黒い雨
ある役人がいた。以前、ウラガーンが暗殺した商人と結託し、塩や鉄などの流通を操作し、値を吊り上げていた小悪党である。
ウラガーンは、フィンを抱えたまま、通常任務に戻っている。
その通常任務に対して、彼らは何の疑いも持たない。リベリオンからもたらされた要請を受け、実行するだけだ。
「ニル、ネーヴァ」
二人が、それを直接実行する役目に指名された。屋敷は、商人の暗殺以来、護衛が増強されている。もしかすると、夜間でも、身辺の警護に人が付けられているかもしれぬ。だから、二人。
あと五名を出し、それは脱出の援護をするが、必要があれば館の中を静まらせる方に回るであろう。
彼らは、夕まで、宿の方の仕事を普通にこなした。ニルは、意外にも調理ができたから、厨房に立つこともある。
かまどの火加減を見るのが、好きだった。刃物の扱いも上手いから、たれに浸した薄切りの羊肉を塊にしたものを棒に刺し、火にかざしながらゆっくりと回す。
表面を少し焦がしては削り、焦がしては削りしてゆくのが、上手い。ニルが切るのと、他の者が切るのとでは、同じ肉でも食感まで違うと言われるほどであった。
香草や香辛料を使った、たれの焼ける香りが快い。滴る油が火に落ちると、何とも言えぬ芳香と、食欲をそそる音がするものだ。
しかし、ニルは自らの作業に熱中しており、匂いや音に誘われて腹を空かすようなことはしない。ただ、一心に肉を見つめ、回しながら、今だというその刹那、削り取る。ニルには、そういうところがあった。
削った肉は、小麦を練り、薄く焼いたものや野菜と一緒に食う。その野菜を切る幅にまで、ニルはこだわった。自分が食う物は、なんでもいい。自らの力で、自らの目の前の何かに変化が訪れるのが、楽しみなのかもしれない。
この夜切り分けるのは、別の肉だった。われわれでいうところの包丁のような短い刃物から、龍の爪に似た薄い湾曲を持つヤタガンに持ち変えて、切り分ける。切り分けて、目の前の何かに、変化をもたらす。漆黒とマホガニー色の縞模様の外套に、黒い覆面。素早く身に付け、ヤタガンを腰に差した。
標的の屋敷は、首都グロードゥカの役所などが並ぶ区域にある。文官の屋敷は、たいがいそこだ。厳重な警備が施された、城壁の中の城壁と呼ばれる内壁に囲われている。
役人を斬れば、即、死罪である。それを承知で、やる。リベリオンから、そう通達がくれば、ウラガーンは、やる。ましてや、中心になるのはニルとネーヴァなのだ。しくじるはずはない。普段の通り、ダンタールとコーカラルは店に残っており、夜に客の多くなる酒場の片付けをする。
最後の客が店を出た頃、ニルらは、城壁の中の城壁のそばにいた。指揮をするのは、リュークとストリェラという双子の兄弟。兄がリューク、弟がストリェラ。リュークは弓、ストリェラは矢という意味で、双子らしい名である。
通りが壁の中の壁に接するところには、詰所が設けられ、侵入は容易ではない。また、不用意に門番を消せば、騒ぎになりかねない。ここは、人を殺めることなく、片付けねばならない。
弟のストリェラが、濡れた雨の上のウラガーンに、待機を命じた。無論、雨だから、月はない。大通りには
おなじ闇でも、パトリアエの雨の夜の闇には、いろいろあった。雲が薄く、月が丸い暦の雨の日は、雨も明るい。雲が厚く、月のない日の雨は、炭が溶けているかと思うほどに黒い。
ウラガーンは、その雨に全身を黒く濡らしながら駆けた。
塗り潰せ。雨に打たれながら、ニルはそう思っていた。なにもかも、塗りつぶしてしまえばいい。そうすれば、彼を阻む障害も、黒く塗り潰される。
しかし、現実では、真っ黒な闇の中にも、ニルを阻むものはたくさんある。まず、物理的な障害物。これに足を取られて転んだり、物音を立てたりせぬよう、最新の注意を払わねばならない。
次に、明かり。哨戒している兵などは、火を常に持っている。この雨の多い国では、灯火はそれが消えぬよう、笠を付けるよう進化した。異変を感じれば、それは容赦なくニルの方に向けられ、ニルを守る闇を払うであろう。
そして、人。彼らもまた、ニルらと同じように、闇の中にいる。無論、ウラガーンのように闇の中で駆けたりすることはできぬが、彼らでも、闇の中で息はできる。
これらを、ときに避け、ときに排除し、目標はそのことを知らぬまま、ニルがその背後に立つのだ。
今夜は、決して騒ぎを大きくすることはできない。あくまで、隠密に。濡れた冷たい石壁に肌を付けながら、雨の中に混じる気配を聞いている。
灯を持った兵が、街路を歩いてゆく。一瞬、視界が開き、そしてまた暗くなる。ニルは、隣のネーヴァが動き出す気配を聞いて、駆けた。
門のところに着いた。二人の兵がいた。退屈を紛らせるためか、なにか談笑している。
「おい、どうした」
兵の一人は、今まで言葉を交わしていた者が急に黙ったから、手に持った灯火を遠ざけ、その者を照らした。
「何か、おかしい」
「どうしたのだ」
「向こうだ。行ってみよう」
何か物音でも聞き付けたのか、兵は持ち場を離れ、駆け去って行った。
ニルが放り投げた石の音を、兵は聞き付けたのだ。それは雨の中で甲高い音を立てたから、いかに兵が無能でも分かる。
その隙に門に二人で取り付いて、押し開いた。そこへ、他のウラガーンも駆け込んでくる。
夜の中央の鐘が、鳴った。夜は、法により、外出が禁じられている。鐘が鳴ったあと外に出ている者は、見つかり次第捕らえられる。べつにそれほど大した刑は課せられないが、罰金は払わねばならない。だから、この夜の中にいるのは、ウラガーンか、兵のみである。
ニルとネーヴァは、二百ヴァダー(彼らの距離の単位。一ヴァダーはおよそ〇.八五センチメートル)ほど走ったところで左に折れ、屋根伝いに目標の屋敷を目指す。他の者は、大通りから回り込み、二人が事を成したあと、脱出の援護をする。
屋根から屋根へ飛び移った。ラーヴィーという山羊の仲間の動物の革で作った靴は、底に、夏に採れる、水を抜けばスポンジ状になる固い果実を加工して張り付けてあり、雨の中でも摩擦が良くて滑らず、なおかつ足音を消した。それでも、多少の音はするものだが、とても上手く膝を使い、それを消す。
木枠に板がはめ込まれており、それを開閉する窓。二階のそれをそっと開いた。内部の様子までは、事前に探知することはできない。
室内に身を入れると、柔らかな感触が足にあった。
ニルと同年代くらいの少女がいた。何が起きているのか分からず、ただ、目の前にある黒い影に眼を凝らし、それから滴る雨粒を冷たいと感じているらしい。
ニルは、素早くその影の口を塞いだ。ニルが動いたので、ネーヴァも室内に身を入れてきた。
「安心しろ。何もせぬ」
ニルは、できるだけ穏やかな声で話しかけた。少女は、甘い香りを振りまきながら小さく頷いた。
「この館の、娘か」
また、頷いた。
「君の父上と、話をしに来た。部屋は、どっちかな」
話をしに来た。というのは、無論、嘘である。少女は、ニルの声に、悪意と敵意がないことを感じたのか、黙って、扉の向こうを指差した。
「そうか。ありがとう」
ニルは、ゆっくりと手を離してやり、扉の方へ向かった。そこで、小さな呻き声が上がり、血が臭った。
「ネーヴァ」
闇の中で、低く声をかけた。ネーヴァが、こちらを向く気配がした。
「殺したのか」
ネーヴァが頷いたのを、聞いた。
「なぜ」
ネーヴァが、はじめて言葉を発する。
「お前の声を、聞いたからだ」
ニルは、闇の中、うなだれた。覆面から出た髪から、雨の滴がひとつ、落ちた。
音を立てず、廊下に滑り出る。廊下は、灯が入れられており、明るい。少女が指差した主の部屋は、奥。廊下の突き当たりの扉を、開いた。
主はまだ起きており、何やら執務をしているらしかった。
「貴様、誰だ」
言い切る前に、口を塞いだ。耳元で、ニルが囁く。そのとき、すでにネーヴァは、小刀で寝台の上の主の妻の喉を刺している。
「お前が何故死ぬか、分かるか」
耳元で。
主は、震えている。
「お前が死ぬ
身体を密着させたまま、腰のヤタガンを抜いた。そのまま右に歩をずらし、抜ききり、また納めた。
この館の主である、不正を働き私腹を肥やす役人は、腹を絶ち割られ、贅沢な模様の織物の絨毯に血溜まりを作り、倒れた。焼いた肉を切るのとなんら変わりはなかったが、やはり、違った。
「行くぞ」
ネーヴァを促し、また窓から外へ出た。
「やったか」
リュークとストリェラが声をかけるのに、ニルとネーヴァは頷いた。
「よし、皆、戻る。門を出たら、それぞれ、別々に、店まで戻れ」
戻るときも、入ってきた「城壁の中の城壁」の門には、無能な門番が二人立っていた。出るときは、入るときのようにはゆかぬ。
門を、内側から強く叩く。そして、開く。
門番の驚いた顔が、自らが握りしめた灯火に浮かび上がっていた。
何のためらいもなくそれに近付き、
ほかのウラガーンも、集まってきた。それらは、また黒い雨を踏み、根城へと帰っていった。
ニルの外套を濡らした血も、ネーヴァの外套に染み込んだ少女や役人の妻の血をも、その雨は黒く塗り潰した。
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