旗の中の龍
星明かりの夜の中、フィンの暮らす家が、乾いた土の色を浮かべている。短い距離を、ほんの僅かな時間だが、二人は手を繋いで歩いた。先程の口づけの痺れが、快い。夜、冷えるぶん、繋いだ手の温もりが、暖かい。
その乾いた土の色の壁の前で、フィンは立ち止まり、扉に手をかけた。
「明日は、サラマンダルの中を、歩いてみるといいわ。ここに暮らす人が、何を見、何をして暮らしているのかを」
フィンは、ウラガーンの仕事のことを言った。ニルは、あぁ、と喉で答えた。
「また、明日」
ちょっと悲しそうに笑うのが、星に照らされている。
「また、明日」
ニルは、明るく笑ってやった。ただ、フィンとの再会を喜ぶ。この夢のような現実に、彼はいた。
「フィン」
ニルの声が、フィンを呼んだ。今まで、どれだけ呼んでも、届くことはなかったはずなのに、今、フィンは目の前にいて、美しい睫毛を瞬かせながら、こちらを見るのだ。
「俺は、なにをすればいい」
ニルは、迷っている。そうフィンは感じた。
ウラガーンとしてしか、彼は生きてはゆけぬ。しかし、彼の中には、あの日、旗のことを告げたフィンのことしかない。あの日で、彼の時は止まってしまっている。それが、急に動き出した。そのことに、戸惑っている。そうフィンはニルを見て思った。
「これから、あなたが考えて、決めてゆくの」
それが、フィンがニルにかけてやれる唯一の言葉であった。わたしのために生きてくれ、と言えば、ニルはそうするだろう。実際、フィンは、そうしてほしいと願っていた。人間的な結び付きを強く感じるニルに、側にいてほしいと思うし、自分のしようとしていることを、
これも、フィンの持つ、美しい矛盾であるのかもしれない。一方では、己の思考の中の世界に相手を落とし込み、自らの意思でもってその住人たらしめ、互いに争わせ、
「ニル」
矛盾というのは、そのことを、正直に、話したりすることだ。
「わたしね」
とフィンは、ニルに、自らの意思で、バシュトーの人に求められる存在となったことを、改めて告げた。
フィンは確信めいた思考をもって、行ったのだ。パトリアエが主戦論に傾こうとするのをプラーミャが助けていることを、知っていた。それを、利用した。バシュトーを乱し、隙を作り、攻めさせた。そこで思いもしないほどの抗戦を見せ、互いを、深く傷付けた。パトリアエは退き、国内のことに専念している。バシュトーは更に乱れ、人々は、戦いに疲れ果てた。
そこに、また現れたフィンを、人々は喝采をもって迎えた。そうなるよう、戦いの前に、多くの部族の長に直接会い、話したのだ。
パトリアエを滅ぼすために、フィンはバシュトーをこの世から消滅させた。しかし、パトリアエは、今、その力を急速に伸ばし、これまでの、王家とそれにへつらう者のみのための国のような、破綻を補い、修正しつつある。
ここまで、すべて、そうなるべくして動いてきたと、まだパトリアエにいた頃から、このことを考えていて、今なお、それをしているのだと、話した。
パトリアエが国家として完成してしまえば、もはや誰にも手は付けられまい。あそこで暮らすことが人々の願いになってしまえば、最早、フィンなど要らぬのだ。
それならそれでよいが、フィンには、まだもう一段、深いところに思考を持っていた。
そのことは、言わなかった。
鮫の歯のことを、知っているだろうか。鮫の歯は、欠けたり、折れたりしても、次から次へと、新たな歯がせり出してくる。その歯は、折れてから生えるのではなく、予め生やして成熟したものが、古いものを押し出したり、成り代わったりするのだ。
フィンの思考も、それに似ているかもしれない。予め成熟した複数の事柄についての思考が、段になって生えている。一つが終われば、その後ろに控えるものが、即座にせり出す。また、必要に応じ、今歯として機能しているものを遺棄し、新たな歯にすげ替えることも出来る。
そういう形の、思考である。そして、その思考は、やはり鮫の歯のように、鋭い。
鮫の歯のことはよいとして、フィンの、もう一段奥にある思考については、それが表にせり出してから描くのがよいと思うから、今はあえて触れぬ。
「話してくれて、ありがとう」
「ニル」
「知れて、嬉しい」
ニルが言ったのは、それだけだった。
「ニル、戻らないな」
あてがわれた空き家で、ウラガーンの三人は火を囲んでいる。燃料は貴重だから、火は小さい。
「そりゃ、七年ぶりの再会さ。二人とも、大人になってる」
寝転がりながら、ストリェラが、意味深なことを言ったから、他の二人は苦笑いをした。
「あの二人を、どう思う」
リュークが、年長者としてのダンタールの意見を求めた。ダンタールは、ちょっと考えてから、口を開いた。
「猫の仔が、じゃれ合っているようにも見える」
二人が、笑った。
「しかし、それだけではないと思う。あの二人には、何か、引き合うものがある」
ダンタールは、何かを思い浮かべているような表情をしている。
「俺たちは、依って立つ何かを、求めている」
ウラガーンの多くは、孤児である。パトリアエの社会が生んだ歪みの中に、彼らは産み落とされた。
「この歪んだ世の中で、歪んで生まれた俺たちは、どこかで、そうではないと、信じたがっているのではないか」
双子にではない。自分に言い聞かせるように、ダンタールは語りだした。
「俺たちを生んだ国を壊そうとすることで、俺たちは、自分の足で立とうとしている。俺は、なんとなく、そんな風に思っている。生きているということは、悲しみと戦うことだと、思う。しかし、俺たちは、自らの手を汚すことでしか、戦うことが出来ない。やっぱり、歪んでいるのさ」
少し、笑った。自嘲とは、やや違う。
「ニルも、そうだったはずだ。しかし、あいつは、俺たちより先に、知ってしまったのかもな」
「何を」
「なにかを、願うということを。自分が、何のために、戦うべきなのかを。お前が死ぬ
そこまで言って、言葉を切った。
「あいつが、そこまで考えているかね」
ニルの茫洋とした姿を思い浮かべ、ストリェラが笑う。
「己を表すのが、下手なのだ。ニルという男は。だが、それは、必ずしも、あいつの世界が軽いということにはならない」
リュークが、言った。
「ニルは、どうするんだろうな」
「ストリェラ。それは、言うな」
ニルが、クディスを探るというウラガーンの役目を放り出し、フィンのもとへゆくと言えば、当然、追っ手がかかる。ニルは、そのまま見逃してやるには、ウラガーンのこれまでの表に出ない活動について、あまりにも多くのことを知りすぎている。
龍の申し子とまで言われるニルの口を封じられるのは、おそらく、あちこちに小さく固まっているウラガーンの中でも、ダンタールの一味だけであろう。
それは、考えたくはない。これまで、幾度も死線を越えてきた仲間同士で、争うなど。
ニルが、戻った。
「おう、ニル」
何事もなかったかのように、三人はニルを迎えた。ニルも、いつもの通りだった。
「早かったな」
とストリェラが皮肉を言うと、ただ頬を赤くしただけだった。
「明日は、このサラマンダルを、あちこち歩いてみるといいと、フィンが言っていた」
「そうだな。暫くここに滞在して、特に、リベリオンに知らせることが無ければ、それが一番いい。俺達の仕事は終わり、グロードゥカに帰る」
ニルは、そう言うダンタールに、曖昧に頷いた。
彼は、考えている。必死に。己の、戦う理由を。いや、それは、定まっている。ほんとうに、それが正しいのかを、考えている。
ものごとが成立する前から、その是非を論じるのは、無意味である。正しいにしろ正しくないにしろ、ことを成してから、それは示される。だが、人は迷う。進むべき道が示されても、迷うのだ。そして、考え、よりその行動が理想に近づくよう、擦り合わせをする。
ニルは、ウラガーンの使い手として、数えきれないほどの働きをしてきた。しかし、この史記の中でも、最も重要な人物のうちの一人として記録されるに至るには、それだけでは足りぬ。
龍の申し子は、待っている。自らの翼で、風の中を飛翔するときを。
ちょうど、火を燃やした煙を抜くため、木枠をはね上げて風を入れる窓から、その絵柄の旗が見えている。
風は吹いている。しかし、それは旗の中の龍を飛翔させるほどの強さではなく、旗の中の龍は、まだ頼りなげに揺れているに過ぎない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます