王国歴三百二十一年
ダンタールは、うつろな夢の中から、現実に戻った。その目は開いて眼下の街路を見下ろしている。しかし、頭はまだ眠っていた。ごく僅かな時間、そういう眠り方をし、休息を取る訓練も、積んでいるのだ。
いつも、少年の頃の夢。プラーミャと共に国土を巡り、人と人を繋いだ。お陰で、ウラガーンの一部隊の頭としても一目置かれる存在になった。見よう見まねで振るうようになった大剣も、自分がプラーミャのそれを
ダンタールは、四十になろうとしている。なろうとしている、というのは、彼自身、いつ生まれたのか、よく知らないからだ。プラーミャと共にいる頃、十歳くらいであった。だから、今は、四十になろうとしているのであろう。
日毎、頬や目の尻に皺が刻まれ、それが深くなってゆくように思う。しかし、まだ老いてはいない。若い者でも振るのがやっとという大剣を、枝きれのように自在に振り回すことができる。肉体的にも精神的にも今が最も充溢しているのだという実感を、あと何年維持できるのかだと思っている。
眼下の街路の景色が変わった。普段はダンタールは殺しの仕事には出ないことが多いが、今日は、軍の者が相手である。護衛も多く、正規兵である。だから、出た。
そっと、屋根から浮かんだ。浮かんだような気がしたが、次の瞬間、地に降り立った。音はない。あるのは、雨。そして短く刈った髪から、滴。
マホガニー色と炭色の縞模様の外套から柄だけ突き出した、背中の剣。それを握った。
眼の前の存在が、ダンタールを見つけ、騒ぎ出した。傘つきの灯火が、白い煙を上げながら乱れる。
眼の前の存在。それは、敵。ダンタールは、竜巻になった。
「たぶん、ダンタールが、始めた頃だろう」
「そうだな、兄者」
リュークとストリェラの双子が、少し離れた場所で、屋根の上に身を伏せている。先程、彼らがやり過ごした十人ほどの一隊。それを、先にいるダンタールが殲滅する。その間に、二人は本命を囲む隊を潰す。ダンタールが暴れればとても目立つから、うってつけの役割というわけだ。
通りの反対側の屋根では、ネーヴァと、最年少であるこの王国歴三百二十一年の時点で一七になったアイラトが伏せている。
「国内は、主戦論に傾くのかな」
ストリェラが、兄に言った。
「これを斬ったところで、そうは変わらぬ。今のところ、バシュトーとの決戦を求めているのは、英雄アトマスくらいだからな」
バシュトーが、ラームサールの盟を破り、しきりと国境を侵してくる。国境の軍が応戦するが、それがこのところ、敗けることがある。軍の最高位である
今、国内は、それで揺れている。まず、王が反対している。おそらく、自らの近くから軍を遠ざけるのが怖いのであろう。自然、他の閣僚や関係者どもも、反戦に傾いた。
しかし、ウラガーンは、その大規模な決戦のはじまりの後押しをしている。反戦論者の中で力のある者を、このようにして順に葬ってゆくのだ。一人目、二人目は、楽だった。三人目からは、数十人単位で護衛が出た。これで、六人目になる。
その標的を囲む護衛の両脇に、双子と、ネーヴァと、アイラトが立った。護衛の軍が、ヴァラシュカという戦斧を構えた。やはり、美麗な装飾が施されている。さかんに何かを叫び、灯火が揺れた。
リュークの腰の後ろから、鈍い光。短い斧が二本。それを両手に握った。ストリェラは、両刃の剣。
鉄が、鳴った。
馬が曳く車。その中に、標的。
そこに届けと言わんばかりに、鉄が鳴った。
ジャマダハルと、自らの拳や脚を武器に、ネーヴァは舞っている。四年前よりも、さらに技は磨かれている。アイラトも、すっかり背が伸びた。ちょっと癖の強い栗色の髪を弾ませながら、長剣で正確に重装兵の鎧の隙間を突いてゆく。
雨の音と、鉄の音。そして、断末魔。時には、鎧や骨の砕ける音。
その中から、地虫が這うように、逃げる者がある。馬が曳く車から出てきた標的である。自らを苛む音から、火花から、悲鳴から逃れるようにして、もと来た道を戻った。
彼を苛んだ恐ろしい音は、遠ざかった。あるのは、雨の音と、自らの足音。
灯火も無い闇の中を、滑り、転び、起き上がり、また駆けた。どこに向かっているのか。
闇の先へ。恐怖から、ただ逃れるために。
なにかに、つまづいた。その何かが、声を発した。
「何故、お前が死ぬか、分かるか」
標的は、沈黙した。転び、膝をついた状態で、闇の中に、眼を凝らした。
「お前が死ぬ
すぐ上から、声は降りてくる。そして、腹が熱くなった。自分の意思とは無関係に大きくのけ反り、そして力は抜け、雨を打ち返す石畳の感触が、頬に伝わった。
ニルの髪に伝った雨は、空から降る雨よりもゆっくりと落ちるらしい。
なんとなく、ニルはそんなことを考えていた。血溜まりが、薄く。闇の中で、見えはしない。しかし、ニルの前の闇に広がる光景は、決まっていた。
その闇を見ながら、ニルは、フィンの言葉を思い出していた。あれから、四年になる。フィンの言った龍の旗は、まだ立たぬ。いつ、どこで立つのか。バシュトーの動きは活発になっている。バシュトーの国の中に、龍の旗が立つのか。自分は、バシュトーの者として、パトリアエと戦えばよいのか。
思って、ニルは思考を止めた。肌で、自らを打つ雨の感触を見た。
仲間のところへ戻る。こんな夜は、武具の手入れをし、火を焚き、かじかんだ身体を暖めればよい。
この四年、ニルはフィンをひたすら求めていた。求めるあまり、苦しくて夜の間に何度も目を覚ますこともある。遠く離れ、求め、思うことで、フィンはむしろ、いつもニルの側にいた。
べつに、女としてのフィンを求めているわけではない。あの日、雨雲を切り裂く彗星のようにニルの前に現れたあの不思議な娘が、何かを変える。そんな気がしていたのかもしれぬ。
雨に濡れた花のような甘い香りと、灰色のフードの下の眼が、いつも、そして今も、ニルを見ていた。こんどこそ、思考を止める。止めたはずのところから、また別の想念に思考が遊ぶのは、ニルの悪い癖である。
仲間のもとへ、駆け戻った。
「ニル」
ネーヴァがニルを迎えた。既に、作戦に参加した者全員が集合しているらしい。闇で見えぬが、気配の数を聞き、ニルはそれを知った。
「やったか」
ダンタールの声。
「やった」
夜に出す声、と彼らが呼ぶ発声法。それが雨の音の中、短く交わされた。
王国歴三百二十一年の項は、ここから始まる。ニルがフィンと出会ったのと同じ季節。
雨の中から、どこからともなく、その花の香りが漂った。それが具体的にどのような花なのか、記されてはいない。思うに、それは、白もしくは、フィンの髪の色のような、淡い色彩のものであったように思う。
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