行くか、行かざるか

 ああ、どうやって、あなたを呼ぼうかしら。どうすれば、あなたは一番、喜ぶの?

 ああ、どうやって、あなたを迎えようかしら。どうすれば、あなたは一番、笑ってくれるの?

 ああ、どうやって、あなたに伝えようかしら。どうすれば、あなたは一番、頷いてくれるの?

 暖かな手に触れて、笑って、会えなかった時間を悲しむよりも、会えたことを、喜びたいの。わたしたちは、それを求めている。

 そう、想像して。あなたは、わたしを求めている。わたしは、あなたがわたしを求めていることを、知っている。

 そう、これは、あなたの夢なのよ。それは、わたしたちの、夢。


 ――フィン・コロール


 ウラガーン史記を題材にした戯曲などにおいて劇作家が必ずと言っていいほど引用する、この愛をさえずるかのような詩的な台詞は、フィンのものとされている。正確には、フィンが放ったものではないが。

 史記には、ニルが夢の中で聞いたものと綴られている。多くの劇ではフィン自身の口から放たれることが多いが、それは間違いである。

 筆者もまた歴史を物語として楽しむがあり、歴史に対して写実的ではない方であるが、ここではフィンの口からではなく、原典通り、ニルが夢の中で聞いたものとして描く。

 のではなく、ということに筆者は多いなる意味があると感じ、その二つは同じものでありながら、やや異なる匂いが放たれるように思うからだ。



 寝台の中、ニルは眼を開いた。たった今まで耳元で聞こえていた甘い声は、フィンのものなのか。目覚めると、いつもの地下の部屋。しかし、ニルは、この日は何かが違うと感じていた。感じただけで、ニルの行動はいつもと変わらない。ひとつ動作をする度に、あのフィンの声は夢であったのだと残念な気持ちがやって来る。それでも、何かが、違う日だった。


 宿の仕事は、忙しい。飯の仕込みに、客室の清掃。客から注文を言い付けられ、応える。裏の井戸で洗濯もして、日が暮れれば酒場を開ける。無論、全てを一人で行うわけではないが、やはり忙しいものだ。宿の裏手は、客は立ち入ることが出来ない。一階や二階も、窓からそこを覗き見ることは出来ないよう、木を植えたりしている。そこで、ニルらは武器を振るい、稽古をするのだ。

 夜の闇の中、ニルは、立っていた。宿や店にいるときは、穏和な好青年として客からの評判もよいが、こうして闇に染みるようにして立っている姿は、どうであろう。

 その瞳には、何の光も映らぬ。その表情からは、何の感情も読み取れぬ。闇であるから、ニルは、何者でもない。彼を照らす光が、彼に名を与え、彼を彼にするのだった。

 その意味では、今、こうして闇の中に佇んでいるニルは、彼の中のごく平均的な、中心に近い部分であると言える。

 彼は、器。空っぽの。

 それが、腰を落とす。光のない、光が、姿を見せた。

 逆さに反った、ヤタガン。斬れる。片手で扱う前提の武器だから、柄は、拳一つ分に少し余るくらいしか無い。重さで圧し切るのではない。鋭さで引き切るのでもない。速さで、通り過ぎるように、切るのだ。ほんの僅かに、S字に湾曲した刀身が、掛かった場所を、深く、深く切る。

 そのことを、頭の中に浮かべた。振り切ったとき、自分がどのような姿勢になっているかを、他人の視点から観察した。おかしなところを、修正する。そのために、どう身体を使えばよいか。そういうことを考え、また腰を落とす。

 斬った。手に、肉の感触が、再現された。それを繰り返す。気付いたときには、ニルは汗だくになっていた。

「ニル、ここにいたのか」

 ネーヴァが、慌てた様子で声をかけてきた。ニルは、何故か、ネーヴァが何の用で呼びにきたのか、分かった。だから特別な日だったのだとも思った。

「リベリオンから使いが来た。バシュトーが滅んだぞ」

「滅んだ?」

 ずっと、長い内戦状態にあったが、滅ぶとは、どういうことだろう。と素朴な疑問を持った。

「何故かは分からぬが、ある日、戦いが突然止み、何万という人がサラマンダルに集まり、そして、新たな国の建国を、宣言したそうだ」

「新たな、国」

「そうだ。クディスと言うらしい。バシュトー語で、聖女、という意味だ」

 ネーヴァが、慎重に、ニルの表情を観察しながら、言った。ニルは、それを気にすることもなく、口角を上げた。

「旗は、飛翔する、龍の旗」

 ニルは、駆け出した。屋内に戻り、ダンタールの部屋へ。

「ダンタール」

「ニル」

 ダンタールは、ニルを椅子に座るよう促した。既に、何人かが部屋の中にいた。

「他の奴らも、じきに集まってくる」

「ダンタール、旗が、立ったんだ」

 勧められた椅子に腰かけることなく、ニルは早口に言った。

「ああ、聞いた」

「そこに、フィンがいる」

「ニル、落ち着け」

「俺は行くよ、ダンタール」

 ニルは、今すぐに、一人ででも駆け出しそうな勢いであった。

「ニル」

 ダンタールの語気が、強くなった。

「俺たちがどうするかの、大事なときだ。お前一人の勝手な行動は、許さん」

「ごめん」

 ニルは、素直に従い、椅子の上に尻を収めた。

 そうするうちに、この宿のウラガーンの全員が、集まった。

「リベリオンからの通達を、話してやりな」

 コーカラルが、ダンタールに言った。ダンタールは、一つ頷き、

「まず、バシュトーは無くなった。そこには、新しい国が建ったらしい。リベリオンは、そこに加わるよう、言ってきた」

 と始めた。ニルが、喜色を浮かべた。

「しかし、それは、あくまで、内密に。その動きを、探るためだ」

 ニルの表情は、浮かんだり沈んだり、忙しい。

「基本的な方針としては、ウラガーンは南に建ったクディス国には、関わらぬ。あくまで、パトリアエの国内のことに力を使う。だが、クディス国を放っておくわけにはいかぬ。彼らが、何をしようとしているのか、探り、知る必要がある。そのために、ここから、人を何人か寄越すということになった」

 とダンタールが規定方針を告げ終えた。

「さて、どうするか、だ」

 コーカラルが、足と腕を組んだ。もう、四十に届く歳のはずだが、その美しさや肌の艶は変わらない。

「ダンタール。あんたは、どうするのさ」

 ダンタールは、うつ向き、指を組んだ。

「ダンタール。しっかり、おし」

 コーカラルの強い語気に、ダンタールは弾かれたように顔を上げた。この女がこの声を出すとき、大概ろくなことにならぬことを、彼は経験上知っていた。

「俺は、クディスに行こうと思う」

 と、ぽつりと言った。

「あんた、気は確かかい?あんたがクディスに行って、誰が皆をまとめるのさ」

「コーカラル。お前が、やれ。ニルも、ネーヴァもいる。やっていけるさ」

 ニルは、自分もクディスに行くとそこで宣言したかったが、何となく、ダンタールとコーカラルのやりとりに、口を差し挟むのが憚られた。ニルにも、それくらいのことは分かる。

「呆れた。あんたが、そこまで馬鹿だったとはね。何でまた、あんた自らが行くのさ」

「プラーミャのことさ」

「プラーミャ?」

「バシュトーの、二代前の王が死んだとき、プラーミャはそれに関わっていた。つまり、クディスの建国に、リベリオンが関わっているのだ。それにも関わらず、リベリオンは、クディスには関知せぬと言う。奴の真意を、確かめたいのだ。クディスとは、一体何なのかを、見定めたい」

 コーカラルが、黙った。

「おそらく、危険なことであろう。だが、俺は、行かねばならぬ。そう思っている」

「だったら――」

 コーカラルの声色が、少し変わった。

「――あたしも、連れて行って」

 それが、本音なのであろう。しかし、ダンタールは、駄目だ、と即座に退けた。

「お前まで抜けてしまっては、ウラガーンは立ち行かなくなる。皆のために、ここに、残れ」

 コーカラルが、また、黙る。

「ニル、ネーヴァ。頼む」

 ちょっと待ってくれ。とニルは言いかけたが、

「あんたが、そう言うなら」

 と応じるネーヴァに遮られ、機会を逃した。

「俺と共にゆくのは、リューク、ストリェラ、アイラトの三名。構わぬか」

 三名は、それぞれ頷いた。

「よし。では、そうする。必ず、戻る。留守を、頼む」

 ダンタールは、いつものような、明るい口調に戻り、言った。横目で、コーカラルの背を見る。

「勝手なもんさ」

 その背中が、言った。



 折角、旗が立ったというのに、ニルは、自分もクディスに行くと言い出せなかった。皆が退室しても、ニルは、椅子から動かなかった。ネーヴァも、壁にもたれかかり、ニルを見守っている。

「ダンタール」

 ぽつりと、ニルは言った。

「俺も、クディスに行きたい」

 七年もの間、待っていたのである。気づけば、ニルの歳はもう二十三になっている。孤児は自分の歳がよく分からぬことが多く、正確な年齢が分からぬが、ニルや、ネーヴァなど、赤子の時点で既に棄てられ、拾われた者は、わりあい正確に年齢が記されている。

「ニル。俺の話を、聞いていなかったのか。お前が抜けて、ウラガーンはどうするのだ」

「それでも、俺は行きたい」

「どうして、そこまでして」

「旗が、立ったんだ」

「旗が、どうした」

「そこに、フィンがいる」

 ダンタールが、ため息をついた。

「フィン、フィン。お前は、何年も前に去ったあの女のことを、いつまで気にしているのだ」

 言ったのは、ネーヴァであった。睨むように、ニルを見ている。

「いいか。あの女が何と言ったのか知らぬが、あの女は、どう考えても危ない。普通じゃない。クディスの中心にいるのがあの女ならば、あの女は、自らが力を得るために、世界の全てを利用していたことになるのだぞ。そんな女に、お前は、何を託すのだ」

 ニルは、子供のように、意外そうな顔をした。

「なにも。フィンがいるから、俺は行きたい。それだけさ」

「ニル」

 ダンタールが、ニルを見つめた。その眼で、ニルは、ダンタールが自分を諭そうとしていることに気付いた。

「お前が、フィンを好きなことは、分かった。しかし、ここは、皆のことを、俺達の使命のことを、考えぬか。人が、一人の気持ちで行動して、何かが良くなることは、とても少ない。しかし、人が、全体のことを考え行動すれば、必ず何かが良くなる。俺達は、そうして、今まで武器を採ってきた。そうだろう?」

 ニルは、うつ向いた。それくらいの理屈は、分かっている。しかし、この衝動を、どうして抑えればよいのか。分かりきった理屈などよりも、そのことを教えて欲しいと思った。再び、ネーヴァの言葉が、ニルの思考を切った。

「どうする、ニル。世界を捨て、一人の女のために、自分をも捨てるか。あの女が、お前を待っている保証が、どこにある。お前のことを、覚えてもいないかもしれぬ。それでも、お前は行きたいと言うのか」

「行きたい」

 ネーヴァが、明らかな嘲笑を浮かべた。そうすることで、ニルの考えが変わることを、期待したのであろう。

「それは、お前の独りよがりだ。お前が、そうしたい、というだけのことだ。お前は、勝手だ。誰のことも考えてはいない。その証拠に、お前は皆のことを考えず、自分の求めることのために、待っているかどうかも分からぬフィンに、お前を押し付けに行こうとしているのだ」

 ニルは、黙った。ネーヴァの言うことも、一理あると思ったからだ。いくら、ニルがフィンの言葉を信じ、生きていようとも、時間が経ちすぎた。フィンが、ニルと同じように、ニルを求めている保証などない。

「わかった」

 それだけを言って、ニルはうなだれたまま、部屋を後にした。

「大丈夫かな、ニルのやつ」

 ダンタールが、ネーヴァに言った。

「いや、駄目だろう」

 ネーヴァが、ため息をつく。

「あいつに抜けられては、困る。あんたの言う通りさ。それを、あいつも分かってる」

「残ってくれるだろうか」

 ネーヴァは、答えない。

「まぁ、別に、あいつがいなくとも、俺がいる。コーカラルも、マオも。大変だが、やっていけないこともない」

「ネーヴァ?」

「ダンタール」

 ネーヴァが、扉に手をかけた。

「ニルのことを、頼む」



 ニルは、地下の部屋で、寝具に埋もれていた。どうすればいいのか、分からない。皆を、ウラガーンを、捨てていくわけにはいかない。自分が抜けた後、苦労をするのは仲間なのだ。ウラガーンにとって、自分が重要な存在であることも分かる。しかし、どうしても、フィンのところに行きたい。フィンは、待っていると言ったのだ。龍の旗。そこに、わたしはいると。そこで、待っていると、言ったのだ。

 ニルは、人を殺すとき、いつも言うことがある。

 お前が死ぬ理由わけは、お前が、知っている。

 では、自分が生きる理由わけも、自分が知っているということにはならぬか。

 ならば、迷うことはない。

 これは、わたしたちの、夢。朝見た夢の中で、フィンはそう言った。

「行けよ、馬鹿野郎」

 声が、降ってきた。見ると、ネーヴァが、階段のところに、立っていた。

「行け。めそめそと、みっともない奴だ。考えてみれば、お前など居なくとも、俺がいれば、十分なのだ」

「ネーヴァ」

 ニルは、寝具から身を起こした。

「いいのか」

「いいも何も、このままここにいても、お前はどうせ勝手に抜け出して、行くんだろう」

 くすくすと、笑って、金色の髪が、揺れた。

「だから、行け」

「ネーヴァ」

 ニルの黒い瞳は、子供のようである。それが、僅かに運動をしながら、ネーヴァを見つめている。

「済まない」

 そして、ニルは、寝台から降りた。夜着から、旅の服に着替え、外套を纏った。ウラガーンの制服のようになっている縞模様のものではなく、普通の旅装だ。それに、腰には、愛用のヤタガン。

 ネーヴァに、一つ笑いかけ、ニルは、ネーヴァを通りすぎ、階段へと足をかけた。ネーヴァは、微動だにしない。そのまま、

「ただし」

 と言った。

「死ぬな。戻ってこい」

 ニルが、振り向く。ネーヴァの背に向かってまた笑いかけ、

「ありがとう。お前もな」

 と答えた。その声は、地上へ繋がる階段に、響いて広がった。



 それから七日後、ダンタール、ニル、リューク、ストリェラの四人は、国境の丘陵地帯を越え、かつてのバシュトーの領地へ入った。

 クディス国は、国を名乗っているが、今のところ政府も王もない。ただの、人の集まりだ。

 かつての王都、サラマンダルへ。そこが中心であることに、変わりはないらしい。

 ニルとフィン。二人の再会が、近い。この先、二人の願いが重なったとき、それは暴れる風となるのだろう。

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