建国

 戦いの跡。戦いの跡とは、そのまま刻まれ、傷痕になる。その上に、フィンは立っていた。

 更に年は明け、パトリアエ王国歴、三百二十四年。じつに、ニルとフィンが離れてから、七年もの月日が経っている。

 その三月、フィンはようやく、史記に再び姿を現す。既にこのとき、バシュトーは部族が互いに争い、血を流し、大変な内紛状態になっていた。あのパトリアエとの大戦の後、二年に及ぶ国内での争い。国は、民は、人は、疲れ果てていた。未だ、王は不在のまま。もはや、バシュトー人たちは、自らが何のために戦っているのかすら分からなくなっている。戦うために相手を探し、その実、早く戦いが終わらぬものかと望んでいる。止まぬ戦いの中、誰もが、救いを欲した。傷だらけのバシュトーは、このままいけば、崩壊する。

 その致命的な傷の、まさに真上に、フィンは降り立った。音もなく、ゆっくりと、突然に、サラマンダルに現れた。そのことは、バシュトーの乾いた空気の中を瞬く間に伝播してゆき、誰もが、戦いの手を止めた。そして、誰と示し合わせるでもなく、サラマンダルへと、集まってきた。

 王のいない、王都。人口は減り、家畜は死に、流れる血すらも国は残していない。それでも、サラマンダルに、いや、フィンのもとに集まってきた人々は、数万を越えた。

 街の中心に設けられた広場。まっすぐに、王宮が見える大通りが、広場を貫いている。儀礼などを執り行うときに使われるのだ。その中央の祭壇のような場所に、フィンはいた。灰色の外套、フードの中。誰もが、フィンの姿を見てひざまずいた。

 人は、次々に集まって広場を埋め尽くしてゆく。誰も、何も話さぬ。ただ広場に来て、真ん中にフィンが立っているのを見て、膝をつくのだ。彼らは、祈るとき、膝をつき上体を折り曲げ、額を地に付けるようにする。それと同じことを、フィンに対して行った。

 フィンは、微動だにせず、丸一日、そうしていた。人々も、同じようにしていた。そして、夜が明け、太陽が登った頃、フィンは、ゆっくりとフードを外した。誰もが、フィンの動く気配に、地につけた頭をそっと上げ、息を飲んだ。

 外套が、花のように開く。フィンが両手を上げたのだ。白い掌が、長く美しい指が、太陽の光を吸い込んでいる。登ってゆく太陽が、フィンの真後ろにあった。人々の中では、涙を流す者もいた。

「膝をつくのを、やめなさい」

 フィンは、言った。不思議なほど、よく透る声であった。フィンが言葉を発すると、それを喜ぶかのように、ソーリ海へ向かって、風が強く吹き出した。陽が昇り暖められた空気が、まだ冷たい湖の方へ吹いたに過ぎないのだが、それを知らぬ人からすれば、あたかも、フィンが風を呼んだように感じた。

「あなた方が祈るのは、わたしにではない」

 ゆっくりと、フィンは言う。この広場を埋め尽くす数万の人の、その一人ひとりに、語りかけるように。

「あなた方は、自分のために、祈らなければならない」

 顔を上げたままの人々は、瞬きも惜しむように、フィンの言葉を聴いている。

「今こそ、戦いを、やめるとき。今こそ、我々は、一つになるとき」

 フィンが、胸の前で手を組んだ。

「わたしは、あなた方が、剣を納めるための理由になりましょう。あなた方は、今、隣にいる者に向けて、その剣を向けてはならない」

 フィンの言葉が、勢いを増してゆく。

「膝をつくのを、やめなさい。そして、立ち上がりなさい」

 皆、互いに顔を見合わせ、立ち上がった。

「バシュトーは、もう無い。今、このときから、我々は、名のない国の民となります。ここから、あなた方が、あなた方の国を、作ってゆくのです」

 強い風が、一つ吹いた。それを、フィンは、眼で追った。

「わたしも、共に、創りましょう。わたしの国を」

 風は、更に、強くなる。

「あなた方の声を、聞かせて」

 皆、声を出してよいものかどうか、また隣の者と顔を見合わせた。

「お願い」

 フィンの眉が、少し下がり、乞うような顔になった。太陽は、なおも昇ってゆく。

 誰かが、声を上げた。言葉にはならない、声を。すると、隣の者が、同じようにした。

 数万の声。それを、フィンは、全身に染み込ませるようにして、眼を閉じた。

「ああ、これが、わたしたちの国の、産声。おめでとう。わたしたちは、今、新しい国の土の上に、立っているわ」

 バシュトーに刻まれた傷痕の上に立っていたはずのフィンは、いつの間にか、新たな国家の土の上にいた。

「名前を、つけてあげて。皆で、話し合いましょう。皆が、いちばん好きな名を、つけましょう」

 ほんとうに、嬉しそうに笑った。広場の隅にいて、その表情が見ることが出来ない者にまで、甘い花の香りが届いた。

「それと、旗も。旗は、龍の姿を、入れましょう。風を、雨を呼ぶ龍の姿を」

 風が、フィンの淡い色の髪を揺らした。



 それから三日間、人々は、飯を食い、酒を飲み、喜んだ。全く、なんということであろう。フィンは、僅かな言葉で、人の争いを鎮め、悲しみと怒りを、喜びと笑いに変えてしまったのである。

 流れた血が多いほど、救いの喜びも大きい。彼らは、笑いながら話し合い、彼らの最も好きな名を付けた。

 クディス。それが、彼らの、選んだ名。バシュトー語で、聖女という意味である。

 フィンとは、実に、恐ろしい人間である。言わずもがな、今フィンが見ているこれは、全て、フィンがあらかじめ、頭の中に描いていた風景である。ここに向かって、あるいはここを一つの通過点として、フィンは、グロードゥカの大聖堂を脱し、ウラガーンにその身をさらわせ、バシュトーに亡命し、王を殺し、新たな王が立つのをたすけ、それに取り入り、パトリアエと戦わせ、弱ったところを自壊させ、国内を血で染め、人々を戦いにませ、国を傷だらけにした後、人々の求めに応えるようにして、立った。人々は、自らの意思で、フィンを聖女と崇め、それを国の名にするとした。

 これだけ書き連ねれば、フィンは恐ろしい。しかし、フィンの周囲を取り囲む人々を、見よ。皆、心の底から、笑っている。それは、彼らの意思であった。フィンは、人々が求めるものを、もたらしたのだ。史記に綴られた数百年が、大小の戦乱が濫発らんぱつする時代であることは言うまでもないが、その中で、フィンの周囲の人間だけが、ぽっかりと穴でも空いたかのように、笑っている。

 そして、フードを被らぬフィン自身も。いつものような、妖しい霧の中を覗き込むような笑顔ではなく、愛くるしい笑顔である。彼らの笑顔は、こうまでしなければ、手に入れられないものなのか。


 フィンは、奇しくも、父親である英雄アトマスと、同じことを、考えていた。

 痛みを伴わぬ変化など、ありはしない。ほんとうの喜びのための痛みならば、国は、時代は、自らもまた、受け入れなければならない。

 筆者は今、バシュトーとの国境において刺客に襲われ、ウラガーンがそれらを殺したとき、彼らの流す血を見、震え、怯えながら決意をしたときのフィンの顔を、思い出している。あれは、この痛みを受け入れるための、そしてこの喜びを受け入れるための決意であったのだろうか。


 そして、クディス国の旗が立った。織物が得意な部族が、フィンの言う通りに、龍が描かれた旗を作った。その龍は、暴れる風を呼び、自らその風に乗り、尾を巻き、飛翔していた。


 全てここに、一旦、集束した。そしてそれらは、ここから、放たれる。

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