帰国

 筆者は、この時点で、やっとフィンの思惑について、確かな想像を持った。それは、戦慄を禁じえないものである。まだこの時点では、史記を読む者にとってそれぞれの想像が許されるところであるから、今のうちに読者諸氏も、彼女の思惑やその思考について想像を巡らせておくとよい。天衣無縫と言えば聞こえがよいが、深謀遠慮、大胆不敵、彼女を表す言葉を捜せば、きりがない。そして、彼女を表す言葉を、筆者は未だ知らぬ。

 ただ彼女の姿を追うことでこそ、彼女を表すことが出来るのだ。



 パトリアエの国内は、なお一層、まとまりを見せつつある。民の間に、税に対する不満はやや燻っているが、アトマスは上手くそれを治めている。やはり、リョートの手腕によるところが大きい。時代が飽和するときには、決まって彼らのように、あちこちに不世出の才能をもった者が出現するから、アトマスとリョート、そしてウラガーンの面々、ダンタールやフィンなどが同じ時代に居合わせているのは、もはや自然なことと言えるだろう。


 他の国、他の時代の歴史を見てもそうであるが、歴史というのは、人間と人間のぶつかり合いである。それは、ときに調和であり、武力であり、または、武力に依らぬ才であり、あるいは、そのどれもである。この史記のような時代には、必ず、天命を以ってあらためる、と言うに相応しいほど、不可思議な作用が働き、歴史は進み、動く。まるで、意思のあるものが蠢くように。

 フィンの言うあたらしい国とは、どのようなものなのか。おそらく、そこに直結する道は、ない。そこにたどり着く唯一の、そして最短の道が、回り道をすることなのであろう。



 夜の寒いバシュトー地方の春の終わりであり夏の前であるこのとき、ふしぎなことを、ダンタールは言った。

「ネーヴァ達を、

 まるで、プラーミャが、リベリオンが、敵であるかのような口ぶりである。彼は、確信していた。プラーミャは、パトリアエとの戦いを、やめる。おそらく、その国の強化を、たすけるのだ。彼はいつも、柔軟にものを見る。何にもこだわらず、ただ、抜くべきときに、抜くべき剣でもって、敵を打ち倒す。その敵が、じつは最も自分の理想を体現していると思ったとき、彼は、剣を抜かなくなることであろう。少なくとも、パトリアエに対しては。

 だが、そうして出来た国は、フィンの言う通り、いつか腐るのだ。時間の流れが、高潔な人の意思を汚れたものにする。志は過去の美談となり、その血に連なるものはおごり、そうでないものを虐げるようになる。そうして、また、ウラガーンのような者が現れ、血でもって、歴史を塗り替えるのだ。そのような国づくりの道具に、ネーヴァ達を使わせるわけには、いかない。

「ダンタール」

 サラマンダルの広場。その中央に、彼らはいた。フィンが、ダンタールの方を、じっと見ている。 

「行くのね」

「ああ、フィン。もう行く。リベリオンがどうなるのか、プラーミャがどうするのか、考えても仕方がない。だが、俺には、俺達には、やらなければならないことが、ある」

 そのためには、ネーヴァ達が必要なのだ。ウラガーンは、仲間を見殺しにはしない。その続きは、言わずにおく。

「わたしは、ここで、時を待つ」

 フィンは、微笑わらった。ソーリの風がまた、彼女の細く、柔らかな髪をもてあそんだ。

「ニル」

 風に向かって細めた眼が、ニルに向けられた。

「また、すぐに、会えるわ」

「ああ。また、すぐに」

 ニルとフィンは、再会を約束した。ダンタールはともかく、リュークとストリェラはフィンに対して懐疑的であるが、フィンが、決して権勢欲のためにバシュトーを操っているわけではないということは分かっているらしい。微妙な表情で、二人を見ている。

 星屑の花の香りが、ニルを包んだ。柔らかな手触りと、温もりも。背に回された掌から、フィンの鼓動がする。自分の鼓動が、フィンの身体を揺らしている気がする。フィンの唇が、ニルの耳元で、何かを囁いた。ニルは、黙って、驚いたような顔をしている。

 ここでフィンが何を言ったかは、史記には描かれていない。おそらく、この後、明らかになるとして、あえて割愛したものと考えられる。あるいは、この史記を編んだが、二人だけの言葉にしておきたいと願ったか。

「今度は、わたしが、あなたを待つ番ね」

 ふふ、とフィンは喉を鳴らして、笑った。ニルは、頷いた。

「じゃあ、フィン」

「ええ、ニル」

 フィンは、灰色の外套のフードを、被った。


 四人のウラガーンは、クディスの地を去った。そのとき、ニルが旗を一旒いちりゅう、持ち出した。あの、龍の旗である。それを棒に巻いて、背に携えた。旗とは、しるし。ときに、人の拠り所になる。げんに、ニルは、七年もの間、この旗を、焦がれるようにして待ち、過ごした。

 このときに、ニルがパトリアエに持ち込んだ旗は、どのような意味を持つのであろうか。そのことは、とりあえず置いておく。まずは、先に触れた、フィンの囁きへと向かって、進めてゆく。

 クディスを出るとき、ジャハディードの砦の近くにいる部族の、あの四人の若者に、また会った。久しぶりであったが、彼らは、ウラガーンを覚えていた。

「帰るのか。ウラガーン。お前達の国へ」

「いいや」

 ダンタールが、言った。

「作りにゆくのだ。俺たちの国を」

「作る?」

「お前たちも、その国に住めばいい。きっと、いい国になる」

「まだ、なにもしていないのに、何故分かる」

「それは、お前達の、聖女クディスに聞け」

「彼女は、何も言わない。ただ、俺たちのことを聞き、話すだけだ」

「それでいい。そこから、始まるのだ。俺は、そう思っている」

「変わった人間だ、ウラガーンは。少し、彼女に似ている。パトリアエ人とは、皆、そうなのか」

 男が、おかしそうに笑った。ふと、気付いたような顔をして、

「そうか。パトリアエ人も、バシュトー人も無いような国を欲するのが、お前なのだな」

 と、やはり不思議な組み上げ方をしたパトリアエ語で言い、また笑った。

「お前の名を、聞いていなかった」

 ダンタールは、パトリアエ語を話す若者の名を尋ねた。若者は、バシュトー地方の、象徴的な、大きく湾曲した剣を抜いた。殺気はないから、ウラガーンは誰も身構えない。美しい曲線が陽光を吸い込み、吐き出しているのを、ただ見ている。

「俺は、シャムシールと言う。バシュトーの言葉で、剣、という意味だ」

 大きく曲がっているが、それがために、とてつもない斬れ味を誇る。一種の完成系ともいえる剣である。まるで、バシュトーそのもののようである。

「また、会うかもしれんな、シャムシールよ」

「そうかもしれんな、ウラガーン

 よく陽に焼けた肌に、白い歯が、貼り付けたように光っている。生まれた国が違っても、相手が笑えば、つい笑い返してしまうものだ。人とは、そういう風に出来ている。それが、健やかに行われない国が、多すぎる。

 それを、正すのだ。ウラガーンの、新たな道である。彼らは、血と泥の中で、風と雨を呼ぶ龍。

 痛みのない変革は、あり得ない。ここから、彼らの本当の働きが、始まるように思う。ニルは、自らの意思で、フィンの囁きを、あの僅かな空気の揺れを、風にしようとしている。



 ひそかに帰国し、グロードゥカに入った最初の夜、ニルは休む間もなく、一人、家屋の屋根の上に立ち、闇の中に薄白く浮かぶ王宮の荘厳な建造物を、眺めている。腰には、愛用のヤタガン。その柄を握る手には、まだ、フィンの背の、柔らかな感触があった。

 跳ぶ。

 音もなく、降り立つ。

 裏門には、門番が二人。その交代の者が二人、通用門から姿を見せた。

 その少し後、ニルは、城壁の内側にいた。

 その背には、血を流し、倒れている四人の兵。

 雨が、それを薄め、洗っている。

 彼らの靴のことは、大分前に解説した。その靴のせいであろうが、しかし、ニルが歩くとき、雨を踏む音はせぬのを、今さら異様なことのように筆者は感じる。

 王国暦三百二十五年。その雨の匂いからして、初夏のことである。

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