師と弟子、父と子
さて、ニルのことである。彼は変わらず、旗を待っていた。待ちながら、昼の仕事も、雨の夜の仕事もこなした。ネーヴァも、大体いつも共に。
この日は、何もない。もう、王国歴三百二十一年が、暮れようとしている。冬のパトリアエは、寒い。しかし、不思議と、雪はあまり降らぬ。冬でも雨が多いのだ。ニルは、この日、いつもの通り、旅人の相手をして飯を作り、夜の酒場にも立った。
そこに、一人の客があらわれた。フードを被っているから、顔形は分からない。しかし、一目見て、只者ではないことが知れた。背から突き出ているのは、剣だろうか。ダンタールよりも背が高い男であった。殺気はない。敵意もない。ただ、威圧するような空気だけが、戸外を濡らす雨を降らせる雲のように垂れ込めているように感じた。
「酒を。なんでもいい」
やや枯れた声で、男は酒を求めた。フードからはみ出た髪は、ほとんど白い。男の手の甲に、古い傷がいくつも刻まれているのを、ニルは観察した。
「若者。なにか、珍しいかね」
男が言った。それだけで、何故かニルは背中を射抜かれたような気がした。
「酒ですね。すぐに」
ニルは、酒を出した。酒には、三種類ある。強く透明なもの、弱く白いもの、それに果実の酒。男は、ただ酒、と言ったから、ニルは小さな焼き物の椀に、透明な強い酒を注ぎ、差し出した。
「よく、俺がこの酒を求めていると、分かったな」
「ここは、酒場を兼ねた宿ですから。お客を見れば、分かります」
「ここの仕事は、長いのかね」
「ええ、気がついたときには、もうここで働いていました」
男の発する威圧感とは裏腹に、話していると、どんどん男のことが好きになっていくから不思議である。
「身無し子か」
「はい。ここにいる者は、皆そうです」
「そうか」
と言葉を切り、
「この宿の主に、会いたい」
と、出された酒に少しだけ口をつけて、続けた。
「この宿の主に?」
「そうだ。俺は、そのために来たのだ」
「お待ちを」
ニルは、男の顔色を伺ったが、やはりフードに隠れていて見えない。それでも、敵意は感じないから、ニルはダンタールを呼びに行った。
「俺に?」
ダンタールは、はじめ訝しい顔をした。王家の定めた決まりに従い、宿を運営している。咎められるようなことは、何もない。ここが、ウラガーンの巣であることも、決して露見はしていないはずだ。ダンタールには、わざわざ訪ねて来るような知り合いもいない。とすれば、ここに、ダンタールが居ることを知ってはいたが、今まで訪れることのなかった者が、訪ねてきたことになる。
「どんな男だった」
ダンタールはニルにその男の特徴を聞くと、何か確信めいた様子で、すぐ酒場へ降りた。
「おお、久し振りだな」
男は、はじめてフードを取った。そこから、白髪の、老人になりつつある歳の頃の男が現れた。眼の光が、異様なほど強い。まるで、雨雲を切り裂いて出る月のような光であった。
「プラーミャ」
ダンタールが、男の名を呼んだ。様々な感情がこもっているのを感じたが、ニルはその感情を何と言うのか知らない。
「ニル、ネーヴァ」
ダンタールは、深く落ち着いた声で、言った。
「酒場は、もう閉める。閉めて、お前たちは、もう休め」
ニルとネーヴァは、店じまいをすると、地下の部屋に戻った。
双子のリュークとストリェラや、マオやアイラトなど、他の者はすでに休んでいる。ニルとネーヴァは、二人で、向かい合った寝台に腰掛けた。
「プラーミャ、とダンタールは言ったな」
「あぁ。あれが、リベリオンの、プラーミャ」
「ニル。話して、どうだった」
「とても、恐い男だと思った。しかし、どこか、安心するような気持ちでもあった。ネーヴァは、何故あの男と話さなかったのだ」
「話しかけられなかったからな」
ネーヴァは、いつものように少しぞんざいに言い、
「いや」
と続けた。
「話せなかった。話せば、俺の歯の根が合わなくなっているのを、悟られてしまうと思ったのだ」
「しかし、プラーミャとは、名ばかりが知れているが、あんな男だったとはな」
「あんな男とは?」
「いや、わからない」
それが、ニルがプラーミャに対して持った印象であった。
「よくやっているらしい。さっきの若者達も、とても良い顔をしていた」
プラーミャは、ニルに出された酒を、少しずつ啜っている。ダンタールは、自分で、白く濁った酒を注いだ。
「お前は、昔から、あまり飲まなかったな」
プラーミャが、言った。
「あぁ。しかし、あんたが飲んでいるんだ。飲まぬわけにはいくまい」
ダンタールは、緊張している様子であった。それを、酒でいくらかでも紛らそうとしているのかもしれない。
「ずいぶんと、傷を負ったもんだ」
ダンタールの顔に刻まれた古傷のことを、プラーミャは言った。
「お互いにな」
ダンタールも、返した。もう、顔が火照ってきている感覚がある。
「それで、何の用だ。あんたが直々に出向いて来るなど、ただ事ではあるまい」
プラーミャは、口の中で笑った。
「なにが、おかしい」
「お前は、なぜ、俺が来たと思う」
「それが分かれば、聞くものか」
確かに、と言い、またプラーミャは酒を啜った。
「ひとつだけ、言っておきたいことがあった」
酒の器を気ぜわしく弄んでいたダンタールの手が、止まった。
「この先、何があろうとも、お前は、俺と共に戦うか」
プラーミャの眼が、異様な光り方をした。
「当たり前だ。俺は、ウラガーンだ」
「ウラガーンとしての生に、背くことになっても、お前は、俺と共に戦うか」
プラーミャの枯れた声は、ダンタールの中、その奥深くにまで入ってくるようだった。ダンタールは、また酒を飲んだ。器が空になり、自分で再び注いだ。
「それが、正しいことなら」
ダンタールは、一息にそれを飲み干して、言った。
「よし。分かった。お前の顔を見て、その言葉を聞きたかったのだ」
プラーミャは、頬に皺を寄せて笑った。
「俺からも、一ついいか」
「なんだ」
「あんたは、今も戦っているのか。その剣を振って」
「どういう意味だ」
「先日の、サラマンダルの変」
そこまでダンタールが言ったとき、プラーミャは、ずっと惜しむように飲んでいた一杯の酒を、一息に飲み干した。
「俺は、正しいと思うことにのみ、剣を抜く」
「それが、答えか」
「これが、答えだ」
プラーミャは再びフードを被った。東の山脈の方、山岳地帯に棲む鹿のような生き物の皮だな、とダンタールは何となく思った。
「もう一つ、いいか」
立ち上がり、出ていこうとしたプラーミャが、歩を止めた。そのまま、背中で聴いている。
「また会えて、よかった」
背を向けたまま、プラーミャのフードが動いた。頷いたらしい。
二人の関係は、どういう形容が当てはまるのであろう。師と弟子と言うのが順当であるように思うから、ウラガーン史記を手掛ける史家の間では、彼らを師弟と評するのが定説となっている。しかし、筆者には、どうもそれを越えた感情と結び付きがあるように思えてならない。
たとえば、父と子のような。たとえば、兄弟のような。たとえば、戦友のような。たとえば、恋人のような。
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