サラマンダルの変

 ちょうど、同じ頃。フィンは、灰色のフードを被って、ソーリ海と彼らが呼ぶ広大な塩湖の上にいた。ウラガーンと別れてから、四年。あどけなさの残っていた彼らはすっかり大人の身体と顔つきに成長していたが、フィンがどうであるのか、灰色のフードで隠されていてよく分からない。手指の線はほっそりとし、女性らしいものになっていることが、辛うじて分かった。

 ここまで書いて、筆者は、このフィンという少女、いや、いまは長じて女性のことを描くのに、たいへんな注意を払っていることに気付いた。何回、史記をめくってみても、どうにも、その実像が見えて来ぬ。繊細なようで、大胆。深い思慮があるかと思えば、何も考えていない。たとえば、虹のように、そこにあることは確かな事実として存在するのに、決してその麓に立つことは出来ず、この手に触れることも出来ぬような。描いていて、そういう、もの苦しさがある。それがゆえに、このフィンという形容しがたい存在のことを描くのに、知らずと大変な注意を払っているのであろう。

 そして、その注意と苦労は、少しずつ喜びへと変わっていることもまた事実として認めなければなるまい。


 さて、王国暦三百二十一年のトピックスでもある、「サラマンダルの変」のことを、書かねばならない。これも、研究者、歴史家、劇作家などにより、様々な考察が施されているが、フィンという女性のことをほんとうに理解しようとしない限り、上辺だけのものとなってしまうから、難しい項である。

 筆者の注意はより深くなり、苦労と喜びは、なお増してゆく。



 彼女の艶やかな爪が、船べりを叩いている。苛立ちのリズムではない。むしろ、機嫌が良さそうだった。

「いかがなさいましたか」

 船を、ゆっくりと漕ぐ男が、振り返らずそう言った。

「なんでもない。少し、頭が痛いの」

「頭が痛いのに、船をご所望とは」

「いいの、気にしないで」

 船べりを叩くフィンの軽快なリズムを、男は聴いた。どうやら、フィンの場合、頭痛というものは、苦痛とは直結しないらしい。

「姫」

 と、男はフィンを呼んだ。王女、という意味ではない。高貴な娘、という意味で、男はそうフィンのことを呼んでいる。

「それで、遂に、やるのですか」

「ええ」

「いつ」

「あなたの都合に、合わせるわ」

「私は、いつでも出来ます」

「あなた一人で?」

「無論」

「私も、行くわ」

 ソーリ海にも、バシュトーとパトリアエの境はある。島と島を結び、陸の目印と合わせ、線になるようになっている。

 その島が、遥か彼方に見えて来た。

「戻りましょう」

 南へ、戻る。ソーリ海に流れこむジャーハーン河を遡り、首都サラマンダルへ。

「姫」

 男は、太さのある声で、もう一度言った。声の調子は、壮年、いや、もう、老人と言ってよいかもしれない。

「なぜ、船をご所望なさったのです。この秘事を、話すため?」

 フィンは、フードの中で、笑った。笑うと、あの花の香りが、ほんの少し振りまかれる。湖の風が、それがどこかへ運んで、すぐ散った。

「いいえ。船に、揺られたかったの」

 フードの中のフィンは、心底、楽しそうだった。風が、また吹いた。淡い色の髪を、欲しがるように。髪が、あるべき場所に戻ろうとするのを助けようとするフィンの爪から、光がこぼれているように感じて、慌てて男は進行方向に顔を戻した。

「今夜、迎えに来て」

「畏まりました」

「頼んだわよ」

「しかし」

 と男は、またフィンの方を見ずに、言った。

「姫の身を、危険に晒すわけにはいきません。出来れば、私一人で行きたいのですが」

 フィンは、答えず、片手で頬杖をつき、もう片手で例のリズムを刻んでいる。

「言っても、無駄ですか。くれぐれも、要らぬことをなされぬように」

 男のため息と共に、諦めの言葉が出た。フィンは、くすくすと笑った。

「お願いね」

 また、風。

「プラーミャ」


 バシュトーを利用し、パトリアエを滅ぼす。つまり、戦いに持ち込み、バシュトーを勝たせる。フィンを知る、たとえばニルなどは、フィンの思惑をそのように考えていた。しかし、この夜のフィンの行動は、それを成すためには遠回りと言わざるを得ないものであった。

 反パトリアエの旗頭は、国王である。この四年、ラームサールの盟を破り、天地最強の戦士であると言われるパトリアエ軍の頂点に君臨するアトマスの怒りも気に留めず、しきりと国境を侵している。

 それは、フィンの手引きによるものだった。フィンは、王の側近や軍の権力者にしきりと取り入り、国策を反パトリアエに四年かけて傾かせた。どのようにして取り入ったかは、相手により違う。考えうるあらゆる手段を、用いたに違いない。

 そして、いまやフィンは、姫と呼ばれ、一目置かれる存在となっている。そうして折角手に入れた反パトリアエの世論を、この夜、一瞬にしてフィンは壊してしまうのである。


 王の宮殿。泥を固め、焼いた煉瓦のようなものが積み上げられたもので、宮殿と言ってもパトリアエのそれのように豪壮で美しいものではない。いかにも、一つ処に落ち着くことに慣れていない騎馬民族国家の首府らしい宮殿である。

 夜でも、影は伸びるのだ。そんなことを思いながら、フィンは生きているのか死んでいるのか判らぬ乾いた草を踏み、歩いた。

「ダンタールを、知っているわ。あなたが育てたんでしょ」

 今からやろうとしていることと、全く関わりのないことを、フィンは話した。プラーミャ、と船の上で呼ばれた男は、やはりダンタールを育てた、パトリアエ国内の叛乱軍リベリオンの頂点にいるプラーミャであった。それが、バシュトーの国内でふつうに、いや、むしろ強い力を持ち、行動している。

「ダンタールは、健在でしたか」

 感情のこもらぬ声で、プラーミャは言った。

「ええ、今は分からないけれど、共に過ごした頃、とても、立派な人だと思った。ちょっと、馬鹿なのかしら」

 ふふ、とフィンは親しみをこめ、笑った。フィンを攫うよう、ダンタール率いるウラガーンにリベリオンから命じさせたのは、プラーミャである。ダンタールが独り立ちをしてからは、プラーミャは会っていない。しかし、彼が育てた者の中で、ダンタールは最も、力も技も、心も優れていた。実際、ダンタールが率いるウラガーンは、を一度も失敗していない。

 乾いた草の上に、夜の風が転がった。どういうわけか、夜になると、首都サラマンダルの風は、途端に水分を含む。日没により大地が急速に冷え、それにより、陸地より冷えるのが遅いソーリ海から風が生まれるからであろうが、フィンらは無論そのような科学的根拠を知らない。ほんの少し、塩気がある気がするのは、それが「ソーリの風」と呼ばれているからかもしれない。

 そのソーリの風を、灯火が照らしている。

「誰だ、このような夜更けに」

 門番が、灯火を翳した。雨の多いパトリアエのように傘のついたものではなく、松明である。

「プラーミャ様?それに、姫――」

 門番は、二人の姿を見て、驚いたらしい。

「済まぬ。夜分は、承知だ」

 そう言いながら、プラーミャは足早に距離を詰めた。外套から突き出た大剣とは別に、腰の後ろに短い剣を二本、交差させるように差している。

 それを、それぞれ逆手に握り、斬った。

 二人の門番が、同時に、倒れた。

 ソーリの風が、血飛沫をも飲み込み、また転がってゆく。

 それを見るフィンの顔は、やはりフードの奥。

 駆ける。

 夜分であるから、宮殿内の兵は、少ない。それでも、居ることは居る。目に映る者を、プラーミャは全て斬った。室内や通路での戦いで、短い剣は役に立つ。ふつう、一本で受け、一本で攻めるという風に扱うものだが、この老いた男の場合、そもそも受ける必要がない。

 その姿すら捉えることが困難なほど、速い。斬った相手の血が床に落ちる前に、次の相手に斬りかかっているほどである。


 さすがに、異変を察知したのか、大広間に、兵が集まっていた。

「姫、ここに」

 その入り口に、プラーミャはフィンを留め置いた。外套を、脱ぎ捨てる。もう、何十年もの間、戦い続けてきた、老いた戦士の顔が、フードの中から現れた。そして、その背には、同じく何十年もの間、振るい続けてきた、大剣タルナーダ

「プラーミャ様が、叛いた!」

「謀反だ!」

 口々に、兵が叫び出す。プラーミャは、何も言わない。

 ただ、疾駆した。

 まさしく、竜巻タルナーダ

 一振りで、五、六人が、死骸になる。

 兵どもは、何が起こったのか分からず、口をぽかんと開けて、飛び散る物体を見た。

 振り切った剣の勢いを活かし、身体ごと廻し、更に一歩踏み出す。

 風とは、生まれたとき、その力は弱い。

 しかし、風が風として吹くうちに、どんどんその力を強めていくものだ。それに、似ている。

 一振り目より、二振り目。

 更に、兵が吹き飛ぶ。

 プラーミャの老いたはずの身体からは、なお引き締まった筋肉が、青筋を立てて浮き上がっている。

 剣先を床に擦りつけ、一気に振り上げる。

 火花。

 自分の身体ごと、持って行かれそうになるのが、快感でもある。

 筋肉の、軋み。

 鎧を割る、感触。

 弾け、飛ぶ、敵。

 戦い。

 それが、すぐに、終わった。プラーミャは、息を深くつくと、背に大剣を戻した。

「さあ、姫」

 フィンは、プラーミャが起こした、血の竜巻を、見ていた。恐怖はない。ただ、見ていたのである。フードを被ったまま頷くと、王の居室へと駆けた。


 扉を開け放つと、王は、粗末な椅子に腰掛けていた。若い頃から馬を駆り、陽によく焼けているから、褐色に近い肌色をしている。

「何故、来た」

 王は、そう問うた。問答無用とばかりに腰の短い剣を抜こうとするプラーミャを制し、フィンが歩み寄る。

「何が、したい」

「王。私怨によるものではありません」

 フィンの、甘い香りが、王の鼻孔に充満した。思わず、手を伸ばしてしまいそうになるほど、甘い。淡い色の髪が、王の頬にかかる。続いて、柔らかな掌が、肩に。フィンの、吐息が、王の耳に。そっと。

「貴方が何故死ぬか、分かりますか」

 王は、眩暈に似た頭の中で、フィンの言う意味を、理解しようとした。

 それより前に、暖かな温もりを、胸に感じた。

 深く、それは、入って来た。

 全身から、命が抜け落ちてゆくのを感じながら、王は、なお甘美な囁きに酔っていた。

「貴方が死ぬ理由わけは、貴方が知っている」



 この夜、バシュトーの王は、死んだ。一人の老人と、一人の女によって。この後、バシュトーの国内は、大いに乱れることとなる。なにしろ、複数の部族の集合体がバシュトーで、今の王は戦ってその地位を勝ち取ったに過ぎない。バシュトーの王とは神聖なものでも不可侵でも世襲でもなく、戦いに強いリーダーである。

 その政治的真空を埋めるように、風は吹く。真空が大きければ大きいほどに、強く。

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