第二章 王国歴三百二十一年

ダンタールという男

 少年は、言葉を知らなかった。ほとんど、獣だった。首都グロードゥカの外れに、城壁の中には住めない者たちが汚ならしい小屋を建て並べて暮らす地区がある。物心ついたときは、そこで、奪いながら生きていた。


 こよみを、少し遡る。王国歴は、二九三年。物語の本筋を進める前に、分厚い史記の中、囁くように綴られたこの日のことに、触れておきたくなった。



 少年は、夜の貧民街でごみを漁っていた。日課のようなものであった。首都グロードゥカの城内には夜の中央の鐘が鳴ったのち街路を歩くような者はいないが、城壁の外となれば別である。特にこの貧民街は、貧しくて城内で暮らせぬようになったか、地方からグロードゥカで何とか一旗挙げようと上ってきたものの、その厳しい統制のもと管理された商業に太刀打ちできずに財産を失ったものばかりが暮らしているから、自然、治安が悪く、王家もあえて手を付けようとはしていない。

 富の平均化を図るよりも、王家そのものの安寧と、それをたすける者が富むことの方が、王家にとっては大事であったのだ。

 貧しい者のことを、省みる者はない。ましてや、その中で獣のようにごみを漁る少年一人など、居ないのも同じであった。


 廃棄された、雨に濡れた食物の中から、食えるものを見つけて無心に貪る。そこへ、足音が近付いてきた。

 少年は、身構えた。獣のように、唸り声を上げる。足音に、害意は無いようだ。それでも、少年は唸った。

「そう、構えるな」

 男の声は、柔らかい。背はそれほど高くはなく、二十になるかならぬかくらいの年頃らしい。

「お前のものを、奪ったりはせぬ」

 微笑っているようだった。それで、少年は、手に握り絞めたものを食う作業に戻った。

「それ、美味いのか」

 男は、少年の手元を、すぐ側から覗き込んだ。驚くべきことに、移動する気配が全くなかった。それがとても奇妙で、少年は、思わず男に飛びかかった。男の首を掴んだつもりが、手は空を切り、体ごと雨の上に転がった。


「おい、これ、お前のものなんだろう」

 男が、少年が握りしめていた肉片のようなものを投げ渡した。

「凄まじい闘争心だな。悪くない」

 男は、何故か満足そうだった。少年は、男が何者なのか、今になって考え出した。どうやら、自分に用があるらしい。

「振れるか」

 男は、腰に差した長剣を抜き、少年に手渡した。無論、少年は剣など持ったことはない。言われるままに、振ってみた。すると、雨が斬れた。刃の上に乗った雨粒が滑るようにして、空間に残されてゆく。少年は、それを、とても面白いと感じ、何度も何度も繰り返した。


「お前、言葉を持たぬのか」

 男が、少年を見ながら言った。少年は、ぽつりと頷いた。男の言う意味は分かっても、己の心のうちを表すすべを知らぬものらしい。

「名は」

「——ダンタール」

 それが、少年の知る、数少ない言葉だった。

「お前の剣は、良い筋をしている。俺と、共に来ぬか」

 ダンタールは、またぽつりと頷いた。

「俺は、プラーミャ」

 それが、男の名。ダンタールは、プラーミャの後に付いて、雨の中へ消えていった。


 プラーミャは、様々なことを知っていた。パトリアエの国土のあちこちに知り合いがいて、ずっと旅をしているらしい。

 言葉も、教えてくれた。プラーミャという名が火を意味することも知った。ダンタールという名がなにを意味するのかは、プラーミャも知らなかった。

 国のことも、教えてくれた。ダンタールのような子供が、この国には溢れかえっている。ごく一部の子供だけが、暖かな衣服を着、雨に濡れることなく、食べ物を食べ、それ以外は、奪うか、奪われるしかないのだという。

 プラーミャは、それをどうにかしたいと考えていて、全国にいる同じ考えの者を、取りまとめているらしかった。


「お前と出会う前、俺は刃を手に入れた」

 プラーミャと話すうち、それが剣のことではなく、ものの例えであることを、ダンタールは理解できるようになっていた。

「反逆の、刃」

 そう、プラーミャは言った。その刃の一つに、自分はなろうとしているのだと、ダンタールは悟った。


 このとき、ダンタールは、十歳ほどのとき。彼もまた、ニルらと同じように、国が産んだ牙であり刃であった。


 パトリアエの軍制は、中央軍と地方軍に分かれている。中央軍は文字通り王家直属の軍で、首都グロードゥカの治安維持及び、国家の危急の際に戦う。

 ニルらにすれば人形同然だが、装備は充実しており、バシュトーの騎馬隊をはね返したことも一再ではない。

 そして、地方軍。中央以外の国土を六つに分け、それぞれの軍管区を守備する。これは、更に小さないくつもの単位に分けられており、王家の監視がゆき届かぬことが多いから、強い軍は中央軍を凌ぐほどの精強さを誇り、弱い軍は不正の温床となった。


 このとき、ダンタールが出会ったのは、後者の方だった。プラーミャと二人、辺境の地に足を向けたとき、運悪く、宿を取った村で地方軍の「巡察」に遭遇した。巡察とは、異変がないか見回ることであるが、この軍はとくにが悪く、巡察と称して村々を回り、金を出させる。出さなければ、暴れ、去ってゆく。その金は、兵たちが女を買ったり、美味いものを食ったりするのに使われた。言ってみれば、盗賊と何ら変わりはない。


 宿の娘は、とても親切で、二人にこの辺りのことを詳しく教えてくれたり、政治に不満を持ち、その非を説いている活動家の名を教えてくれたりした。食事も払った銭の割に暖かなものが沢山出て、ダンタールの身体を暖めた。

「なんにもないところだけど、ゆっくりしていってね」

 可憐な笑顔であった。プラーミャ以外の人と、暖かな日常のやり取りをし慣れていないから、ダンタールは戸惑った。

 


 その娘が、泣き叫びながら、群がる兵どもに代る代る犯されるのを、ダンタールはただ見ていた。

 プラーミャは、いない。朝、村の外に出た。もうすぐ戻ってくるだろうか。ダンタールは、眼の前の信じがたい光景を見ながら、プラーミャが戻ってくるのを、ひたすら待った。

 娘が声も上げないようになり、泥にまみれながら生きているのか死んでいるのかも分からない有り様になった頃、プラーミャは戻った。


 竜巻タルナーダ。背に負った大剣が振られるのを、ダンタールは初めて見た。

 まさしく、竜巻だった。二十人ほどの兵が、呼吸を十も数えぬ間に、死骸になった。

「ダンタール」

 プラーミャが、ダンタールに歩み寄ってきた。てっきり、怪我はないか、と労られるものとばかりダンタールは思ったが、違った。

「お前の手は、何をしていたのだ」

 プラーミャは、自らがダンタールに与えた剣の柄を握った。

「よく見ろ」

 ダンタールの顔を、無理矢理、泥の中に転がる娘の方へ向けた。

「これが、この国だ。これが、この国の姿だ。お前の剣は、これを、打ち破るためにある。あの娘を、救うためにある」

 ダンタールの眼から、涙がこぼれた。生まれて初めて、流した涙だった。たぶん、あの娘は、兵どもに犯されながら、絶望と恐怖の中で死んだのだろう。ダンタールは、眼を決して閉じようとしなかった。涙をこぼしながら、娘の姿を、その眼に焼き付けた。



 その後、時間が経って、同じような出来事があったとき、ダンタールは自らの剣を振るうことを躊躇はしなかった。

 悪を働く者を斬ったとき、むしろ快感すらあった。人が、それで救われたのだ。それを見ていた者も、ダンタールとプラーミャを、英雄と称賛した。

 プラーミャは、喜ばなかった。しばらくして、その村が、軍の攻撃を受け、滅ぼされたという噂を聞いたとき、ダンタールは愕然とした。

 自分が、剣を振ったから。兵を殺したから、怒った軍が村を攻めた。そう思った。

「戦うとは、そういうことだ。抜かねばならぬときに抜かぬのでは、剣の意味がない。しかし、抜かずとも済むときに抜いても、別の災いがやって来る。このことも、よく覚えておけ」

 プラーミャは、どうやら、ダンタールにとても大切なことを教えようとしているのかもしれぬ。たとえば、戦うということを。たとえば、生きるということを。


 無論、まだ力の弱いリベリオンに、強力な刃たらんとダンタールを育てているわけであるが、ダンタールは、そうは思っていなかった。

 ——このひとは、おれを、人にしようとしている。

 そう思っていた。


 どのようにしてウラガーンが出来上がり、そこに彼らがどのように携わり、物語の本筋に繋がってゆくのかは追い追い描くとして、まず、このダンタールという男の、はじまりのことを描いておきたい。そう思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る