道、極まれり
ニルが、戦場に到着した。それは、まさに、あり得ぬことが、起きたとしか言いようがないことである。
アトマスとフィンの、全力の策のぶつかり合いは、ぎりぎりのところで、フィンが勝ったというわけだ。
個人の武のぶつかり合いなどにおいてもそうであるが、同じ力を持つ者同士が当たると、最後に勝敗を決するのは、ほんの小さな何かであったりする。
たとえば、どちらか片方の眼の前に、蝶が飛んだとか、どちらかが、たまたま鼻水が出やすい日であったとか、どちらかの眼に、西陽が射し込んだとか。
この場合のそれは、何であったのであろう。
あえて、決め付けて言う。
これは、必然であると。偶然や、奇跡や、筆者の都合では、断じてないと。
フィンは、もう、何年も前から、一つずつ、それを積み上げてきた。アトマスの眼の前で、ちらちらと羽ばたく蝶を。アトマスの鼻をくすぐる、微細な埃を。アトマスが自ら進んで西陽が眼に入るような位置に立つような、アトマス自身の行動を。
そのために、あの日、大聖堂を抜け出し、リベリオンやウラガーンを利用してバシュトーへの亡命を果たし、そのバシュトーを徹底的に乱し、バシュトー人を国無き民としてそのまま浮かし、そうすることで彼らにクディスの民としての一体性を持たせ、強力な軍とした。知も武も優秀であったシャムシールに眼を付け、それに統率させて、自らの死を偽装して、彼らをパトリアエへ向けた。
一方、パトリアエに対しては、その国家機構を強くするため、あえてバシュトーの王座を空にして国内を乱して隙を作り、プラーミャを使ってウラガーンに、パトリアエの反戦論者を徹底的に斬らせ、両国を戦わせ、再起不能になるぎりぎりのところに持ち込んだ。
それでリョートが台頭し、アトマスは、パトリアエを強くすることが出来たのだ。
蛇の頭を潰す話を、覚えているだろうか。パトリアエの国家機構をそのまま手に入れるために、パトリアエ自身に、それをさせたのだ。
あとは、蛇の頭を潰せば、それはそのまま、フィンのものとなる。
振り返れば、筆者にも、こうして、彼女の思考と行動を、追うことが出来る。しかし、その頁を手繰っているとき、誰が今のこの状態を想像出来たであろうか。そして、この先、どうするつもりなのかは、やはり分からない。
アトマスの志は、清く、美しかった。まさしく、英雄の抱くそれであった。
しかし、フィンの求める国には、英雄は、必要なかった。そこに至る、あらゆる要素を創り、不要なものを排除し、フィンは、今ここに立ち、駆けてくるウラガーンを、見つめているのだ。
それとは全く別のところで、フィンは、一個の人間として、ニルを待っていた。
彼女の創るものに、それは必要であった。それ以前に、フィンは、ニルを必要としていた。
二人の願いが、重なり、交わる。
戦場に到着したニルが、共に大きく数を減らしたシャムシール隊と、グロードゥカ守備隊の間を、横一線に駆ける。
高く、何かを掲げながら。
「聴け、パトリアエの者よ。お前たちの心を繋ぐ、英雄アトマスは死んだ。戦いを止める者は、ただちに、武器を捨て、ここより去れ。あえて、追わぬ。英雄アトマスの弔いを、ウラガーンの血に求めるならば、相手になろう」
ニルの手にあるのは、アトマスの首であった。それを見たパトリアエの兵の多くは、力なく、膝を落とした。戦意を無くし、武器を捨て、
しかし、それで、戦いが終わったわけではない。パトリアエ軍の、誰かが言った。
「諦めるな。
何人かが、立ち上がった。それに、別の者が、続いた。
ニルは、それを見て、何故か、美しい光景だと思った。馬をゆっくりと進め、下馬し、歩くと、ニルのことを睨みつけ、涙を浮かべている若いパトリアエの兵士に、アトマスの首を、渡してやった。
それはその者が思っていたよりも、ずっと重かったらしく、その者は、取り落としそうになりながら、大切なものとして腕に抱え直した。
ニルが、その者に、背を向ける。向けながら、腰のヤタガンを抜いた。
「俺が、あのバシュトーの列に戻ったとき、お前達は、死ぬのだ。希望のため、戦い、そして、死ぬのだ」
その背中が、言った。
再び馬に跨り、ゆっくりと、シャムシールとウラガーンが整列するところへ。
馬首を、返す。
大きく、息を吸い込んだ。
「ウラガーン、出る」
喊声。一匹の龍が、戦場を駆けた。その後に、ずいぶんと数を減らした、シャムシールの騎馬隊。
そこで、パトリアエの弓の弦鳴り。騎馬が多くなったことで、対応してきたのだ。後から出た騎馬隊が、それにやられた。次々と、馬から落ちてゆく。
「あの弓隊を、潰す」
敵の中、斜め上に矢を放つ弓隊を、ニルが捕捉した。ウラガーンが、そちらに向け、馬を回す。
弓隊がそれに気付き、武器を持ち替え、対応してくる。右から、左から突き出されてくる武器を避けながら、ニルは、敵を斬った。ニルの通るところは、敵から吹き上がる血で、雨が降るようだった。その脇を、ストリェラが、しっかりと追いかけ、固めている。
二人の作った間隙に、ウラガーンが、殺到し、押し広げてゆく。
鮮やかに、敵の陣が割れた。
シャムシールも、少ない隊ながら、巧みに蛇行し、敵を翻弄している。その動きを見て、ニルは、シャムシールが、敵の総指揮官を探していることに気付いた。
まさしく、総力戦。これが、二つの国の、最後の力なのだ。そのぶつかり合いを、フィンは、脇に誰もいなくなった本陣の中、見つめていた。
フィンのところからでも、シャムシールが、敵の総指揮官の首を狙っているのが、見て取れた。
「危ない」
そう、フィンは呟いた。
シャムシール。二百を切った隊を引き連れ、駆けている。彼のバシュトー特有の、湾曲した剣は、振ると、りん、と不思議な音がする。その音が一つ鳴る度、敵が死ぬ。
彼の隊が、今、最も小さい。ゆえに、小回りが利く。それを活かし、敵を翻弄しているように見せかけながら、敵の心臓を、探すのだ。
彼は、敵の真ん中にいながら、戦場全体を見渡した。敵の動きは、波のように伝播してゆく。このように、陣の中に騎馬隊を入れた状態では、伝令や指示を全体に伝えるために音や光などを使うことは出来ず、直接指揮をするほかない。指揮をする者もまた、この中で、目の前の敵と戦っているのだ。
それゆえ、戦場に、波が生まれる。総指揮官の声による号令が、周囲の者の行動になり、それが、別の者へと移ってゆく。その波紋の出発点を見つけた。
波に逆らうようにして、シャムシールが、駆けた。後続の兵が、次々と脱落してゆく。心臓に近づけば近づくほど、それを守るものは厚く、強くなってゆくものだ。
シャムシール自身も、既に、全身に傷を負っている。しかし、それを顧みる余裕はない。
もう、手の届きそうなところに、敵の心臓があるのだ。
脇に、ウラガーンが見えた。こちらの動きに気付き、援護をするつもりらしい。
「パトリアエ人は、気が優しい」
このとき、ぽつりと、脇にいる者に、そう言ったという。
敵の心臓が、シャムシールに気付いた。一斉に壁を作り、防戦してくる。
馬が、それにぶつかった。
十本ほどの槍やヴァラシュカ等を受け、馬が倒れた。
その前に、鞍から飛び降り、濡れたままの土に転がった。
振り下ろされてくる武器を、そのまま、避ける。
片腕と両足で、獣のように跳躍し、その壁に、ぶつかった。
「シャムシール!」
ニルの叫び声が、聞こえた。聞こえるほどの距離まで来ている。ならば、尚更、急がねばならぬ。
腹に、肩に、鋭い熱が走った。自らの身体に入るそれを握る者を、斬った。
「我が名は、
パトリアエ人に分かるよう配慮して、パトリアエ語で、そう言った。
言いながら、口から、血がごぼごぼと溢れてくるのを感じた。
それが、どうした。そう思った。
「
文字通り鋭き剣となり、敵陣をここまで切り裂き、たどり着いたのだ。
それは、心臓に、届く。
振った。
心臓を守る壁の一人が、肩を深く割られ、倒れた。
腹に、また、槍が来た。
その柄を、斬った。
りん、という音が、また鳴った。
しかし、その音を聴くことが出来たかどうかは、分からない。
「シャムシール!」
シャムシールが聞いた、ニルの声。ニルは、群がる敵を蹴散らしながら、疾駆していた。
「ニル、駄目だ、間に合わない」
ストリェラが、叫ぶ。
「いいや。シャムシールが、切り開いたのだ。届く」
ニルの馬もまた、倒れた。
そこで、シャムシールの腹を、槍が突き抜けるのを見た。
その柄を斬ったところで、背から穂先を突き出させたまま、シャムシールは倒れた。
雨上がりの、原野。
そこに差し込む、光。
風は、とても強い。
その風が、意思をもって、駆けた。
風とはニル、光とは彼の握るヤタガンであった。
もう、パトリアエ軍の総指揮官を守る壁は、数人になっている。
それらは戦い慣れているらしく、一斉にではなく、代わるがわる、ニルに襲いかかった。
一人の突き出す槍を脇に通して掴み、喉笛を斬る。その隙に、横からヴァラシュカが繰り出されてくる。それを、薄いヤタガンの刃が折れぬよう巧みに角度を付けて刷り上げる。
火花。
そのまま、その者も、首から血を吹き出す。
脇に槍を抱えたまま、喉笛を斬られ、眼を見開いて切れ目から妙な音を出している者を押し、後ろに続く者にぶつける。
咆哮。
敵の攻撃が、一瞬止んだ隙間を、ニルは駆け抜けた。
それで、三人が同時に倒れた。
壁を、越えたのだ。
敵の心臓が、こちらに武器を向けてくる。
ニルは、何も言わない。
ただ、歩いた。
そして、駆けた。
通り過ぎる。
それは、さながら、いや、もはや、あえて言うまい。
このような乱戦において、その指揮する者の死が与える衝撃は、大きい。指揮と同じように、波紋のように、戦場全体に、伝わってゆく。
敵の勢いが弱くなった機に、バシュトー軍が、一気に押す。
フィンは、それを、やはり見ていた。
涙を、流しながら。
その桃色の唇に、美しい弧を与えながら。
彼女は、バシュトーに入る日、ウラガーンが、自らを狙う刺客と戦い、血と、死体を作り出したのを、その眼に焼き付けた。
バシュトーの王を自らの手にかけたとき、プラーミャに任せず、自らの手に、人の死の感触を刻んだ。
それが、今、ここに極まっているのだ。
彼女の創った、血の海と、屍の道の、終わりが、近づいているのだ。
パトリアエの者が跪き、武器を捨てる。
それを、バシュトーの者が、不必要に害したりせず、戦場から追い払う。
この戦場に、いや、フィンの生に吹いた、一陣の風が、傷だらけになりながら、こちらに歩いてくる。
「フィン」
ニルは、フィンの知る限り、最も優しい声で、彼女の名を呼んだ。フィンは、涙を次々とこぼしながら、答えた。
「ニル」
ニルは、まる一日半戦い、そのあと更にまる一日休まず、駆けてきたのだ。
そして、今、この激戦。
フィンは、ニルが、死ぬのではないかと思った。しかし、ニルは、自らの身体にこびりついた、自分のあるいは敵の血のことを気にしているようであった。それが、フィンの身体に染み移らぬよう。
「いいの。ニル」
フィンから、ニルに飛びついて、その首に、腕を回した。
疲労と出血により乾いた唇に、自らのそれを重ねて。
長く、長く、二人は、そうしていた。
筆者は、もう、この時点で、この史記目録を編むのを、やめてしまいたい気持ちである。
それくらい、今、この二人は、美しい。ニルは、フィンのため、生きている。
フィンは、ニルを、ただ信じた。
二人の願いが、ここに、交わったのだ。
しかし、ここで、やめるわけにはゆかぬ。フィンが、傷ついたニルにかけた、残酷な言葉を、記さねばならぬ。
「ニル。一緒に、グロードゥカへ、行きましょう。ネーヴァが、わたしたちを待っているわ」
王国歴三百二十六年、秋。ちょうど、星屑の花が咲いて、その香りを、振りまく頃。
バシュトーとパトリアエの戦いは、終わった。
平明な考察で定評のある、ある研究者によると、戦乱の歳月とは、この三百二十六年の、この戦いをもって終わりとするという。
この後の戦いは、戦乱ではなく、ニルと、フィンと、ネーヴァやアイラト等、この時点で生きている者の、自らの戦いであるとする説だ。
それはどうでもよいが、筆者もまた、その研究者と同じく、ここで頁を終えるわけにはゆかぬのだ。
あと、少し。
そのことを、書く。
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