第五章 雨と影
網
ネーヴァ。
雨が、降っている。金色の髪は、雨のときはばさばさとした手触りになり、癖が強くなる。それを、指に巻き付けては離しを繰り返し、雨を聴いている。
あれから、ニルやダンタールらは、クディスでどうしているのだろうか。恐らく、リベリオンに対して連絡は取っているはずだ。露見したとしても、彼らのことだから、殺されるということはあり得ないだろう。切り抜けて来るに決まっている。だが、こうも音沙汰がないと、心配にはなる。
地下の部屋には、ニルはいない。リュークと、ストリェラも。他にも、仲間は多くいるのに、急に、静かになったような気がした。
「ネーヴァ、いいか」
珍しく、コーカラルが地下の部屋に顔を出し、声をかけてきた。
「構わない」
ネーヴァは腰かけていた寝台から立ち上がり、コーカラルに乞われるまま、階段を上った。
「リベリオンから、仕事の話が来た」
「ほう。今度は、何だ」
「アトマスは、私たちのような者を、飼っている。昔、フィンの亡命のとき、国境で襲ってきたような奴らだ」
「ああ、覚えている」
「その動きが、活発になっている。どうも、リベリオンやウラガーンの所在を暴き、潰そうとしてきているらしい」
ネーヴァは、少し驚いた顔をした。闇の中で動く者は、どこの国にも居る。しかし、それを効果的に動かし、こちらに手を入れてくるというのは、よほど国が危ないか、組織としてまとまって来ているかの、どちらかだ。この場合、後者らしい。
リベリオンは、言わずもがな、パトリアエを倒すことを目的としている。ネーヴァも無論、その思想に賛同している。クディスでダンタールが言った通り、自らの生を意味のあるものとするために、自らを生んだ国を、否定するのだ。だが、待てば待つほど、働けば働くほど、それを上回る早さでもって、パトリアエは、女に対して暴力的な男のように、彼らの上に覆い被さり、彼らをもその一部として取り込もうとしてくるのだ。
仕事。ネーヴァにとっては、信じるしかない。たとえば、パトリアエ人が無条件に大精霊アーニマを信じるように。精霊は、理由があって偉大なのではない。精霊は、精霊だから、偉大なのだ。ネーヴァにとっての信仰は、自らの肉体と武器を駆使して行う、仕事であった。
正直、リベリオンに対して、不信感はある。このまま従っていて大丈夫なのか、と。しかし、ダンタールはプラーミャと親しいようだし、間違いはないだろう。とも思っていた。それとは別に、言いようのない予感のようなものがある。長く戦いの中に身を置いてきたせいか、危険を察知する能力は強い。その本能が、このところ、騒いでいる。ネーヴァは、とても理性的な男であるから、ニルやダンタールがいない不安が、そうさせるのだろう。と自分で理解することにしていたが。
だから、仕事にも出る。その先に、何かがあると信じて。先にあるものが、滅びであっても、構わない。何かをし、戦い、敗れ、死ぬことを、恐れたことはない。恐れるのは、自らが生きる意味が、無かったという結論に達することだ。真実がそれを示すならば、ネーヴァは、自らの手で、意味を作る。それだけでよい。
壁に、愛用のジャマダハルが掛かっている。それが無くても、ネーヴァにとっての武器は、その全身だった。拳でも、腕でも、足でも、頭でも、どこでも敵を殺せる。ただ、ジャマダハルの鋭い切っ先を用いた方が、話が早い。マホガニー色と墨色の縞の入った、外套。もう、血の染みで、すっかり汚れてしまっている。それがまた、雨の中、殺すべき者の目からネーヴァを隠すのだ。
仕事と聞いて、それらを身に付けようとしたが、コーカラルに、いい、と制止された。
「それで、動きが活発になっているとは?なぜ、皆を呼ばない」
平服のまま階段を上がりながら、ネーヴァは言った。コーカラルは、答え方を考えているようだった。
「いつもの仕事と、違うのだ」
「違うとは?」
いつも、リベリオンからは、端的に、具体的に指示が来る。しかし、今回は、アトマスの手のものが、リベリオンやウラガーンのことを、暴こうとしている。炙り出せ。ということだった。誰が対象なのか、はっきりしない。単なる注意喚起のようにも思える。しかし、それは、危険が迫っていることは分かっているが、どこから来るのか、よく分からないということだ。いつも、こちらから能動的に仕掛けるのに、今回は、ひどく受動的なのだ。パトリアエの闇の軍が、ひいてはパトリアエ自体が、力をつけてきているということだ。
そういう考察を二人でしながら、ネーヴァは、舌打ちをしたい気分だった。切り開くためではなく、守り、隠すような戦いなど。そう思った。しかし、敵はそれを察し、手を引いてはくれない。
コーカラルの居室に入った。その椅子に、腰かける。
「ネーヴァ」
見たことのない、コーカラルの顔がそこに現れた。
「どうすればいい」
乞うように、ネーヴァを見つめてくる。以前、コーカラルが、ネーヴァを抱きたいと冗談でよく言っていたのを思い出し、ちょっと戸惑った。
「どう、とは」
それは色には出さず、ぶっきらぼうに言った。
「不安なのだ」
ダンタールが居ないのが、だろう。はじめて、コーカラルは、自分で作戦立案をするのだ。やって、やれないことはないはずだ。しかし、不安なのだ。
「コーカラル」
ネーヴァは、椅子から立ち、机に腰かけたコーカラルに、目線を合わせた。
「俺に任せろ。あんたは、待っていればいい」
コーカラルの瞳が、少し潤んでいる。それが、焚いている火を映して、揺れている。
無意識に、全く無意識に、ネーヴァは、コーカラルの唇に自らのそれを重ねた。コーカラルは、初め驚いたようだったが、やがて舌を絡め、ネーヴァを受け入れた。あとは、互いを乱暴に求め合うしかない。
しかし、ネーヴァは、すぐに身を離し、一つずつ、言った。
「まず、奴らは、俺たちと同じように、一見、ふつうの民を装っているに違いない」
コーカラルは、乱れた気を整えながら、聞いた。
「昼も、夜も、警戒しなければならん。夜は、交代で誰かを見回りに出そう。鐘が鳴る時刻、急いでいない。あるいは、急ぐふりをしている。そういう奴が、敵だ」
「昼は」
コーカラルは、疼きを堪えながら、それを紛らせるように言った。
「ここを、探りに来る奴がいるはずだ。宿の客、陽が落ちてからの、酒場の客。それに気を配ろう」
「怪しい奴を、見つけたら」
「捕らえ、拷問にかける」
「無関係だったら、どうするのだ」
「仕方ない。殺すしかない」
ネーヴァは、部屋を出ようと、扉に手をかけた。
「ネーヴァ」
コーカラルの声が、背を叩いた。
「お前がいて、よかった。ありがとう」
ネーヴァは何も言わず、少し笑った。
「ついでだ。私を、抱いて行かぬか」
と言うのには答えず、扉を開いた。
階下に降り、酒場に出る。数名が、店に立っている。
「アイラト」
その中から、アイラトを呼んだ。店の裏に連れてゆき、夜に出す声で、先程のことを伝えた。アイラトも、わかった、と同じ声で答え、
「変なやつが、いる」
と付け加えた。ネーヴァが、店の中に通じる扉の隙間を縫うアイラトの視線を追うと、二人の男が、黙って酒を飲んでいる。二人で居るのに、何を話すでもなく、ただ飲んでいる。酒は、薄い、濁った酒。ほかの卓では皆が思い思いに飲み、楽しんでいるのに、その卓にだけ、微妙な緊張があった。
ネーヴァは、店に出た。
「食事は、よろしいですか。羊の肉を、焼いたものなど、お薦めです。甘辛いたれを付け、野菜を巻いて食べて頂く人気の料理です」
と注文を取りに行くのを装って、二人に声をかけた。
「いい」
一人の男が、迷惑そうに答えた。どうやら、彼らが闇の軍の者だとしても、ここがウラガーンの一隊の根城になっていることを嗅ぎ付けているわけではなさそうだった。酒場などを片端から当たり、妙な者が居ないか、眼を光らせているのだろう。
二人が、武装していることを、見て取った。パトリアエにおいては届け出さえすれば武器の携行は認められているから、別に妙なことはない。しかし、彼らは、外套の中に、巧みに、普通の者には分からぬように、剣を忍ばせている。いい、と言って、ネーヴァを追い払うような仕草をした男の動きで、それと分かった。
「いや、もらおう。とても、旨そうだな」
もう一人の男が、要らぬ疑いを持たれぬようにか、言った。こういう男の方が、やりにくい。もはや、彼らが闇の軍であることを、ネーヴァは疑わない。
「畏まりました。酒のお代わりも、いかがです」
「注文を取るのが、上手いな」
と、男が軽口を叩いた。料理を要らぬと言った方の男は、ずっと黙ったままだ。もしかすると、緊張しているのかもしれない。仕事に、慣れていないのだ。責めるなら、そちらの男だ、とネーヴァは見た。
「ええ、これでも、この辺りの女は皆、私から注文を取られたがって、店の他の者には注文をしたがらないので、困っているのです」
と笑って、軽口に答えてやった。今のところ、何も、おかしなことは起きていない。
「そうか。お前、名は」
男は、何かを感じているらしい。ネーヴァも、知りながら、何かを匂わせている。
「ネーヴァと、申します」
「いい名だ。孤児か」
こういうところで働く者は、孤児が多い。
「はい。物心ついたときから、こうして、注文を取り、宿のお客様の世話をしています。よろしければ、お部屋を手配しましょうか。遠くから、お越しのようだ」
男が、もう一人と、目を合わせた。
「そうだな。頼もうか。日が暮れたのに、宿がなくて、困っていたのだ」
「畏まりました。お食事が済んだら、お声がけを」
にっこりと笑って、金色の髪を揺らし、去った。
「アイラト。監視しろ」
それだけを言い、厨房に入った。ニルほどではないが、ネーヴァも、料理が上手い。特に、盛り付けにこだわった。見た目には美しく、それでいて、野菜が巻きやすいように、たれを付けて焼き、薄く切った羊の肉を盛り付ける。最後に、また、たれをかけるのだ。それが艶っぽく、野菜の色味を引き立てて、甘辛い香りが食欲をそそる。
その一皿を、男の卓に、運んだ。
「お待たせ致しました」
緊張している方の男は、じっと皿を見、手を付けようとしない。毒でも入っていると思っているのだろうか。しかし、そのようなことはしない。こういうとき、店で人死にが出れば、騒ぎになる。影の中、闇の中に生きる者は、自らが照らされることを、最も嫌うのだ。
もう一人の方が、旨そうだ、と声を上げ、肉で野菜を巻き、口に運んだ。慣れている。その咀嚼を見ながら、ネーヴァは微笑んだ。
「旨いな。酒が、進む」
「そうでしょう」
ネーヴァは、客の女に呼ばれたので、そちらに行った。
自らの背に刺さる、視線を感じながら。
網の、広げ合い。どちらの網にも、魚はかかった。あとは、どちらが仕掛けるか。
その点、場馴れのしているネーヴァは、有利であるかもしれない。
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