奔流
この史記目録の敬愛すべき読者氏より、ニルの人格が際立ってきた、とのご指摘を頂いた。ネーヴァが自立を果たすくだりでは、ネーヴァに対して。
また、この史記目録を紐解く同志の間とのやり取りの中で、ここに居る登場人物の中で、最も登場回数が多いのは、という話題になった。
気になって、見返してみた。序盤は、無論ニルが多い。ここまでを通して、一部を除いて、フィンは、いつもあちらこちらで策を巡らせている。リョートなども、案外登場回数が多いものである。
しかし、そこで、筆者は我ながら言い得て妙、と悦に入るべきことを言った。
この史記目録に、最も登場するのは、その語り部たらんとしている、筆者である。あちこちに筆者の私見、考えなどが差し挟まれて、単にウラガーン史記に興味を覚え、読み進めている読者にとっては甚だ見苦しいこととは思うが、お許し頂きたい。
ここで、断っておきたい。筆者の没入は、ここから更に強くなるであろうことを。火が着くと、止まらぬ
最愛の、リョートを失ったアトマスのことである。
「なんだと」
アトマスは、自らの老いを感じていた。ついに、耳まで老いたか、と嫌気がさした。いや、そうであってほしいと思った。聞き間違いでないことくらい、分かっている。
「もう一度、言ってみよ」
「はっ。昨夜、ご自身の居館にて、何者かにより、リョート様、そのお命を、縮められました」
一度目を聴き、なんだと、と椅子から立ち上がったアトマスは、二度聴き、力なく、尻を椅子に戻した。
アトマスは、自らの中に、稲妻が走るのを感じた。それは彼の脊椎に帯電し、熱を発した。
熱とは、悲しみ。あるいは、怒り。その悲憤は、アトマスを蝕み、壊し、塗り潰した。抑えようもないし、抑えようとも思わない。
「誰が、それをした」
「はっ。未だ、分かりません」
クディス改め、バシュトー。ユラン。数人残っているという、ウラガーン。考えれば、きりがない。
「プラーミャを、呼べ」
影に生きる者は、影に生きてきた者。リョートは、プラーミャに、雨の軍の全てを与えていた。それならば、リョートを殺した者を、文字通り洗い出せる。
報告をもたらした者は、プラーミャを呼びにゆくことを復唱し、退出した。
軍本営。リョートと出会ったのは、アトマスがまだ地方の将軍であったときの、管区の本営だった。それは、このような豪壮な石造りのものではなく、板張りの、つまらぬ建物であった。そこで、リョートは、したたかさを見せ、それをアトマスは気に入り、育てた。
育てれば育てるほど、リョートは、リョートになっていった。その氷のように青い眼の色を、空の色に変えてやりたい。そう思い、単に主従を越えた愛情を注いできた。しかし、アトマスが望めば望むほど、リョートは、その眼に氷を映してきた。
氷よりも冷たく、国も、自らも、見つめる。しかしその奥には、必ず、優しさがあった。
つまづいてもよい。アトマスは、そう言った。つまづいたところから、何かを得ることが出来る。リョートは、そういう器であった。その最初の、たった一つのつまづきのために、リョートは死んだ。
後悔しか無い。この、下らぬ老いた身を心配し、リョートは、自らを省みることをしなかった。その結果、リョートは死んだ。死ぬのは、老いた自分であるべきなのに。
後悔しか、なかった。
プラーミャは、自室に居た。上がった雨が濡らしたままのパトリアエを、窓の外に眺めながら。
雨の軍の全てを与えられているとは言え、プラーミャ自身が何かをすることはほとんどない。いつも、与えられた、プラーミャには広すぎる館の自室で、瞑目している。プラーミャは、早くにリョートの異変を聞いた。それで、アトマスから呼び出しがかかるであろうことは、予想していた。だから、身支度をし、剣を携え、待っていた。
館を出ると、その巨大な剣を見、道ゆく人が、口々に、あれがプラーミャだ、リベリオンのプラーミャだ、と囁き合った。招きに応じ、パトリアエに加わってからも、プラーミャを見る人の眼は、反乱軍リベリオンの長としてのものだった。あれがそうか、と皆が好奇の眼をもって見てくる。プラーミャもまた、老いを感じる。もう、五十はとうに越えているはずだ。髪はこの頃ほとんど白くなり、皺もすっかり多くなった。変わらぬのは、灰色の眼だけ。
軍営に出て、求めに応じて来たことを告げ、アトマスへの取り次ぎを願い出ると、暫くして、中庭で待つように、という指示がもたらされた。プラーミャが中庭に出ると、ほどなく、アトマスが出て来た。ちょっと驚くほど、アトマスの身体は、逞しい。最愛のリョートを失い、憔悴しきっている老人には、似つかわしくないほどに。プラーミャより、幾らもアトマスの方が歳は上だ。しかし、その身体からは、戦いの気が
手には、丸太を削り、持ち手を作った棒が、二本。
「プラーミャ。来たか」
「
「よい。堅苦しいのは、抜きだ」
アトマスが、その丸太を一本、放り投げてきた。
「我がヴァラシュカが、今一度通ずるか、敵に。それを、知りたいのだ」
老人が振るには、重すぎる。しかし、アトマスは、ただの老人ではないらしい。軽々とそれを旋回させると、腰を深く矯める。
プラーミャは、剣の構えに、丸太を置いた。ただの立ち合いとはいえ、互いに技を極めた者同士。丸太が触れれば、死ぬだろう。
対峙。パトリアエの中心で、光を求め続けて来た男と、闇の中で、光を避け続けて来た男の。
プラーミャは、息を飲んだ。話にしか聞いたことのないアトマスの武が、これほどまでに、強大であるとは。うかうかすると、本当に、死ぬ。息すら、迂闊には出来ぬ。
不思議と、殺気は感じない。なにか、高潔で、爽やかな風に吹かれているような気分になる。ここは、そう、戦場。アトマスの感じる戦場の風を、プラーミャも、感じた。血と泥にまみれた惨劇の場であるはずの戦場は、アトマスが父と思う国家のためにもたらされる、気高いものなのか。
これが、この国で、最も高い位置にある武。一人の武人として、プラーミャは、高揚を感じた。
ひとりでに、身体が動いた。アトマスの呼吸に、反応したのだ。
凄まじい圧力の風を感じ、そして互いの位置が、入れ替わる。
アトマスは、眉間に深い皺を寄せたまま笑い、丸太を引いた。
張り詰めた戦場の空気が終わり、軍営の中庭に戻った。
「いや、お見事」
世辞ではなく、心から、プラーミャはそう言った。自分の手に持っているのが、丸太ではなく、丸太と持ち換え、草の上に突き刺した
プラーミャは、見た。アトマスのヴァラシュカを打ち返し、もろとも、自らの大剣が、彼の身体を粉砕するのを。救国の英雄、
危うい。プラーミャは、そう感じた。アトマスの気高き武は、怒りに蝕まれている。それは、必ず、白銀のヴァラシュカの輝きを、曇らせるに違いない。当のアトマスは、まだ自分が昔のように戦えると知り、満足そうであるが。
「プラーミャ」
アトマスは、言った。
「共に、戦わぬか」
プラーミャは、ちょっと微笑んだ。
「出来ませぬ。このプラーミャ、雨の軍がありますゆえ」
「戦いを始めるのだ。お前も、光の下で」
「いいえ。光の下で戦う者が産む、影の中こそ、このプラーミャには相応しいと存じます」
プラーミャは、悟った。ただ国家のことを思い、生き、かつて、バシュトーの侵攻を退け、救国の英雄と呼ばれた、清く美しい戦士は、リョートと共に、死んだのだと。
もう、パトリアエを災いから守る白銀の盾は、無いのだと。
英雄アトマスは、獣となろうとしているのか。捨て置き、乱れを産む獣ならば、斬るか。一瞬、そう思った。しかし、それをしても、また異なる乱れを産むのみ。
どこをどうしても、パトリアエは乱れ、揺れる。聖女が望むものは、これなのか。プラーミャは、皮肉に思った。アトマスは、悲しき怒りの奔流に押し流され、戦うと息巻いている。しかし、何と戦うのか、分からぬのだ。
相手を間違えれば、滅び。もう、パトリアエの未来には、針の穴ほどの希望しか、残されてはいない。その希望が何なのかも、分からぬ。
一気に、ことは動いた。一国を切り盛りしている宰相が死んだのである。当たり前と言えば当たり前だが、それほど、リョートの存在は、この地平の均衡を保つのに、大きなものであったのだ。
敵は、決まっている。あとは、それを、どう討つかだ。
それを、パトリアエが決められるほど、フィンは甘くはない。
リョートが死んだという報せがもたらされてすぐ、バシュトーが、大軍を発した。その南の、砂漠の国から借り受けた軍も合わせ、四万。民も、多く混ざっている。バシュトーのほとんど全てが、パトリアエに流れ込んだのだ。
古の物語、そこに現れる
いつも、ウラガーンは、精霊アーニマに、してやられてきた。暴れるだけの龍は、知恵をもたらす精霊の前に、無力だったのだ。
しかし、長い時を経て、龍もまた、知恵を付けたらしい。精霊のそれを、凌ぐほどに。
龍は、精霊の盾であるはずの翼から羽根を一本一本抜き、遂にはその片方を叩き折った。
片方だけの弱った翼で、精霊は大空を飛翔し、パトリアエを守ることが出来るのか。それは、精霊自身にも、分からない。
だが、黙って、龍の奔流に飲み込まれるわけにはゆかない。
アトマスは、バシュトーに対し、ただちに迎撃の軍を編成した。プラーミャは、元リベリオンやウラガーンの者も組み込んだ雨の軍を率い、その影を縁取る。
そして、微細ながら、第三勢力であるユラン。騎馬隊まで編成し、バシュトーにもパトリアエにも敵対を宣言している。
尾を食らい合い、回転していたはずの蛇だったが、気付かぬまま、互いにその身を絡め合い、縺れ合い、のたうっている。
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