予感
男は、片膝をつく姿勢を取っている。飾られた絹の衣服と、東からもたらされたという翡翠の首飾りが、身分の高さを示していた。
なにより、この場で、片膝をつく姿勢を取っていることこそ、男の身分が高いことを示している。
王の間。王のみが座する席の前に、男はいる。
「それで、お前は、やはり、戦い、災いを根から絶つべきだと言うのだな」
「はっ。枝葉に惑わされてはなりませぬ。幹を枯らすならば、根を」
「そうか」
「王よ」
と、膝をついた男は、王の決意を促すように言った。顔からして、壮年のようである。頭には白髪が混じっているが、老人と言うには、まだ早い。
「そなたが、このパトリアエの危機を、幾度となく救ってきたことは、知っている。だから、そなたの言うことを聞きたい。しかし、そなたの考えに、反対する者が国内には、とても多いのだ。分かってくれ」
「王よ」
男は、王に向かって更に言った。
「私の父は、国家。子が、父のために尽くすのに、何の不都合がありましょうや」
王は、はっきりと、この男を恐れた。王を、父と慕うのではなく、国家こそが、そうであると言い切ることのできるこの男を。聞けば、ウラガーンに誘拐された娘が、どういうわけかバシュトーへの亡命を決行しようとしたとき、何のためらいもなく刺客を放ったと言うではないか。血よりも、国家。そのような男であるからこそ、バシュトーの総攻撃を、破ることが出来たのかもしれぬが。
「
王は、自らがこの男に与えた称号をもって、男を呼んだ。
「今少し、待て。余は、争いを好まぬ。安寧をこそ、好む」
その、王の安寧のため、国内には不正が横行し、無数の民が飢え、身無し子が食い物を巡って互いに殺し合っていることを、知っているのだろうか。思ったが、
龍の旗は、立たぬ。バシュトーは、二番目に力の強かった部族の長が、王となり、前の王の暗殺騒ぎは、一応治まったようである。プラーミャは、あれから、どこへ行ったのか分からない。リベリオンは、無論パトリアエの国内の組織だから、パトリアエに戻ったのであろう。しかし、リベリオンという組織は、不思議だ。プラーミャは、結成メンバーどころか首魁そのものだから、比較的名が知れている。しかし、それ以外の者のことは、全く分からない。
軍のようなものを持っているのは確かである。しかし、誰がリベリオンなのかは、全く分からない。実行組織であるウラガーンとの連絡は、連絡役の者を通して行われる。それは、人から人へと伝ってゆくから、それを逆に辿っても、人の海の中に消えてゆき、結局、どこから命令が出ているのか、誰がリベリオンなのかは、決して分からぬようになっている。
史記を紐解いて、はっきりと分かるのは、プラーミャは、パトリアエの中の反乱組織の長あるいはそれに準ずる位置に居ながら、バシュトー国内でもそれなりに地位を持っていたということである。プラーミャが、本当はどちらの者なのかは分からぬ。
また、フィンのこともある。プラーミャと結託していたことは間違いない。フィンは、パトリアエを滅ぼすと言っておきながら、反パトリアエ王家の象徴のようなリベリオンの首魁プラーミャと共に行ったことは、その真逆なのである。バシュトーはやや落ち着きを見せたとは言え国内はまだ燻っており、あちこちから怪しい煙が立ち上っているのだ。
主戦論者と、非戦論者。パトリアエと、バシュトー。ウラガーンと、リベリオン。分からぬことが、多すぎる時代である。
いきなり、後の年のページを繰り、結末から見返してもよいのだが、順を追って、紐解いてゆかねば、まことに分かりにくい。だから、今少し、この縺れた糸の交差する点について描いてゆくことを、許されたい。
「それでは、リシャーンの一族は、王政へ反抗的だと言うのですね」
リシャーンとは、倒れた王の家のほかに、多くの部族があるうちの、一つである。前の王の部族の次に強い一族が王位に就いたが、それをよしとしない部族もいる。リシャーンという一族も、そうであるらしい。
フィンは、灰色のフードを被ったまま、脇に座る若い男に声をかけた。
「王。どうなさいますか」
王と呼ばれた若者は、フィンを見、どうすればよいのだ、と答えた。
「リシャーンを、討ちますか、それとも、抑え込みますか」
フィンは、質問の内容を変えた。
「討ちたい。奴らが、いつ俺の寝首を掻きに来るのか、気が気でない。しかし、戦えば、負けるかもしれぬ」
今の王の一族は、人数が多いが、馬はさほど上手くない。リシャーンの一族は、数こそ少ないが、豪勇で知れた士を多く輩出しており、馬も上手い。それを、王は気にしている。
「では、我らに従う部族どもに、征伐をお命じになってはいかがです」
我ら、とフィンは言った。前の王に取り入り、それを葬り、次は新たな王の側に知らぬ間に現れている。それでは、今の王を王位に就けるため、フィンは暗躍したというのか。
そうなると、疑問が浮かんでくる。読者諸氏も、そう思われるであろうが、もし、フィンが今の王を王位に就けるために暗躍したのであるとするならば、今の王は、パトリアエへ戦いを挑み、それを滅ぼすことが出来る者でなくてはならぬ、ということになる。
しかし、今フィンの側でどうするか決めあぐねている若い男に、そのような気配は全くない。ならば、想像をするしかない。しかし、想像をしてしまえば、フィンという女は、見えなくなる。虚像ばかりを見、それが実像であると思い込んでしまうことを、ここで強く戒めておかねば、読み方を誤る。
フィンとは、そういう女であった。灰色のフードの下で、薄桃色の可愛い唇が、無垢な曲線を描いた。
「それならば、我らに危険が及ぶことはなく、なおかつ、我らは、従わぬ者を従えたとして、名を広く挙げることが出来ましょう」
「しかし、それでは、戦った者が、我らを恨まぬか」
「ご案じなさいますな」
「なに」
「王に命じられて戦い、そして王から、栄誉と褒美を下される。それあってこその、国かと」
ずっと、長い間、騎馬民族として暮らしてきたバシュトーは、まだ国家というものに不馴れであるのかもしれない。だから、このフィンの単純な理屈に、王は斬新さと魅力を感じたのかもしれない。
「この、俺が?」
「王とは、そういうもの。その下につく全ての生命の、
また、甘い香りが、漂った。若い王は、フィンに思わず女を求めた。しかし、その虚像は、するりと王の伸ばした腕からすり抜け、立ち上がった。
亡命を決行した日、血に怯え、震えながら、決意をしたあの少女と、今、ここにいる灰色のフードの女は、ほんとうに、同一人物なのであろうか。筆者は、だんだん、フィンが何人もいたような気がしてきて、恐ろしい。しかし、フィンは、紛れもなく一人。
フィンの言葉は、あの花のように甘い香りを振り撒きながら、星屑のように明滅し、世の中に、時代の中に、溶けてゆく。フィンのために断っておくが、決して、彼女は自らの欲得のために、その言葉を発するのではない。それは、言葉というよりも、もっと原始的な、何か。
例えば、願い。例えば、祈り。
それを、現実にするだけの才と力を、彼女はたまたま持っていたに過ぎないのではないだろうか。そうしなければ、彼女の矛盾と破綻を、どうしても説明することが出来ぬ。
フィンは、毎夜、祈っていた。精霊アーニマにではない。しかし、祈りの言葉を書き綴っていた。それは、残念ながら現存しておらず、何が記されていたのか、知る術はない。恐らく、そこに綴られていたのは、フィンの願う、世界。そのレシピ。現存していなくて、よかったのかもしれない。知れば、戻れぬ。そういうものであったように思えてならない。
王国歴三百二一年。今言えることは、ソーリの風が、吹いている。そして、それが、暴れだす予感がある。それのみであろう。
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