尾を喰らい合う蛇
ウラガーン史記の、このページには、こう記されている。以下、原文直訳を抜粋する。
「パトリアエ王国歴三百二十六年、リョートの意を受けたウラガーンが一翼、フィンを滅す。クディス、大いに怒る。彼ら互いに示し合い、パトリアエに押し寄せんとし、シャムシールが長、それを制す。曰く、良きは、自が身を頑なとし、もってして敵を討つ、と。悪しきは、自が心を頑なとし、もってして敵と向かう、と。シャムシールが長、再び、バシュトーの名を用うるに、抗う者無し」
フィンの、聖女の国は、彼女の死により、一旦は瓦解した。人々は、口々に報復を叫んだ。そこにシャムシールが立ち、団結をもって敵を討つのが良し、感情に流されるのは愚、と説き、皆がそれに従ったという。彼は、バシュトーの国号を再び用いた。
フィンは実際のところニルらと共にパトリアエに入ったのだが、フィンの代わりに死んだ従者は、クディス国内では、フィンとして葬られたのだ。いわゆる、影武者である。
フィンの死を嘆き、悲しむ者達は、強固に繋がった。その死に触れ、取り仕切ったシャムシールが、力を付けた。彼は、単に部族の長というだけでなく、この統治なき平穏の国クディスの均衡が崩れても、それをまとめ上げ、導くだけの器があった。
では、はじめから、彼を盛り立ててバシュトーを導かせればよかったではないか、と思えなくはないが、それは違う。今だから、意味があるのだ。ひとつには、彼の年齢。彼はまだ若く、フィンがバシュトーに入った頃には少年で、世に出ていなかったことがあるが、それだけではない。フィンにとっては、フィン自身が一旦、聖女として彼らに仰ぎ見られる存在となる必要があったのだ。それを失うことで空いた心の隙間を、埋めようとする気持ちを、人々に芽生えさせるために。フィンは、自らが社会的に消滅するための社会を、せっせと作ってきたのである。
なんのために。それは、知れている。怒りと悲しみに身を浸したバシュトー人に、互いに手を取らせ、一つにし、パトリアエになだれ込ませるためだ。その推進力に、彼女は自らの存在と、それを見る人の心の化学反応を利用したのだ。
ぞっとするほどの、謀略である。このころ、フィンのすること、考えることが表に出てきていて、それが表れれば表れるほど、策、などという生やさしい言葉では、収まりが悪くなっている。
シャムシールは、パトリアエに入った方のフィンと繋がりを持っていると考えるのが自然だろう。フィンがそれを煽り、ひそかに導き、パトリアエと戦うのだ。それが、この情勢において、もっともありそうなことであるように思う。
しかし、フィンはそれをしない。彼女は、甦ったバシュトーを、シャムシールを、放置した。だから、シャムシールにとっても、フィンは死んだのと同じことである。失ったものを、甦らせることは出来ない。その代わり、人は、それに似たもので、空白を補完しようとするのだ。バシュトーは甦ったが、これまであったものとは違う。それが、かつてのものより、優れたものであれば、それは喜ぶべきことだ。人は、歴史は、そうして進むのだろう。
フィンとは、結局何者であるのか、未だ分からない。だから、史記をめくる手が止まらぬのだ。なんとなく、リョートやネーヴァが健気で、フィンはそれらを手の中で弄ぶ悪女のようにも思える。これまで読み進めて頂いた読者諸氏ならば理解して頂けるであろうが、この史記には、善悪はない。単に、善なる者が勝つのを応援し、悪を憎むというような単純なものではない。だから、フィンにとって信ずるところこそが彼女の正義であり、リョートにもアトマスにも、プラーミャにも、ネーヴァにも、同じように、それがあるのだ。
フィンのことを、かつて、歴史の特異点と筆者は表したことがある。敵は、絶対的なものではない、とも。異なる立場や、異なる視点から、人々は同じようなものを目指し、進み、それが生む摩擦で、
その証拠に、彼女の遺したバシュトーは、すぐにはパトリアエには攻め込まない。パトリアエによって聖女を殺され、バシュトー人をも殺されたことを、更に南の、バシュトー語で「砂漠の国」と呼んでいる国まで訴えたのだ。そうして、その国から武力を借り、バシュトーを増強した。クディスとして商いをしていたときに蓄えたものを、それぞれの部族が、誰からともなく吐き出した。それで、金で兵を借りたのだ。無論、砂漠の国が、北のバシュトーの地に、ひいてはパトリアエに、領土的野心を持っていないわけではないのを承知で、だ。
数々の部族に分かれ、互いに争い続けていたバシュトー人に、こうして調和と団結がもたらされた。
この頃、ウラガーンは、パトリアエの西、ソーリ海の沿岸に居た。この地域を治める軍に雇われ、船で運ばれてきた塩や物資を集めておく集積所で、何食わぬ顔をして働いている。フィンも、その中にいた。
毎日、夥しい量の船が、行き来している。その船はどれも軍の管轄だから、それに兵を乗せれば、そのまま水軍となる。また、運ばれてくるのは、塩だけではない。海、の名の通り広大なソーリ海の沿岸諸国との公益によってもたらされた品の、その一部がここに集まるのだ。いざ眼で見てみると、その数は膨大で、運ばれてきたものが帳面に記された通りであるかを調べる荷合わせという作業だけで、数十人がかりで何日もかけて行わなければならない。
こうして見ると、パトリアエの国力が、着々と上がっており、もはや磐石と言ってよいほどになっているのが分かる。この強大な敵を、フィンはどう料理しようというのか。
その尾に食らいついている、ネーヴァらユランのこともある。そして、新たに建った、バシュトー。それもまた、パトリアエの尾に、今まさに食らいつかんとしている。
誰一人として、蛇を手に入れるときに、まず頭を潰す、の言葉の通りに行動出来ていないのは、やはりフィンによるものなのか。蛇の頭を潰そうとしたリョートは、コーカラルを捨て駒にし、暗殺は成功したが、結局、ほんとうのフィンはこうして生きている。やはり、尾に食らいついたに過ぎないのだ。そして、尾に食らいつかれた蛇は怒り、牙を剥き出した。
また、ユランもそうである。彼らは、ずっと行方を探していたコーカラルが、パトリアエからの刺客としてフィンのもとへ送り込まれ、刺し違えたことを知り、激怒した。その情報は、どこからもたらされたのか、分からない。恐らく、フィン自身の手によってであろう。
ネーヴァは、はっきりと、パトリアエに復讐を誓った。そして、クディス改めバシュトーも、敵であると宣言した。仲間を失った悲しみが、彼の持ち前の理性を壊したのかもしれぬ。
きっと、彼のことだから、いっときの感情の昂りで、パトリアエとバシュトーの両方を敵と見なしたことを後悔し、撤回したいと考えたことだろう。しかし、彼が、今げんにユランの首領としてここにあるように、人の集団には、意思というものがある。その意思を翻すのに、自分一人が心変わりをしても、どうしようもない。一つ方法があるとするならば、プラーミャのように、全てを捨て、一人で決めるしかないのだ。
しかし、ネーヴァには、その身を受け入れてくれる場所はない。生きてきたはずの影を、払い除ける。それを前提としている以上、それをやめるということは、また影の中に戻るということになるのだ。
尾に食らいつく愚を知りながら、そのまま頭に向かって、進んで行くしかないのだ。牙がこちらに向けば、戦うしかない。
そういう情勢になっている。誰もが、先が読めぬし、次に打つべき手が、分からぬ。
ただ一人を除いて。この中で、一人だけ、蛇の頭を潰すことを考えている者がいる。いや、それすらも、通過点でしかないと考えている者が。
フィンである。彼女は、次の手を打つ。
夜、軍から借り受けている、労働者用の小屋に、五人は戻る。リョートの作った仕組みの下で働く軍の将はしっかりとしたもので、家賃は、生活に差し支えのない程度の金額を、給金から引かれるのだ。
そこに、彼らは暮らしている。
「風が、出てきたわ」
フィンが言葉を発した。なるほど、ソーリ海からの風が、小屋の扉を叩いている。
「わたしも、ウラガーンになる。その日が、近づいている」
その表情からは、どのような意思も読み取れない。
「皆、お願いがあるの」
ついに、フィンが、次の一手について、切り出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます