新たな翼
ネーヴァは、パトリアエの闇の軍の男から、情報を引き出した。仕事を終えたネーヴァ、暗い眼になっているのを、皆気にかけた。
その情報とは、彼らの連絡手段や、組織の仕組みについてのものが殆ど。彼らの軍が、雨の軍という名であることも分かった。大したことは知らされていない男だったが、網にかかった魚は、小さくはない。
雨の軍。七年前には、少なくともあったのだ。なんでもない一粒のように、当たり前のような顔をして、この国にある。いかにも、彼らのような働きをする者に、相応しい名ではないか。
しかし、雨の一粒を掴んで、雲に辿り着くことは出来ない。雲に辿り着くには、小さすぎる。もっと、降らせてみよう。ネーヴァは、そう言った。こちらから、ウラガーンがここに居ることを、匂わせてやるのだ。危険だと、コーカラルは反対した。
「では、どうするのがよいと思う。コーカラル」
「私は、ダンタールの留守を守る間、お前達に危険が無いように」
「危険?」
ネーヴァが、露骨に嘲笑を浮かべた。
「危険など、あってないようなものだ。この国において、俺たちのような人間が、危険に曝されずに安寧を得ることなど、ない。マオ」
マオが、弾かれたように顔を上げた。
「お前の母は、パトリアエ人ではない。そのために、身を売り、削り、生きていたと言ったな」
「ええ、そうよ」
真っ黒で、真っ直ぐな髪と瞳で、マオは答えた。母譲りのものなのだろう。
「そして、その子のお前が、今こうして、血と泥と雨にまみれ、危険を冒して、生きている。違うか」
「違わない」
「お前の子にも、そうさせることになる。それを、お前は望むか」
「望まない」
「では、やめにしよう。どうすればいいと思う、マオ」
マオは、責め立てるようなネーヴァの口調に戸惑いを隠しきれぬ様子で、
「わからないわ」
と答えた。
「教えてやろう。戦うのだ。危険を、理不尽を、悲しみを、壊すのだ。その産みの母を、俺たちを作ったこの国を。それしか、この連鎖を断ち切る術は、ないと思っている。俺や、お前が、子を成すかどうかなど、関係ない。この先、無限に生を受ける、あらゆる子のためだ」
ネーヴァの眼に、異様な光が宿っている。
「それを危険に曝すようなものは、打ち倒し、踏みにじり、粉々に壊してやればいい。精霊?ほんとうに人の味方ならば、何故あんな王家にばかり加護を授ける。何故、俺やお前に、加護を授けぬ。俺達に、残飯を食わせ、泥水を飲ませたのは、精霊の与えた試練か。それならば、俺は精霊をも打ち倒そう。翼をへし折り、あの生意気な鼻を叩き潰し、泥の中に沈め、それを舐めさせてやる。どうだ。俺と共に、それをしないか」
ネーヴァの眼から、口から、熱が放たれた。彼が、これほどまでに自分を剥き出しにするのは、今まで無かった。やはり、心のどこかに、無理が来ているのかもしれない。
いや、それよりも、ネーヴァが、もともと持っていた激しすぎる何かが、表に出て来たのかもしれない。あるいは、理性と冷静な判断力でもって、自己の人格を作り、守っているのが馬鹿らしくなったか。どれだけ守っても、あの男は、石一つで壊れたのだ。
逆説的に考えれば、国も、そうして、案外呆気なく壊れるのかもしれない。強い。大きい。そう思うから、手がつけられないのかもしれない。こちらから動けば、何か一つを崩せば、一気に滑り落ちるということはないか。
フィンなど、あてには出来ない。パトリアエを壊すと言いながら、矛盾することばかりをしている。今は、新しい国など作って、聖女気取りだ。ダンタールやニルも、いつ戻るのか、戻るのかどうかすら、分からない。そのまま、フィンの国の民になってしまっても、おかしくはない。
誰も、頼れない。自分が、やるのだ。
「コーカラル」
ネーヴァは、その眼を、仮の首領に向けた。
「ウラガーンの、今の全指揮権を、俺に譲れ」
「なんだと」
「俺が、導いてやる。あんた達を。あんた達が、行きたいところへ。あんた達が、欲しがるものを、手に入れさせてやる。いや、俺たちの、欲しがるものを、掴もう。それが、どんな形をして、何色をしているのか、見よう」
コーカラルは、黙って、眼を閉じた。今だけ。実際、ネーヴァは、最も行動的で、理性がある。コーカラルなどよりも、よほど、皆を導いてゆく器であると言える。
自分より優れた指揮者が現れたとき、立場に拘らず、その者に委ねられるのも、上に立つ器のひとつ。ダンタールが、前にそう言っていた。
ダンタール。何をしているのだ。コーカラルは、舌打ちをしてやりたい気分だった。しかし、それを聞いて、どうした、と機嫌を取るような声色で話しかけてくるあの大男は、いない。
いるのは、美しい金の髪と長い睫毛を持つ、色の白い男。誰よりも激しく、強い。その心が壊れてしまわぬよう、助けてやればよいのだ。
それで、ウラガーンは、より意味のあるものになれる。意味のある何かが、出来る。
「わかった」
その眼が再び開いたとき、迷いはなかった。
「すべて、お前に任せる。しかし、ダンタールが戻るまでた」
「ダンタールが、戻るまで」
ネーヴァは、頷いた。
「ねぇ、ネーヴァ」
アイラトが、無垢な瞳を、向けてきた。この若者だけは、歳が二十になっても、少年のような表情をする。他の者と同じように、自らの手を汚し、血に染めてきたのに、その瞳は、どこまでも澄んでいた。背も低いから、ほんとうに少年のようだった。そのアイラトが、見た目通り少年のように、素朴な疑問を投げ掛けた。
「もし、ダンタールが戻らなければ、どうするの。ネーヴァが、首領になるの」
ネーヴァは、アイラトを見た。
「そうなったら、そうなる。構わぬか」
「分からない。そうなったら、考える」
「どうする。嫌なら、そう言うがいい」
「ううん、嫌じゃない。おれは、誰が上にいても、ウラガーンさ。この国が、良くなるために。ずっと、そう教えられてきたんだ。それ以外に、信じるべきものなんてない」
そう言って笑う顔に、ネーヴァは、何故か後ろめたいような気持ちを覚えた。羨ましさにも似ているのかもしれない。同じことをしていて、自分は汚れ、アイラトは綺麗だ。嫉妬もあるかもしれない。しかし、アイラトは、稀有な存在である。戦い、傷つき、殺し、汚れても、歪まない。曲がらない。ほんとうに強く、美しいものとは、彼のような者なのかもしれない。こういう者も、必要だ。もっと汚れたとき、こういう者が、救いになることもある。
こうして、ネーヴァはダンタールの不在の間、ウラガーンを預かることになった。リベリオンから持ち込まれた仕事は、まだ終わっていない。雨の軍との、暗闘が始まったのである。それを、誘いだし、罠にかけ、撃滅あるいは無力化する。
この複雑な史記も、だんだん、進んでいる。ここに名の刻まれた多くの者が、その自我を育て、文字の上で、生きている。
しかし、筆者は感じる。彼らの意思を。その息吹を。彼らの存在が強くなればなるほど、その香りは、文字の上で、中で、奥深くで、立体性を帯びてくる。
歴史とは、多くは文字により記録される。しかし、それは決して二次元ではない。三次元的に交差し絡み合う、点と線。そこに、人がいる。彼らを描くことは、辿ること。辿ることは、知ること。彼らを、そして、己を。
自らもまた、この流れの一部なのだ。雨は降り、集まり、流れてゆく。その一粒一粒に、いのちがある。生がある。
ネーヴァは、雨を、風を呼ぶ龍ウラガーンの、新たな翼となり得るのか。分からないが、彼は、そのようにして生きることを、このとき決めた。
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