国境へ
この複雑な歴史を、どう紐解いてよいものか、正直、戸惑っている。同じようなページを行ったり来たりしていることを、許されたい。
ここでは、フィンのことが書かれた部分について述べてみることにする。
フィンは、王家に連なる者で、なおかつ、ラームサールの盟によりやって来たバシュトー王の元妻の子であることには既に触れた。
「ニル」
フィンは、どういうわけか、ニルにはよく懐いた。初夏にやって来てから、季節は変わり、冬になっている。相変わらず、ダンタールやネーヴァなど他の者に対しては、精霊の卷属らしい丁寧な物腰であるが、ニルに対しては、友達付き合いのような具合で話しかける。
「ちょっと、いい?」
ニルは、食事の仕込みの手を休め、厨房の入り口から覗くフィンの方へ歩いていった。
「わたし、バシュトーへ、ようやく行けることになったの」
ニルは、驚いた顔をした。そうすると、まっすぐな鼻梁と彫りの深い顔に浮かぶ少年の匂いが強くなった。
毎日、仲良く過ごしていたフィンが、バシュトーに行ってしまう。ニルには、まさに青天の霹靂であろう。フィンが、ただ遊びに来ていたわけではないことは無論知っている。バシュトーへの亡命を希望していたことも。
しかし、毎日を過ごすうちに、なんとなく、この楽しい日々が続くことを願い、なんとなく、そう信じ込んでしまうのは、決してニルが愚かだからではあるまい。様々な思考を咬み殺し、
「いつ」
とだけ言った。できるだけ、明るく。
「来月になったら」
とすれば、もう数日である。
「そうか。いろいろ、楽しかった。向こうでも、元気で」
「ダンタールが、ニルに話があるって」
そのことについてであろう。ニルは、フィンと厨房を代わり、ダンタールの部屋へ向かった。
覗き込む気配に気付いたダンタールは、宿の収支などを書き込む帳簿から眼を離した。
「ニル」
「ダンタール。フィンから、聞いた」
「そうか。来月になれば、ここを発ち、バシュトーへと送り届ける。俺たちは、護衛も兼ねている」
「何人、出す」
「リベリオンから人を出すよう要請したのだが、駄目だ。大人数になれば、王家や軍に感づかれてしまう。あくまで、ウラガーンのみで、無事にフィンを送り届けろ、ということだ」
「俺たちだけで?」
前にも述べたが、ウラガーンは、この宿を根城として働いている孤児どもだけではない。他にも、同じように、世を忍び、人の中に混じり、存在している。
「他のウラガーンは、そもそも、フィンのことを知らぬ」
とすれば、僅かな供回りのみで国境を越え、フィンの身柄をバシュトーに引き渡すことになる。亡命とは、もともとそういうものであるが。
出せる限界まで人を出しても、七人。一定期間、店を空けることになるから、それ以上は出せぬ。
「俺は、ゆく。店には、コーカラルを残す」
ダンタールは、机の上に置いた節くれ立った大きな掌を組み、言った。
「あとは、お前、ネーヴァ、リューク、ストリェラ、ほかに二人か。アイラト、それにマオだな」
ネーヴァは既に何度か物語に登場しているし、リュークとストリェラの双子も、少し書いた。アイラトという少年は、まだ歳が十三と若く、ダンタールの率いるウラガーンでも最年少だが、古い言葉で「恵み」を意味するその名の通り、天賦の才に恵まれている。
マオというのはニルと同い年の少女で、母親が確か遥か東方の国の出で、そういう者は、娼婦などになる他にパトリアエでは生きてゆけぬ。マオは幼い頃、そういう母に連れられ、夜の街を徘徊していたが、遂に暮らしてゆけぬようになり、ウラガーンに預けられた。それを預かったのがダンタールだった。身のこなしが猫のようだったから、彼女の記憶の中にある母の生まれた国の言葉で猫、という意味の名で呼んでやった。コーカラルもよく扱う、キンジャールという二本の短剣で舞うように戦う様は、まさしく猫そのものであった。
それら精鋭が、フィンの護衛のため、国境までゆく。
その日が、来た。
「ニル」
フィンがニルを呼ぶ声の調子は、いつもの通りであった。美しい、薄い色の髪を掻き上げると、それが朝日を跳ね返して、少し眩しくあった。
「よろしくね」
灰色のフードを被る。まるで、日の光から、逃げるように。人の目から、隠れるように。
彼らは、一見、なんでもない旅の一行に見えた。南の方は乾燥しているから、南への旅人が埃避けのために覆面を携えていてもおかしくはないし、灰色のフードも自然である。武器も、旅人ならば盗賊からの自衛のため携行することが普通である。無論、ウラガーンの揃いの衣装は、用いない。ばらばらの生地にばらばらの色の外套と覆面である。
その旅慣れた足からも、彼らが、ダンタールを除き、皆若い少年少女であるとは分からぬであろう。
国境と言っても、関所などは無い。南の丘陵地帯を越えればバシュトー領である。そこまで、およそ十日。僅か十日の距離でも、空気は、どんどん乾いてゆく。
「見て」
乾燥した草原に、一本だけ、背の高い木が生えている。あとは、全て、足首か、せいぜい高くて膝ほどの高さの草。木の脇には、狐の仲間。親子だろうか。寄り添い、ウラガーンをじっと見ている。
その親狐が、ぱっと起き上がった。仔狐が反応するより早く、ニルはフィンを庇い、前に出た。それに合わせ、他のウラガーンも、身を低くする。
背の低い草が、揺れている。
——風?
いや、違う。ニルは、確信した。
フィンの頭を押さえ付けるようにして、屈ませた。フ短い悲鳴と共に、灰色のフードが外れた。
「敵襲。ニル、フィンを。他の者は、身を低くしろ」
ダンタールが、夜に出す声で指示をする。夜に出す声とは、彼らが訓練しているもので、ふつうの発声とは異なり、大きな声でなくとも明確に聞き取ることができる。また、聴き手もそれを聴く訓練をする。
蚊の羽音はとても小さい。しかし、人はそれを聞き分ける。それは、蚊が不用意なのではなく、人が進化する過程において、有害なものであると定めた蚊を避けるため、蚊の微細な羽音を聴き分けているという話があるが、理屈はそれに似ているかもしれぬ。
ニルは、草に屈みながら草原を見た。草の一本一本全てに、気を配った。
何事もなく揺れる草の、その一角がおかしい。
見つけた。
懐の飛刀を、投げつけた。
男の悲鳴が、上がった。
そして、短い矢が応えるように飛んできた。
それらからフィンを庇うため、身体をさらけ出した。
草のうねりが、近付いてくる。
外套の男が二人、飛び出す。
這って、進んできたらしい。
その男どもが死体に変わったとき、ニルは左手で逆手に抜いたヤタガンを順手に持ち換え、また屈んだ。
「フィン、ここから離れろ」
言って、思い直した。
「いや、ここにいろ」
ニルは屈んだまま、恐るべき速さで駆けた。ニルの駆ける後を追うように、地に短い矢が刺さってゆく。
敵が何者かは分からぬが、フィンを殺す気らしい。
——情報が、漏れた?
それを、今考えても仕方ない。
草の中で、敵が見えた。
すぐ眼の前。見ると、ネーヴァが、挟み込むように回ってきている。
身を躍らせる。
斬撃、しかしニルはそこにはいない。
代わりに、龍の爪が光った。
一人、また死骸になった。
ネーヴァも左拳で敵の腹の急所を打ち、足をかけて回転しながら首を折り、右手に取り付けたジャマダハルで一人の喉笛に風穴を空けた。
「何人か、向こうに行った」
ネーヴァが眼で指した先で、人が、飛んでいる。ダンタールが、
敵は、十五、六人。最後の一人が、身を隠しもせず、フィンを残した場所に、一目散に駆けてゆく。
ニルは、ネーヴァを放り出し、その場所へと走った。
フィンは、見ていた。戦いによって飛ぶ血を。人の断末魔を。毎日、宿や酒場の仕事を共にしているウラガーンが、残虐な殺しの技でもって、敵を葬るのを。草の隙間から見ていた。そして、殺意のこもった眼の男が、こちらに向かって駆けてくるのを。
その男は、名も分からぬ短い、湾曲した刃物を手に持っていた。フィンは、屈んだままそれを見上げた。それをしてどうなるわけでもないのに、灰色のフードを、また被った。
フィンを守ったのは、灰色のフードではなかった。
「怪我は、ないか」
聞き慣れた、優しい声だった。その目には殺意はなく、むしろ慈しむような光さえあった。
「ニル」
フィンは、その眼の持ち主の名を、呼んだ。先ほどまで敵意を向けていたはずの男の眼は、硝子玉のようになって、草の上に横たわっている。
「よかった」
ニルは、
「大丈夫か」
ダンタールらが、駆けてきた。
「ああ、フィンは無事だ」
「そうか」
ウラガーンは、一様に武器をしまった。驚くべきことに、どの者も、外套に大きな返り血を浴びていなかった。多少の染みはできているが、旅をする者の衣服なら目立つほどのものではない。
「今の人たちは」
フィンは、震えを隠せぬ声で言った。
「これは、おそらく、追っ手」
「わたしを、バシュトーに行かせぬために?」
「多分な」
「はじめて、人が戦うのを、間近で見ました」
フィンを
「恐ろしいものですね」
「しかし、そのお陰で、お前は守られた」
「これが、戦い」
フィンが、胸の前で掌を組んだ。それに、ニルの手がそっと重なった。
「怖い?」
フィンは、小さく頷いた。
「わたしは、戦いを、人が血を流すということを、軽く考えていたようです」
「どういう意味だ、フィン」
ネーヴァが言う。それを、ちらりと見て、
「お話ししなければなりません。わたしが、バシュトーに行き、何をしようとしていたのかを」
と言い、血を吸い込む草に、眼を落とした。
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