刺客

 さて、史記は、どこまで進んだのであろうか。はじめにも述べたが、ウラガーン史記とは、三百年余りの歴史である。膨大な量の中、最も多くの者を惹き付ける、その最後のほんの僅かな一節について、筆者は述べている。だから、題名を、ウラガーン史記、とせず、目録、の二文字を追加した。と言ったかどうか、記憶が定かではない。重複であれば、お許し頂きたい。

 史記は、そのはじまりの英雄王と十聖将の、破壊と創造、彼ら自身の再生と進歩の物語もたいへん面白いものであるが、この史記の最後の一節の面白味は、ひとつには、革命を題材にしたオクタン価の高いもので、それ自体が物語性を持っていることである。であるが、たとえば、古代ローマ史や、中国の三國志などに比べ、派手な戦闘などは少ない。そこに描かれるのは、人の心のありようと、矛盾。無論、不謹慎ながら、これからめくるページが、大いなる戦いに溢れ、読み応えが出てくることを筆者自身も期待してやまぬのだが、それは、ニルやフィン、ダンタール、アトマス、リューク、プラーミャ、ネーヴァなど、彼らの取る道を、目指す先を、追ってゆくしかない。

 目指す先、と言えば、ある聡明な読者氏より、彼らの目指すものが同じで、それが微妙にずれているのが面白い、と非常に本質的な感想を下された。まさにその通りである。誰もが、同じところへ、向かっているのだ。しかし、そのために辿る道が、違う。それがために、人は争い、戦う。こんな馬鹿なことがあるだろうか。しかし、悲しいことに、そんなものなのだ。

 さて、筆者の余談は、どうでもよい。フィンのことである。

 いよいよ、フィンのしようとしていること、すなわち、彼女の取っている道が、浮かび上がってきている。これまで、ずっと、フィンが何をしようとしているのか分からず、やきもきしていたところであるから、一気に筆を進めたい。滑らぬよう、注意をしながら、手元の史記の頁を、また進める。



 フィンは、ご存じの通り、神がかり的な慧眼けいがんを持っている。その眼は、ちょっと、並のものではない。全て、求める結果から長大な逆算を行い、今すべきこと、言うべきことを取ることが出来た。だから、彼女のすることに連続性を見いだすのは、同じ時間軸に生きる人間には、非常に困難なのである。あのリョートですら、フィンの頭の中を読むのに、ここまで時間がかかった。いや、その存在に、意味があるとすら、彼は思っていなかったのだ。それが、実は、自分も彼女の操る駒の一つとして、彼女の思う通り、自らの意思で、生き生きと動いていたのだ。こんな馬鹿な話があるかと思った。

 リョートは、大変な屈辱を感じた。この類いの完成された人間が、自尊心をひどく傷つけられたとき、取る行動といえば、だいたい決まっている。

 年が明け、王国歴三百二十六年。それを、フィンは、そろそろだな。と察した。べつに、フィンの存在を、リョートが重視しだしたという情報を得たわけではない。だが、彼女は、察した。ネーヴァが建てた、ユランの動向。それに対応する、パトリアエの中枢の反応。今、その蛇の頭とも言える、リョート。彼ならば、この世にあっても仕方のないようなクディスが存在している意味に、目的に、辿り着く頃だ。どうやって、そこに至るかは、どうでもよい。気付かれることを、恐れてもいない。なにしろ、フィンには、最強の盾と、最強の矛があるのだ。王の部屋に、ニルを放ってをさせたのは、今、このときになって、リョートにそのことを気付かせるための、言わば。パトリアエの中枢に、簡単に、刃を突き立てられる。その示威行動であった。それを、必ず、リョートは危険視する。そうすれば、どうなるか。どうするか。

 一人、サラマンダルの質素な居館で、フィンは、またかつてのように灰色のフードの中にいる。その唇は、また、緩やかな曲線を描いていた。

 館には、フィンのほかに、一人だけ、身の回りの世話をする女がいる。その者を呼んだ。無論、ただの民ではない。

「ニル達を、呼び戻してちょうだい」

 女が、頷く。

「シャムシールの一族にも、声をかけて。彼らを、迎えに出して」

 女はまたひとつ頷き、音もなく館を出た。



 そうしてニルは、それから七日ほどして、ダンタール、リョート、ストリェラの三人と共に、サラマンダルに入った。ジャーハディードの部族の若き長、シャムシールと再会し、彼らの馬を借りやってきたから、旅程は短縮されている。馬はパトリアエでは農耕などのほかは一般的ではないが、類い希な身体能力と平衡感覚を持つウラガーンのこと、乗りこなすのにそう時間はかからなかった。

 馬を繋ぎ、ニルらが、フィンの館を訪れた。呼びに来たはずの女は、どういうわけか、既に戻っていた。フィンと同じ色の髪で、年も近い、無口な女であった。

「フィン、どうしたんだ」

 ニルは、フィンに何かあったのではという心配をしていたようで、どうしたんだ、という口調には、安堵が滲んでいた。シャムシールは、手下と共に、館の外に立っている。

「ううん、なにも」

 フィンが、ほんとうに何もなく、ニルに会いたいがためにわざわざ呼び戻したりはしないことくらい、分かっている。なにせ、七年もの間、ニルは放ったらかしであったのだ。

 何かあるが、何も言わない。

「そばに、いて」

 という一言以外は、何も。ニルにとっては、それで十分であった。ダンタールやリューク、ストリェラにとっては、不十分である。だから、フィンは、彼らのために、簡単に理由を説明してやる必要があった。

「命を、狙われるわ」

 狙われるわ、とは未来に対する推測のようで、妙な言い回しであるが、ともかくフィンはそう言った。

「だから、お願い、守って。あなた達以外に、頼れる人がいないの」

 政治や、国家など、関係ない。フィンの、個人の願いである。これが、最も分かりやすく、納得させやすい。頼まれて、断る理由は、ダンタールにもリュークにもストリェラにも、ついでのように付いてきたシャムシールにも、無いのだ。

 誰に狙われることになるのか、フィンが言わぬから、ウラガーンには分からぬのだ。しかし、その背後には、必ず、フィンのしようとすることを止めようとする、パトリアエが居るのは間違いない。今や、フィンが死ねば、ウラガーンの目的も志も死ぬのだ。ネーヴァは、ユランを建てた。そこに合流し、下風に立つことが得策ではないことは、既に皆納得している。然るべき時に、然るべき形で、迎えなければならない。ダンタールらは、フィンが、クディスを率い、ユランを迎え、パトリアエと戦うものと思っていた。フィンは、肯定も否定もしない。ただ、フードの中の顔を、笑ませている。

 それを守るため、ウラガーンとシャムシールは、それとなく警固についた。



 シャムシールは、伴ってきていた十人ほどの手下の者に、サラマンダルの中を巡回するように指示した。もともとバシュトー人だから、この年が明けたばかりの寒いサラマンダルの土を踏む仕様しざままで、自然である。

 果たして、十日目の夜、異変が起きた。

 真っ白な月が出ている日であった。音もなく、シャムシールの一族の死体が、いくつか深夜の街路に転がった。巡邏じゅんらの経路は、決まっている。ダンタール、リューク、ストリェラの三人が、その経路上で発見し、本部としている、かつてニルらが滞在していた空き家に急報をもたらした。

 シャムシールは、その名を示す湾曲した剣シャムシールを執り、駆け出した。ひとつめの死体の前で、彼は膝をついた。ニルらも知っている。はじめて会ったときにもシャムシールの側にいた若者だ。無事であった者が、集まっている。残った数から差し引いて、六人が瞬く間に葬られたことになる。その場所の報告を、シャムシールは受けた。

「おれの、弟だ。母は、違うが。とても、いい弟だったのだ」

 口元を覆う埃避けの布に、涙が染み込んだ。そこだけ、月のせいで、光っているように見えた。

 とにかく、早くこの目に見えない敵を、捕捉しなければならない。巡回の経路と、死体の点を結ぶ。

 シャムシールは、気付いた。

「いちばん短く、フィンのところへ向かった」

 と、まだ使い慣れないままのパトリアエ語でニルらに言った。ニルが、駆け出す。シャムシールも、続く。ダンタールらが、追いかける。

「俺は、回り込む。ウラガーンは、まっすぐ」

 二手に分かれた。シャムシールは、分かっていた。自らの前方に、敵がいるのを。ニルらは、フィンを保護すればよい。敵は、自分で討つ。弟と、一族の者を殺した敵を。だから、あえて、ウラガーンを、敵から遠ざけた。サラマンダルの中は、シャムシールの方が詳しいのだ。


「フィン」

 館の前に、フィンは立っていた。

「危険だ。早く、中へ」

「大丈夫。刺客は、もう行ったわ」

「なんだって」

 フィンは、屋内へ入った。そこには、ウラガーンを呼びに来た、フィンに似た女の死体が転がっていた。灰色のフード越しに、首を一撃でやられ、血の海を作っている。フィンと間違われ、殺されたのだろうか。

「彼女は、お前と間違えられたのか」

 ダンタールが、言った。

「ええ。そして、わたしではないと、気付いた。だから、仕損じたと思い、逃げたの」

「お前は、どこにいた」

「わたしは、彼女の部屋にいたわ」

「身代わりにしたのか」

 ダンタールが、ちょっと後ずさった。この聖女と崇められる美しい女が、薄気味悪いものに見えた。

「彼女も、納得していた。これで、また、進めると」

「フィン、お前は、何をしようとしているんだ」

「それは、時が、示してくれる」

「正直に言う。フィン。俺は、お前が怖い。ウラガーンを、お前に任せてよいのだな」

「ええ。約束する。もし、駄目なら、あなたがわたしを殺せばいいわ」

 どういう感情なのか分からぬが、フィンは微笑んだ。ニルは、そのやり取りをただ見ていた。


 シャムシール。

 砂っぽい街路を踏み、駆けている。

 前方、上に、人影。

 刺客。

 そう確信した。屋根の上を駆け、走る者など、バシュトーにはいない。

 懐の短い刃物を、それ目掛け、投げつけた。

 影が、屋根から降りた。

 足に、刃物が刺さっている。

 敵は、着地の姿勢のまま、腰から二本の短剣を抜いた。シャムシールが、見たことのない形のものだった。

 対峙。

 シャムシールは、抜けない。敵の気が、異様なものであったからだ。

 何の気配もない。おおよそ、生きているものとは思えないほどに。

 例えば、石。あれば、気付くし、存在も認知するが、それ自体は、気配を持たぬ。そういうものを見ているような気分になり、酔いそうになった。

 心があるのに、無い。

 ただの、物のような、なにか。

 それと、向き合った。

 構わず、抜く。

 敵が、踏み込んで来た。

 抜こうとする剣に、短剣を打ち付けてくる。

 もう片方が、首筋に来る。

 膝を鳩尾みぞおちに入れ、避けた。

 その感触で、敵は女であることが分かった。女の、殺し屋。

 バシュトーには居ない。

 やはり、パトリアエの者。

 クディス聖女を、殺しに来た。

 怒りが、悲しみが、込み上げてきた。

 少しの間で、女は息を整えた。少し、感情が動いたように思った。

 苛立ち?

 構えた剣先が、揺れている。思った通りに、戦えぬのか。

 行ける。勝てることを、確信した。平穏の中に生きていても、自分は、戦いの中で生きてきた、シャムシールの長なのだ。

 すれ違う。腕に、熱を感じた。斬られたらしい。しかし、大したことはない。湾曲した剣からは、血が滴っている。それが、一瞬、月の光を受けて輝き、乾いた地面に吸い込まれた。

 それを、自分の涙だと思うことにした。

 女は、崩れ落ちた。脇腹から胸の辺りにかけて激しく斬撃を受け、絶命している。

 それを置き捨て、ニルらに、刺客を討ったことを知らせるため、フィンの家へ急いだ。


「大丈夫なのか、シャムシール」

 彼の外套が血に染まっていることに、皆が驚いた。

「大したことはない。敵は、殺した。たぶん、パトリアエ人。女だった」

 意味もなく、ウラガーンは嫌な予感がした。現場に、全員で急行する。

 を見たダンタールは、立ち尽くした。ニルも、リュークも、ストリェラも、足を止めた。

「コーカラル」

 何故、コーカラルが。そう思っているウラガーンに、シャムシールが詰め寄る。

「ウラガーン。この女を、知っているのか。俺の弟と、一族を殺した、この女を」

 その全身からは、殺気が滲み出している。

「知っている。しかし、何故ここにいて、何故フィンを狙うのか、見当もつかん」

「お前の言うことに、嘘はないのか」

 今にも、剣を抜きそうなシャムシールの前に、フィンが立った。

「彼らは、無関係よ。この女は、たぶん、パトリアエの軍から来た」

「軍だと」

 ウラガーンも、シャムシールも、意外な顔をした。

「わたしを、信じて、シャムシールの長。ウラガーンは、彼女がわたしを殺しにきて、あなたの弟や家族を殺したこととは、無関係なの」

 渋々といった具合に、シャムシールは殺気を納めた。

「それと、もう一つ、お願いがあるの」

 と、フィンの唇が動いた。その頭上に、満点の星と、白い月を掲げ、それが作る影を背負いながら。

 星が歌う声を聴くように、少し眼を閉じる。

「今夜、わたしの家で死んだ者。あれを、わたしとして、葬ってあげて。わたしは、今夜、パトリアエが放った刺客に襲われ、死んだと、クディスの皆に、伝えて」

 と、再び眼を開け、バシュトー語で言った。

聖女クディス。貴女は、どうするのです」

「この人達と共に、行くわ」

「我々は、貴女なくして、生きてはいけない」

「いいえ。わたしがここに来る前から、あなた達は、生きていたじゃない」

「しかし」

「言ったでしょう。ここは、あなた達の国。わたしは、女王でもなんでもない、ただのフィン。あなた達は、あなた達の国で、生きたいように、生きるの」

「分かりたくはありませんが、貴女の意思を、尊重したい。そのようにしましょう」

「ニル、戻りましょう」

 とパトリアエ語に戻って、言った。


 フィンは、パトリアエへ、ウラガーンと共に。そのことを知るのは、シャムシール一人。

 クディスの国内では、フィンがパトリアエの放った刺客に殺され、死んだと大変な騒ぎになった。その刺客は、バシュトー人をも殺したと。それは瞬く間にクディスの間に伝わり、皆が、七日七晩、泣いた。我々にとって馴染み深い、三日三晩、ではなく、七日七晩、とするところが、バシュトー人の気性と、彼らがいかにフィンを慕っていたかを端的に物語っていて興味深い。

 


 ニルは、コーカラルの遺骸の前にひざまずき、声を立てず涙を流すダンタールの背を、忘れることが出来なかった。フィン以外の誰もが、何故コーカラルがやってきて、何故死んだのか、全く分からないのだ。あの闊達な物言いや、奥歯まで見せて笑う顔を思い出す度、言いようのない怒りが、悲しみが、喪失感が込み上げてきた。

 風が、強くなっている。ダンタールの涙すらも、乾かすほどに。

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