唇と髪
その夜、ウラガーンの四人は、フィンが一人で暮らしているという家にいた。てっきり、王宮に入っているものとばかり思っていたが、そうではないらしい。
今、かつてのバシュトーの王宮は、無人なのだという。そこで暮らしていた人々も、今はあちこちに散って、ものを作ったり運んだりして暮らしているらしい。
「しかし、考えられぬな。国も、軍もなくして、やっていけるのかね」
ダンタールが、窺うような言い方で、フィンに聞いた。
「いずれ、無理が出てきます。やはり、人は、統べられてこそ、安らかでいられる」
「では、今のこのクディスの形は、どうしたことか」
「彼らは、戦いに疲れていました。彼らが、今最も望むことは、戦いをしなくてもよい日々を過ごすこと。再び戦う、その日まで」
「フィン。お前が、彼らを集め、クディスの建国を宣言したのではないのか」
「いいえ」
フィンは、はっきりと言った。
「わたしは、彼らの求めに、応えただけ。彼らは、武器を納めるため、あるいは本当に向けなければならない相手に向けるため、互いに争うことをやめる理由を、欲していました」
「上手くやったもんだな」
ストリェラが、皮肉っぽく言った。
「こうして、バシュトーの骨を抜いて、人々の心の拠り所となり、国はあえて作らない」
ストリェラとは、矢という意味の名である。その名の通り、射抜くようにフィンを見た。クディスのことを探るのが彼らの仕事だから、あまり露骨なことを言っては差し障りがあるかもしれない。ダンタールは、眼でストリェラを制しようとしたが、聞かない。
「彼らが国を求め始めたら、今度は、彼らの求めに応えるとして、彼らを率い、パトリアエになだれ込むつもりか」
フィンは、しばらく目を丸くしていたが、やがて笑いだし、
「ええ、そう。それも、考えているわ」
と、あっさりと認めた。
「言ったでしょ」
ちょっと、首をかしげるようにして、ストリェラを見た。ストリェラが、何故か怯んだような表情をした。
「わたしは、パトリアエを、滅ぼすと」
「彼らを、国を持たぬ民にしたのは、そのための、軍にするためだと」
「そうなのかもしれない」
フィンは、困ったように笑った。
「わたしは、求めているの」
「なにを」
ニルが、口を開いたので、皆そちらを見た。
「人が、人として、暮らしてゆける国を」
「人として?」
「そう。嘆きや悲しみや、理不尽から、解き放たれた国を」
聞きながら、ダンタールの脳裏に、かつてプラーミャと行動していた若い日に、兵に蹂躙され無惨に殺された若い娘のことがよぎった。
剣を抜かねばならぬとき、抜いてはならぬとき。その見極めを、フィンはしているというのか。
「そして、それは、わたしだけでなく、この世に生きる全ての人の、願いのはず」
また、フィンは笑った。
「これは、わたしたちの、夢なのよ」
ニルは、驚いた。夢の中でフィンが言ったことではないか。
いや、今こうしていることも、夢であるのかもしれぬ。フィンが、すぐ目の前にいて、言葉を発している。実際に目の前で起こっていることが、ニルは信じられないでいる。
「戦う相手と、理由を間違えてはいけない。なんのために戦うのか、自分で、考えるの」
その意味することがなんなのか、誰にもわからない。
「これから先、どうなるかなんて、誰にも分からないわ。それでも、どうするかを決めることなら、誰にだって出来る。そうでしょう?」
それきり、フィンは、戦いの話はしなくなった。ただ、離れている間、ウラガーンの皆が何をしていたのかをしきりに尋ね、料理を食った。ウラガーンの四人も、それ以上はフィンの頭の中を覗こうとは、しなかった。
クディスの、いや、バシュトーの料理はパトリアエのものとは違い、温かいもの、冷たいもの、乾いたもの、湿ったものの四種が並ぶ。パトリアエの料理も味は辛いことが多いことは既に述べたが、バシュトーのものは辛味の上に更に香草などもふんだんに使われており、どれを口に運んでも、異なる香りが楽しめた。
フィンの暮らす家の近くに、料理を出す店がさいきん出来た。そこから、料理を運んでもらったのだ。金は、今までバシュトーで使っていたものが、そのまま生きている。
こうしていると、フィンは、確かに、女王などではなく、
酒も出て、皆、飲んだ。食い物も、酒もなくなったとき、フィンは、ダンタールに言った。
「さっきの広場。あそこを越えて、北の方へ少し歩いたところに、空いている家があるわ。持ち主は、バシュトー人同士の戦いで死んで、帰ってこない。そこを、使えばどうでしょう」
と言った。フィンは、とても丁寧な言葉遣いをすることもあれば、砕けた話し方をすることもある。別の人間と話しているようで混乱してしまいそうだが、不思議と、それに整合性があるので、誰も変には思わない。ダンタールも、黙って頷いた。
「そこを、あなた方の根城にするといいわ」
と、いたずらっぽく笑った。
「根城だと。人聞きが悪いな」
双子のうち、どちらかといえば寡黙で沈着なリュークが、言った。
「あなた達は、ウラガーン。ウラガーンには、巣が必要よ」
と、謎かけのようなことを言う。それもそうであろう。ニルだけ飛び出して来たのならともかく、ダンタールまで来ているのである。何か、あるに決まっている。
その明快な回答に、彼ら四人の姿を見た瞬間辿り着くことは、べつにフィンならずとも可能なことである。
彼らは、ウラガーンとして、
そうでなくては、今、彼がここにいることの説明がつかぬ。そのことを、気付いていると示したつもりであった。知った上で、共にいると。それは、プラーミャのことを恐れたりすることはなく、隠すようなことも、何一つとしてないという姿勢を示すことにもなる。
それを、ダンタールは、大雑把に笑うことで、受け取ったという表現をした。
「では、その家まで、案内してくれるか、フィン」
「ええ、喜んで。中がどうなっているのか、分からないけれど。すぐ近くよ」
五人は、立ち上がった。フィンは、灰色の外套をまた身にまとい、先導した。
武器も、持たず。自らの力も、使わず。ただ、彼女は、自らの人間と言葉だけで、
バシュトーの二代前の王を殺害したのは、一つのけじめのようなものであった。彼女だけが、手を汚さぬままでは、いられなかった。だから、彼女は、自ら、それをした。人の生命が失われるその感触を、その身に刻むために。
そうして得た創作物を、彼女は、ただ愛でて喜んで、終わるわけではない。
人と、ごく限られた高等な類人猿のみ、道具を作り、使うという。たとえば、ある種の類人猿は、木の穴に住むアリを食いたいがために、木の棒を差し込み、掻き出すことを覚えた。しかし、棒よりも穴の方が小さいことが多いため、彼らは、棒を打ち付けるなどし、先を細くすることをする。それは、アリをより効率よく掻き出すための、道具の製作に他ならないという。
この、フィンの創作物は、どの穴に差し込まれ、どのようなアリを掻き出すのか。それは、そのときにならないと、分からない。
ともかく、ニル以外のウラガーンの三人は、ある種の安堵を覚えていた。フィンが、権勢欲のために、国や人を弄んでいるのではないらしいことが、なんとなく分かったからだ。根拠はない。しかし、フィンの行動は、確かに、権勢欲のためだけに行ったにしては、大がかりすぎる。彼女は、恐らく、もっと遠くの、大きな何かを見ているのであろう。
雨の一粒を見ては、その背景にある木は見えぬ。木を見ては、その背後にある濡れた空は見えぬ。その違いに、似ているかもしれない。しかし、空ばかりを見ていては、その木に、星屑のような花が咲いているのもまた、見えぬのだ。
おそらく、フィンは、その全てを、同時に見ることが出来る眼を持っているのだろう。そのような世界が、どんな姿をしているのか、その眼を手に入れなければ、分からない。
また、筆者は、バシュトー人がフィンを仰ぎ見る要素をひとつ、見つけたのかもしれぬ。
その家は、ほんとうに、すぐ近くにあった。フィンの家から、百ヴァダー(パトリアエの、距離の単位。一ヴァダーは、およそ八十五センチメートル程度)余りしか、離れていない。
フィンに示されるまま、屋内に入ろうとする。
「ダンタール」
フィンが、扉に手をかけたダンタールを、呼び止めた。
「いつまで、ここにいるの」
「分からない。仕事を終えるか、なくなるまで、かな」
「そう」
微笑んで、
「また、皆に会えて嬉しい」
と言った。ダンタールも、ああ、と答え、扉を開いた。しかし、ニルは、その中に入らなかった。
「フィンを、送っていく」
と言うのである。今、送ってもらった相手を、すぐ近くの家まで送り返すとは妙な話である。しかし、ニルの、フィンに対する、並々ならぬ感情を皆知っていたから、苦笑して頷いた。
「ニル」
二人で歩く、夜の街路。あの花のような星屑が、空に咲いている。ニルは、フィンが差し出している手の意味が、分からなかった。
しばらくして、握れ、という意味であることを察した。握ると、この冷えやすいサラマンダルの夜の空気が嘘のように、ニルの全身は暖かくなった。
「わたしは、あなたを、求めている。あなたも、そう?」
このような間柄を、なんと言うのであろうか。恋人と言うのは下世話である。相思相愛と言えなくもないが、やや違う。
二人の心、もしくは魂が、なんとなく、明確な理由など何ひとつとしてなく、引き合っている。
稀に、そういう間柄の者同士が、いる。それは、男女とは限らぬ。たとえば、ダンタールとブラーミャもそうであるかもしれぬし、アトマスとリョートも、そうと言えるかもしれぬ。ニルとフィンの場合、たまたま男女の組み合わせであったから、その表現のうちの一つとして、このような方法を取ったのかもしれない。
ソーリの風、いや、星屑の花の香り。
フィンの、薄い桃色の唇が、ニルのそれと、重なった。おそらく、これが、今二人に出来る精一杯の、表現方法なのであろう。
フィンの、柔らかな髪が、唇に巻き込まれており、それがニルの口の中に入ってしまっていて、その妙な感触を、ニルは、楽しむようにして感じていた。それと気づいたフィンは、そっとその邪魔な髪を指で引き、ちょっとばつが悪そうに笑うと、もう一度、唇を重ね直した。
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