英雄という男

 生きるか、死ぬか。あのひりひりとした空気が、好きだった。しかし、この国においては、そう何度も味わえるものではなかった。一人の人間としては、たとえば、夜に紛れ、雨に溶け、戦うウラガーンのような者が、羨ましかった。

 はじめ、地方軍の、いち将校であった。国境を守る、ちっぽけな軍。それが、ここまで来た。若い日のあるとき、首都グロードゥカで開催された武術の大会に出た。そこで、優勝した。王の目に止まり、中央の軍へ移動になった。自分より頭が良く、自分より武の強い者など、いなかった。自然と他の者よりも、出世をした。それを不当に妬み、阻む者は、容赦なく糾弾するか、ときに誅殺した。地位が高まれば高まるほど、思ったような戦いは出来なくなっていった。そして、あのバシュトーとの決戦。

 あれ以降、英雄と呼ばれるようになった。軍の最高位の証である、戦士ヴォエヴォーダの称号も得た。王家に連なる者として、王のものであるコロールの姓も得た。ラームサールの盟により、バシュトーの王妃も得た。フェーラという王妃は、とても美しく、健気な女であった。自分が今ここにいることが、バシュトーの王のためになると、本気で信じていた。だから、余計に愛した。そして、子が出来た。その子は、精霊の眷族として、国家に捧げた。大精霊アーニマこそが、この国家を作りたもうた。我が身を、作りたもうた。信心深い方ではないが、パトリアエの国民として、当然の気持ちであった。

 国家こそが、父。今、英雄と呼ばれるアトマスは、日毎深くなってゆく己の顔の皺に嘆息しながら、憂えている。この国家の、行く末を。

 この国家は、遠からず自壊する。バシュトーの侵攻などなくとも、中から滅ぶ。通りを見よ。多くの子供が飢え、争っている。また、王家にすり寄るのが上手い商人は、ぞんぶんに私腹を肥やし、そしてその金を己の欲を満たすことにのみ使っている。望まず得た苦に苛まれる者に手を差し伸べる者など、誰もいないのだ。

 白銀のヴァラシュカ。飾り立てられた斧は、古びている。戦場で、ずっと用いていたもの。他の誰のものよりも重く、大きな刃をしている。それをもってしても、この国に巣食う魔物を打ち砕くことは、出来ない。

 英雄アトマス。その悲しみと苦悶を知る者は少ない。軍の最高位に上り詰めたのは、それで国が良くなると思ったからだ。しかし、武をもってしても、知をもってしても、ずるく、汚れた人間を洗い流すことなど、出来はしない。そう悟った。

 だから、戦うのである。国内をまとめる唯一の方法は、民の敵を、すり替えてやることである。民の敵が、国であってはならない。外に敵を作ってやれば、民は、ひとりでにそれを憎む。そうなれば、国への呪詛は、精霊への祈りに変わる。

 大精霊アーニマの名の下、民が一つになり、外敵を打ち払う。そうすれば、そこから何かが生まれ、この国は、あるべき姿を取り戻す。

 それが、彼の祈りであった。


「リョート」

 副官の名を呼んだ。まだ地方軍にいた頃、飢えて死にかけていたところを、従者として拾ってやったのだ。たぶん、歳は三十くらいになるはずだ。頭がとても良く、身体は細いが、よく縮む肉を持っており、武も強い。

 己の全てを、彼に教えてきた。これからも、己の全てを、彼に注ぎ込むつもりである。もし、自分が倒れれば、彼がこの国を支える幹となるのだ。

「軍費の算出を。グロードゥカから、ジャハディードまで。期間は、そうだな、半月もかからぬ。規模は、千」

 ジャハディードとは、バシュトー側の、国境の要地である。それを、千の兵で、ここを発してから半月以内で陥落させる、という意味に、リョートは捉えた。

「ただちに」

 リョートは、端的に答えたのち、

「ちなみに、戦士ヴォェヴォーダ

 と言った。

「ジャハディードをとした後の、軍費は?」

「要らぬ」

「は?」

「敵地だ。敵地の食糧と、塩がある。ゆえに、算ずるのは、ここから、ジャハディードまでの軍費のみでよい」

 リョートは、吹き出した。

「なにが、おかしい」

戦士ヴォエヴォーダが、あまりに楽しそうに、ものを仰るもので」

 国内の非戦論は、なお強い。どうやら、何者かの意思によって、ウラガーンがそれを何故か葬っているらしい。ウラガーン。非常に、興味がある。

 そのことを、考えていたまでのこと。別に、軍費の算出をしたからといって、今すぐ戦いを始められるわけではない。ただ、何かをしていなければ、押し潰されそうになるのだ。それから、逃れようとしたに過ぎない。

 しかし、必ず、やる。バシュトーには悪いが、血は、必要なのだ。双方、傷つき、血みどろになるような戦いが。国家のために必要なものならば、どんなものでも、享受すべきである。

 また、アトマスは眉間に深く皺を寄せたいつもの表情に戻った。それが一瞬でも綻んだことを、リョートは喜んだのだ。アトマスにとっての父が国家ならば、リョートにとっての父は、アトマスなのであろう。

 

 生きるか、死ぬか。あのひりひりとした空気の方が、政治の中の下らぬ権力争いなどより、ずっと自分に合っている。それをこそ、この国は求めている。そう彼は信じていた。

 彼のことを、ここで描いておくことが必要であった。彼の、生きる動機を。彼が、何を求めているのかを。

 彼の思いもまた、後々、ニルやフィン、ウラガーンなどの思いと交差することになるのだ。

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