ると、リョートは、水の流れに規律と秩序をもたらす、大精霊アーニマの側にいるように見える。
リョートが大精霊アーニマならば、それを阻む者は、やはり、ウラガーン。
リョートは、未だかつて、つまづいたことはない。しかし、致命的なつまづきをしていることに、気付いていない。
フィンだ。先に書いた通り、彼女だと誰もが思ったのは別人で、彼女は、生きている。
父と同じ眼で、暗闇の中から、リョートを、じっと見ている。
かつて精霊の卷族であった彼女が、精霊でも成し得ぬ偉業を求めるリョートを苛むとは皮肉なものだが、リョートのつまづきは、たった一つ、フィンであった。
同じ祭祀の期間、ニル、ダンタール、リューク、ストリェラの四人が、グロードゥカに入った。船着き場の仕事は、祭祀のために、一定期間は無い。その期間に、故郷を持つ者はその生まれた地に帰り、自らを育んだ土地と家と、大精霊に感謝を捧げるのだ。
しかし、四人のウラガーンが捧げるのは、それではない。
不思議な気分である。だんだん、フィンが悪役のように思えてきた。ニルやダンタールに、眼を覚ませと言いたい気持ちである。プラーミャは、いち早く、取るべき道、すなわち、融合の道を取った。
ネーヴァにも、意地を張るな、と言ってやりたい。お前ほど、理性的な人間が、なにを周囲に引きずられ、しなくてもよい戦いを、しようとしているのかと。
それは、筆者が、今、リョートに焦点を合わせて、この頁を書いたからであろう。
どうやら、やはり、そういうものらしい。この史記に登場する人物の中で、誰も、間違った者は居ない。悪のいないこの国で、戦う彼らを、筆者は描いている。史記を綴った者は、歴史を逆算しているわけだから、書けるであろう。しかし、筆者は、歴史を追い、書いている。その、正の逆行性が、矛盾と面白味になっているのではと思っている。それゆえ、この史記は、長くに渡り、様々な者に紐解かれてきたのだと。
そして、多くの研究者は、このあたりのくだりが、最も難解かつ、最もウラガーン史記の性格がよく出ているとする。そして、何が正義なのか、どこに焦点を当てていればよいのか、分からなくなる。
筆者もまた、フィンの見ているものが、まだ遠すぎて、実際にはよく分かっていない。
分からぬまま、進むこととする。
早いもので、この史記目録を始めた頁が、王国歴三百十七年。あれから、九年が経っている。ニルは二十五歳。
王国歴三百二十二年か三年あたりからのことを、戦乱の歳月と表されていることは、既に述べた。ここからが、特に激しい。影に生きる者が、それぞれ光を求める。
彼らの進むまま、それを綴る。
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