聖女、再び
バシュトーは、ユランを伴い、ハルバシュカまで後退した。ユランの介入により壊滅こそ免れたものの、完全に、策に嵌められた負け戦であった。損害は、実に八千。全バシュトー軍の五分の一が、死んだことになる。
誰も、口を開かず。肩を落として。ハルバシュカの城壁が近づくにつれ、生き残った喜びと戦いの恐怖が誰の胸にも込み上げてきて、軍は悲惨な空気に包まれていた。
シャムシールは、兵の心を奮い立たせねばと考え、まずは兵糧の補給を画策した。戦いを続けるには、もう兵糧が無い。そこで、各地を巡るパトリアエ軍の輸送路に眼をつけた。
「パトリアエの兵糧で、バシュトーの腹を満たすのだ。愉快なことではないか」
と言い、兵を励ました。あちこちに、百ほどの小さな隊を複数派遣し、各地からの作物を奪わせ、ハルバシュカに運ばせた。
しかし、彼らは、それをせざるを得なかった。数日間、それを繰り返したが、一日に運び込まれてくる兵糧が、費えを上回らなければ、蓄えは増えぬ。今のところ、減る分と増える分は同じくらいの量で、それも、兵を苛立たせた。
こうなると、始末が悪い。兵の中で、部族間のいさかいや揉め事が多発した。いちいち、シャムシールは仲裁に入った。
そこへ、急報がもたらされた。リャーニンに退いたはずのパトリアエ軍が再び発し、こちらに向かって進軍しているという。
軍全体に、衝撃と絶望が瞬時に走った。彼らは、パトリアエを、甘く見ていた。一度は、国内に進軍してきたパトリアエを巧みに撃退した。そのときのようにはいかぬらしい。
彼らは、パトリアエ人ほど、東西の様々な文物に触れる機会に恵まれなかった。だから、彼らの戦いとは、押すか、退くか、奪うか、奪われるかなのだ。
これほどまでに、パトリアエとの戦いが厳しいものになるとは、シャムシールも予想していなかった。国内の部族同士で、小さな戦を繰り返しているのとはわけが違う。彼らは、戦いに、
戦う理由を、求めていた。
聖女の影を、欲していた。
得たのは、悲惨な同胞の死と、戦いがいつ終わるとも知れぬ恐怖と、明日の食料にすら困る焦燥。
彼女は、それを知っていた。いや、こうなることを、知っていたのだ。
うっすらと、微笑みながら。一歩ずつ、確かな足取りで、ハルバシュカの門をくぐり、石畳を踏んだ。
誰もが、ぽかんと口を空けて、彼女を見送った。
あり得ぬことが、ここでも起きた。
ハルバシュカ全体が、静寂に包まれる。
何事かと見に来たウラガーンが、彼女を見つけた。
ニルは、知った。何かが、いよいよ、始まるのだと。
「フィン」
ニルは、ゆったりと歩くその姿に、声をかけた。フィンは、ニルを見て、灰色のフードの向こうで、にっこりと笑った。
ウラガーンがバシュトーに参加してからどこにいたのか、などとは聞かない。今、フィンは、ニルの眼の前に、現れたのだ。
街に入ってすぐの広場。先の戦いで、雨の軍により守備部隊が壊滅させられた場所である。そこにある壇の上に、フィンは立った。どの街にも、精霊の祭祀などを行うために、こういった広場と、壇があるものだ。
三万ほどに減り、疲れ果てたバシュトー軍が、誰からともなく集まってくる。ニルは、ただ、そのフィンの美しい横顔を見ている。
一通り、人が集まった。誰も、口を開く者はない。
「ニル、旗を持っている?」
フィンは、いつもと変わらぬ口調で、傍らのニルに言った。ニルは、自分の隊の者を呼び、旗を取りに走らせた。棹に巻かれたその旗を広げ、ニルは掲げた。ダンタールが進み出てきて頷き、ニルからその旗を預かり、さらに高く掲げた。激しい戦いにより、ところどころが破れ、血のしみがついているそれが、風に翻った。
皆、息を飲んで、その旗を見上げた。
「帰ってきました。皆の声が、聞こえて。わたしは、今、ここにいる」
フィンは、まず、そう言った。死んだはずの聖女の復活。バシュトー人からは、激しい歓声が上がった。それが静まると、次の言葉を続けた。
「わたしのいない間、あなた達は、あなた達のために、孤独で、悲しい戦いをしてきたのね。ごめんなさい」
ぽつり。
雨が、降りだした。
「わたしも、今からは、あなた達と共に」
雨と、風が、強くなる。バシュトー人が、それを喜ぶように、声を上げた。
刹那、ニルが、ヤタガンを抜いた。
激しく、金属が鳴る音。
雨の粒が、ぱっと散った。
そして、ニルの、静かな声。
「ネーヴァ。何をするんだ」
ネーヴァの、雨を滴らせた髪が、すぐ目の前にあった。雨の粒を光らせる、ジャマダハルも。
「ニル。どけ」
「やめろ、ネーヴァ」
「やめぬ。俺は、その女を、殺さねばならぬのだ」
フィンは、首元に突き付けられ、ニルのヤタガンによって辛うじて止められたネーヴァのジャマダハルに対して、眉ひとつ動かさない。まるで、ネーヴァなど、居ないかのように。
「コーカラルが死んだのは、フィンのせいではないぞ、ネーヴァ」
ダンタールが、口を挟む。
「うるさい。あんたも、どうかしている。生きていただと?馬鹿にするな。では、コーカラルは、何のために死んだのだ」
「フィンを殺すことが、コーカラルのためになると思っているのか」
ニルである。ネーヴァのジャマダハルの刃に込められた力から、彼が本気でフィンを殺そうとしていることを知った。
「いいや、思わぬ。誰が、コーカラルをそうさせたのか、分かっている」
ネーヴァの、もう片方のジャマダハルが、ニルに突き出されてくる。ニルは、アトマスとの戦いで、
ジャマダハルが、肩に突き立った。それを、空いている手で、掴んだ。
「ニル。どけ。さもなくば、お前も殺す」
「いいや、どかない」
肩からジャマダハルが引き抜かれ、一瞬、ニルは顔をしかめた。
ヤタガンを振る。それを、ネーヴァが受け流す。
さすがのネーヴァも、ニルの斬撃の鋭さに受け流すのが精一杯で、腕を捉えたり、武器を弾き飛ばしたりすることは出来ないらしい。
ニルのヤタガンと、ネーヴァの二本のジャマダハルが、雨の粒を斬りながら、激しく、交差する。
「やめろ、ニル、ネーヴァ」
ダンタールの制止も聞かず、二人は、雨の飛沫を飛ばしている。
ニルとネーヴァ。どちらの技量が勝っているのか、誰にも分からない。ニルは怪我をしているから、ネーヴァが有利であるようにも思える。
広場に集まった多くの人間と、フィンの前で、二人は、戦っている。
金属の鳴る、激しい音。ネーヴァのジャマダハルのうちの一本が、斬れた。
もう一本で、突きを繰り出す。しかし、それよりも一瞬早く、ヤタガンが喉元まで伸びて、そして、止まった。
「殺せ、ニル」
「いいや、殺さない」
ニルは、ヤタガンを引いた。ネーヴァが、ジャマダハルを拳から外し、腰に戻した。
「お前は、その女と共に、生きるがいい。俺は、俺の道を、ゆく」
そう言って、ニルに、背を向けた。
「ニル」
ニルは、次の言葉が、思い浮かんだものでないことを願った。しかし、ネーヴァは、ニルが思い浮かべた通りのことを、言った。
「さらばだ」
ユランを引き連れ、ネーヴァは、ニルの前から消えた。去り際、アイラトが、ニルの方をちらりと見た。その目は、虚ろに、折れたジャマダハルの刃を見つめていた。
固唾を飲んで、成り行きを見守っているバシュトー軍に、フィンは言った。
「悲しみの道。それは、遠く、苦しいもの。それを、あえて追う。彼の生き方を、誰も、否定することは出来ない」
しかし、とフィンは言う。バシュトー語である。
「わたしたちは、生き、追い、求め、せめて、そのために、血を流しましょう」
雨に濡れたままのバシュトー軍の誰もが、頷いた。
「お願い。みんなの、声を聞かせて。みんなの、いのちの音を。そうすれば、わたしも、戦える」
フィンが、両手を挙げる。それに、バシュトー人は、歓声をもって、答えた。バシュトー人にとっての心の拠り所、聖女フィンは、今、死から蘇り、人々に希望をもたらしたのだ。バシュトーとは関係ない、砂漠の国の兵まで、その言葉の不思議な響きに、フィンの姿に、息を飲んだ。思わず、膝を地に付け、称えたくなるような何かを、彼らは見ていた。
フィンが、灰色のフードを外し、雨を浴びた。歓声が、一層、強くなった。フィンが、両手を下ろすと、それは、次第に止んだ。
「戦いましょう。我々が向かうべき敵が、迫っている。シャムシール」
驚くほど鋭く、フィンに名を呼ばれ、シャムシールは直立した。彼は、フィンの死が偽りであったことを、ウラガーン同様、知っている。その彼ですら直立し、フィンの前に進み出て、自然に膝をついた。
「今日まで、よく皆をまとめ、希望を示し、戦ってくれました。あなたの名は、本当でしたね。決して折れることのない、剣でした」
シャムシールが、地に頭を付けた。自分でも、何故そうするのか、分かっていないらしい。
「今日より、全軍の指揮を、わたしに委ねて下さい。わたしが、あなた達を、導きましょう。あなたは、それを
フィンが、広場にいる一人一人の眼を見つめるように、見回す。
「わたし達の、輝かしい国まで。そこには、もう、戦いも、血も、悲しみも、無いのです。そこに至るために、血で、地図を描きましょう。屍で、道を作りましょう」
フィンが、雨の中、風を受ける旗を見上げた。
「あの旗を、わたし達の旗にしましょう。汚れ、破れ、血に濡れた、わたし達のことを、ずっと、忘れないように」
フィンの顔が、ニルの方を向いた。
「ウラガーン」
ニルもまた、フィンの前に、
「今よりこのハルバシュカを出、西と、東へ。東の隊は、川沿いに。西の隊は、丘の影に。それぞれ、身を隠していて。決して、パトリアエに、
ニルはフィンを見上げ、立ち上がり、駆けた。ウラガーンが、馬に跨がり、城門を開き、飛び出してゆく。
「砂漠の兵よ」
フィンはその慌ただしい動きを見ながら、なおも声を上げた。
「このハルバシュカから出て、北へ。馬を用いてはなりません。あなた方が、盾となり、パトリアエを止めるのです」
砂漠の軍の指揮官が進み出てきて、フィンに向かってなにか言おうとした。しかし、フィンの前に立つと、言葉が出てこない。
「自らの安寧のために、自らの安寧を捨てられる者。その者だけが、わたし達の向かう先を、見ることが出来るでしょう」
と言われ、引き下がった。
死ねと言われているのである。フィンは、堂々と、借り物の砂漠の軍を、捨て駒に使うつもりらしい。
ハルバシュカの城外、北へ行ったところに、陣が速やかに組まれた。
最前列、砂漠の兵、八千。全て、馬には乗らず、
第二段、シャムシール隊。減った兵を補充し、三千に戻した。ここから後ろは、全て騎馬。
第三段が最も厚く、一万五千。千ずつの隊が十五あり、それを一つにまとめて、第三段とした。
第四段は、五千。薄く、横に広がるように、展開している。
千のウラガーンが、指定の地域に到達したであろう頃、パトリアエ軍が、再び、このハルバシュカの地にやって来た。
ちょうど、真昼。アトマス自身はここには出てこなかったが、先の戦いの後、夜が明けたらすぐ、追撃軍を発しているのである。眠りもろくに取っていないバシュトー人が、まさかこのように整然と陣を整え、迎撃に出ているとは思わなかった。
この追撃の指揮を任されている主将は、戸惑った。バシュトー人と言えば、全て騎馬で、馬鹿の一つ覚えのように突撃、反転を繰り返すものだ。しかし、今目の前にある陣は、どうだ。
見たこともないような、強い気を放っている。バシュトー人の、生命の力を感じるほどに。
砂漠の兵が、徒歩で、声を揃えながら進んでゆく。
フィンは、不思議なほど人気のなくなったハルバシュカの城壁の中で、ぽつりと、地図の前にいる。
そこには、何の書き込みもない。ただ、近くの地形などが記されているだけだ。
だが、それを眺めるフィンの唇は、
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