暴れる風
「持ち
シャムシールの、凄まじい指揮が響いている。
ニルからの急報を受け取る前に、グロードゥカを発したパトリアエ守備軍一万が押し寄せてきた。ニルがアトマスを引き回していたとき、本隊はやはり、急襲を受けていた。
「ネーヴァ。お前、大丈夫か」
全身に薄い傷を受けたネーヴァが、戻ってきた。敵の攻撃を全て紙一重でかわし、敵を討っているのだ。全身が血に濡れているのは、傷のためではなく、返り血だろう。
「まさか、バシュトーと共に戦うことになるとはな」
笑って、ネーヴァは、ジャマダハルを拳から外した。
「前の具合は、どうだ」
「お前の言う通り、五百のみを降ろし、全員、
「持ちこたえられるか」
「無理だろう。救援は」
「あちこちに、出した。しかし、恐らく、誰も来ぬ」
「ウラガーンもか」
「いや、ウラガーンは、動ける。しかし、グロードゥカの向こう側だ。彼らが来てくれれば、何とかなるのだが」
「そうか。持ちこたえるしかないか」
「ネーヴァ。ユランは、来ぬのか」
「いいや、向かっているさ」
「向かっているとは、どういうことだ。来る、ということか」
シャムシールは、パトリアエ語を確認するように尋ねた。
「いいえ、シャムシール。ユランは、ここには来ない。別のところに、向かっているはずよ」
側にいたフィンが、ちらりと、ネーヴァの方を見た。ネーヴァが、笑い出した。
「やはりな。聖女の眼は、欺けぬというわけだ」
「あなたは、グロードゥカ守備軍が、首都を空けて、こちらに向かっているという報に触れたから、アイラトに来いと言ったのでしょう?」
「その通りだ。もうすぐ、ユランは、グロードゥカに入る」
「ふふ、まんまと、わたし達を出し抜いたのね」
「最後に笑うのは、俺達だ」
「
「いいわ。ユランがグロードゥカに入るなら、それは、それで」
「ほう、聖女は、寛大だな」
「いいえ。
「言うな、フィン。俺たちを、甘く見るなよ」
「いいえ、事実。アトマスに居座られるより、ずっと軽いわ」
フィンの唇が、フードの中、緩やかな曲線を描いた。
そこへ、ウラガーンから、急報。
アトマスが、グロードゥカの北西に出た。今より、交戦に入る。至急救援されたし、という。
「無理だ。こちらは今、一万の軍の急襲を、受けている。そちらにも救援要請を昨夜送ったが、届いていないか」
「いえ、こちらには」
「なんということだ」
シャムシールが、頭を抱えた。
「大丈夫」
フィンが、その肩に手を添えた。
「大丈夫よ、シャムシール」
「
「ニルは、必ず来る。それまで、持ちこたえましょう」
「はっ」
「それに、心強い助っ人もいるもの」
ネーヴァの方を見て、いたずらっぽく笑った。
「馬鹿にしていやがる。誰が、お前のためなどに戦うものか」
「でも、あなたはここに留まった。戦うために。違う?」
「それは、そうだが」
「あなたの戦いを、してちょうだい。あなたの求めるものもまた、この先にある」
また、前線から急報。押されている。数の差があるのだ。当たり前である。
「騎馬、何をしている。もっと、敵の側面に回り込め」
シャムシールが、声を上げた。
「これはまずい。俺も、出る。ネーヴァ、
前線で、直接指揮をするため、シャムシールも馬に跨がった。
アイラト。あちこちで行われている戦いを避け、人目につかぬよう、密かにユランを連れ、ニルとアトマスの上に降った同じ雨の中、グロードゥカに入った。ネーヴァが、単身どこかに行ったと思ったら、なんとバシュトーの本陣に居たのだ。来い。それだけを、ネーヴァは言ってきた。来い、とは、かねてからの打ち合わせ通り、バシュトーとパトリアエの戦いの混乱に乗じ、グロードゥカに入り、密かにアトマスの首を取り、漁夫の利を得ること。それを、実行する、という風に解釈した。
だから、アイラトは、何の疑いもなく、グロードゥカに入った。来いと言うことは、ネーヴァは、フィンに会ったのだろうか。殺したのだろうか。その側にいるかもしれぬ、ニルはどうしたのか。色々なことを考えたが、現地で確かめるしかなかった。
それが、グロードゥカに入ると、驚いたことに、誰も居ない。民などはまだ少しは残ってはいるが、殆どの民は、戦火から逃れるために他所へ逃げている。それはいいとして、兵が、一人もいないのだ。あれほど大きく、
王宮のある区域、軍本営などがある中枢部に馬を進めても、やはり、人影は極めて少ない。
そこから真っ直ぐに伸びる、白い石畳。九年前、この向こうの大聖堂からフィンを誘拐した日のことを、思い出した。
王宮の庭園から、微かに、星屑の花の匂いがした。ニルが、フィンの花、と言っていた、あの花だ。人の気配が無い分、匂いは強く感じる。雨が、その花を打ち付ける音も。自らの耳の中の鼓動も。
「アイラト。これは、どうしたことでしょう」
兵の一人が、声をかけてきた。指示を求めている。アイラトは、人に指示をしたりするのが苦手だった。必要に応じ、することはするが、どうも人に、ああしろ、こうしろ、などと命令するのが性分に合わないのだ。
「ああ、ネーヴァなら、どうするだろうな」
平気で、頼りないことも言う。それが、アイラトの魅力の一つでもあり、もともとアイラトとは別のウラガーンであった者や、リベリオンであった年長の兵からも、とても慕われていた。
「とりあえず、王宮の中を探りましょう。さすがに、王や文官などは逃げてはいないはず」
「そうだな。そうしようか」
一人の意見を素直に受け入れ、アイラトは馬から降りた。皆、彼と同じようにした。王宮の中に、十人の者を選び、共に入った。あとは、念のため、外を警戒させている。
王宮の中も、閑散としている。しかし、使用人のような非戦闘員や、文官は残っていた。ほとんどが、ユランの姿を見ると悲鳴を上げて逃げるのだが、稀に、健気にも、王を害させまいと立ち向かって来る者がいる。それらは、ことごとく、アイラトが死骸にした。
「やはり、王は、まだ居るらしい」
以前にも触れたが、パトリアエの建築様式では、その建物の主の部屋は、最も高い層の、奥にあるものと決まっている。それに従い、アイラトも、最上層の、廊下の奥を目指した。
石畳ではなく、居住区は、板張り。冷えぬための工夫であろう。赤い
飾りの付いた、大きなそれを押し開いた。
中で、女や子供の叫び声が複数上がる。
「ここに、王は、おわしますか」
椅子から立ち上がり、怖がる若い女や子供を従えて、それを庇うように、強い視線を向けてくる、明らかに身分の高い着衣の男が、そうであろう。その男が、口を開いた。
「パトリアエ王、リャーミル・コロールである」
アトマスやリョートの治世の下、殆ど何の権限も与えられず、ただ存在するだけの若い王だった。しかし、やはり、気品や威厳というものは備えているのだ、とアイラトは思った。
思いながら、ちょっと俯いて、再び顔を上げると、剣を抜いた。
「私怨はありません。私に敵意を向けぬ人を斬るのは気が引けますが、お許しを」
王も、剣を抜いた。
「ああ、可哀想に。これで、貴方は、死ぬのです」
アイラトが、とん、と床を蹴った。音もなく、王との距離を、詰める。
眼にも止まらぬ速さで、剣を振った。
王の首は、剣を構えたままの胴から、落ちた。
王妃や
それらを、一人残らず、ことごとく斬った。せめて苦しまぬよう、一刀で。
あっけないほど簡単に、アイラトは、グロードゥカを陥としてしまったのだ。ネーヴァの策が、当たったことになる。
そのネーヴァのいる、バシュトー本陣に、眼を戻す。
降り出した雨の中、その日も、三千のバシュトー軍は巧みに防戦し、襲いかかるパトリアエ軍を退け続けていた。
フィンは、バシュトー人の壁の奥で、もう少し、もう少しと唱え続けていた。シャムシールとネーヴァが交替で、片方が前線に出ているときは片方がフィンを守った。
ネーヴァが前線に立つときは、特に凄かった。彼は、前線に向かうとき、まずほとんど馬を疾駆に近い速さで操りながら敵の中を駆け抜け、一人で敵を何人も殺し、反対側に飛び出てから、前線の兵を鼓舞するのだ。
「バシュトーの力を、ユランのネーヴァに、見せてみろ。お前達の希望は、そんなものか。俺お前達の力を全て合わせても、俺一人にすら敵わない」
と。前線に張り付いているバシュトー人達は、ネーヴァが来た、というだけで声を上げ、一斉に敵を押し返す。
「騎馬。俺に続け。パトリアエの馬鹿どもの鼻を、へし折りにゆく」
五百から削られ、三百ほどになった騎馬隊を連れ、ネーヴァは、駆ける。
それが敵の中に入り、突き抜け、反転し、また入る。攻める陣形を、そうして引き裂くのだ。隙があれば、陣の奥深くまで突っ込んで、風のように指揮官の一人の首を跳ねたりもする。
しかし、一万という敵は、多い。既に、二千は削ったと思われるが、それでも、まだ八千残っている。対するバシュトー軍は、三千いたものが、二千ほどになっている。このまま続ければ、どちらが先に果てるか、子供でも分かる。
フィンは、ニルが必ず来ると言った。それをバシュトー人は、鵜呑みにしているらしい。
愚かなことだ、とネーヴァは悲しい気持ちになった。信じることで、この眼前の敵が消えて無くなるわけがない。
しかし、ネーヴァもまた、戦うのだ。だんだん、自分が何のために戦っているのか、分からなくなってきている。
グロードゥカは、今ごろ、アイラトが陥としたことであろう。アイラトに、その報せを各地にもたらすくらいの知恵があればよいのだが、彼は、驚くほど、戦いのことには向いていない。ユランが、ノゴーリャに入ったときに見せたように、商人の組合などと話をつけたり、民の人気を得たりする方が、上手い。
そんなことを考えるうち、敵が、退いた。
陽が、落ちようとしているのだ。
「フィン、このままいけば、明日には、決着がついてしまうぞ」
ネーヴァが、フィンに言った。
「そう思うなら、今夜のうちに、あなたは、ここを出るべきよ」
ネーヴァは、戸惑った。が、意を決したような顔をして、言った。
「お前を、置いては行けない」
フィンが、吹き出した。
「あなたらしくない言葉ね」
「いいや、これが、俺だ」
「そう、あなたの戦いね」
「そうだ。俺は、馬鹿なことは、するだけ無駄と思い、生きてきたのだ。しかし、違うと思った。俺は、逃げていたのだ。恐れから。面倒から。それを越えた先にしかない、追わずともよいものを追うことから」
「追いたくなったの?」
「違う、と言いたいところだが、そうだ」
「あなたは、ユランなんでしょう?アイラトのところに、行ってあげなくていいの?」
「俺は、ユランだ。しかし、ユランは、俺ではない。ユランのネーヴァが、バシュトーのフィンの側にいても、何もおかしいことはない」
「あなたが、こんなに変な人だとは、思っていなかったわ」
フィンが、くすくすと笑った。
「ニルが来れば、俺は、グロードゥカに入る」
「それまで、共に戦ってくれるのね」
「俺がいては、迷惑か」
「いいえ」
フィンは、眼を細めて、笑った。
「あなたに、居てほしい」
ネーヴァは、胸を掻きむしられるような気持ちになった。たとえ、そのために死ぬことになろうとも、構わぬ。そう思った。どうせ、ニルは来ない。来れるはずが、ないのだから。
雨の一粒が、国を覆す。そのような夢を見ながら、自らもまた、その雨の一粒に、還るのだ。ただ、それだけのこと、と思い定めた。その思考を読んだかのように、フィンは、
「ネーヴァ。ニルは、必ず、来るわ」
と言った。
「何故だ。お前の考えを、聞かせてくれ」
ネーヴァは、その性格から、フィンに論理的根拠の提示を求めざるを得なかった。今までのフィンの行動や言動、してきたことから、フィンならば、ニルが戻るという、具体的根拠を持っていると、期待したのだ。
「なにも。わたしが、ニルを信じている。それだけのこと」
こんどは、ネーヴァが、吹き出す番だった。
「まったく、お前たちは、昔から、おめでたく出来ていやがる。ありもしないものを信じ、待つとはな」
そして、夜が明けた。
シャムシールが、まず前線に出た。同じ押し合いを続ける。これほど長時間、互いに軍を進めたり退けたりしながら、押し合うという例は、世界史的に見ても、稀である。
ひとつには、シャムシールやネーヴァの突撃が凄まじいことと、もう一つは、そっと囁くようにフィンが言う、敵のあそこが弱い、とか、味方のここが、崩れるかもしれぬ、というような一言が、戦況への対応を迅速にした。
重ねて言うが、フィンは、精霊の子でもなければ、予言者でもない。
よく、説話などで用いられる彼女の姿は、その身に精霊を宿しながら、あえて悪しき龍となり戦う聖女であったり、未来が見える力をもって人を導いたりするが、そのような馬鹿な話があるわけがない。筆者が強く支持する彼女の姿は、何度も述べているように、優れた洞察力と深い思考、そして類い稀な観察眼と、あり得ぬほどの知識量に裏打ちされたもの。それで彼女は、人間を見るのだ。人が何を思い、何を考え、なにを求め、どう生き、そして死ぬのかを。
それとは別の部分で、フィンもまた、何かを信じ、そして願っていた。
それは、偶然のような装いで、やってきた。昼過ぎ。雨が、上がった。
フィンが、ぱっと顔を上げた。
耳のいいネーヴァも、同じようにした。
馬蹄の轟き。雨上がりだから、土煙は、無い。
前線には、シャムシール。兵を率い、戦っている。彼らも、運動を停止した。パトリアエ軍も、同じように。
丸一日半、命を削り合った者共が、パトリアエも、バシュトーもなく、ただ、その光景を見た。
これが、奇跡か。あるいは、偶然か。あるいは、必然なのか。
フィンの、ニルの、ネーヴァの、いや、この史記目録の中にある、あらゆる者の、願い。生きる者も、死んだ者も。これを編む筆者も。これを読む、読者諸氏も。
それらの、一人一人の願いは、声になった。声は、星に、そして雨になり、大地に注いだ。
雨は、乾こうとするため、あるいは、集まり、水となり、流れとなろうとするために激しくもがき、蠢き、そして、全てを飲み込み、薙ぎ倒す。
それは、さながら、暴れる風。
星は、声。落ちて、雨。雨は集まり、水は流れ、流れは、また風。
ニル。泥だらけ、血まみれになりながら、馬の首に顔を埋めるようにして、駆けている。
フィンには、それが分かった。遥か、遠く、地平の線の上に、ニルがいる。
「あぁ、ニル。やっぱり、あなたは、ここに来た」
ニルは、いや、この場に居る誰もが、風と雨を司る、
フィンの背後には、龍の旗。ニルは、その旗目掛けて、いつでも、帰って来るのだ。フィンがはじめに建てた旗は、今はニル自身が用いている。
旗は、ただの旗。ニルは、フィンを目掛けて、帰って来るのだ。そこで、あなたを、待っている。星屑の花の香りと共に、フィンが、そう言ったから。
ネーヴァは、フィンに笑いかけると、馬に跨がり、ニルの方へ駆けて行った。
ニルとネーヴァが、二人、すれ違った。共に傷つき、汚れた互いの姿を、一瞬、視界に捉えた。
どちらからともなく、笑った。そして、頷いた。
ニルは、フィンのもとへ。
ネーヴァは、ニルの向こう、グロードゥカへ。
今、この地に吹く、
フィンには、それが分かった。
彼女は、涙を流した。
それは、星の屑に似ていた。
ぱっと散り、あたりに、あの甘く、胸の奥に刺さるような香りが、漂った。
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