バシュトーのこと、爪と翼のこと
ちょっと、話を逸らせてみたい。しばしば話題に上がる、隣国バシュトーのことである。広い乾いた草原に覆われ、騎馬と遊牧の国であることは既に述べた。
水はこの国にとっては貴重で、同時に権力の象徴でもある。王家は、ソーリ海に注ぐ数少ない流入河川であるジャーハーン河のほとりにある、王都サラマンダルにある。
国土の水面積がきわめて少なく、雨もたいして降らぬためか、隣国のパトリアエとは違って夏は暑く、昼の陽は人類を憎んでいるかのようだが、冬になると、夜は骨が凍るほどに寒い。
自然、人々の気性は、好悪のはっきりしたもので、水を争い、勝った者が権力を手にし、増長してきた歴史から、好戦的ですらある。
民族的にはパトリアエの民とさほど違いは無い。しかし、バシュトーの南北に長い領土の、更に南方の地からの移民などの血が混じり、やや分化が進んでいる。
バシュトーは、通常の交易などで発生する貨幣による税収を都市部から、周辺部で遊牧をする者からは家畜がもたらす毛皮や毛、乳などの加工品を納めさせることで成り立っている。
牧は全て官営となっており、元手となる馬、羊などの家畜は、全て王家から買うという形になる。遊牧をする者は、羊なら羊一頭あたり、決まった量の乳の加工品や毛などを、税として王家に納めねばならぬ。
決して、豊かな国ではない。だからこそ、国民一人一人が、すぐ北隣の発達した国家である雨の国パトリアエに憧れ、その領土をバシュトーのものとすることを、それこそ渇いた者が水を求めるように望んでいた。
度重なるパトリアエとバシュトーの戦いは、この二国の、地理の違いが生んだものと言ってよい。特に、パトリアエの王国歴二百年頃からのこの百年は、ウラガーン史記にも、百年戦争と銘打たれるくらいに争いが多い。
人は、知恵をもつ。彼らは、はじめこそ素朴に騎馬隊を繰り出し、素朴な弓矢や剣などでもってパトリアエの兵と戦ったが、いかにバシュトーの兵が剽悍であっても、パトリアエの重装歩兵団の守備力、すなわち分厚い鉄の鎧や頑丈な盾、重い斧などを製造でき、より多くの兵を養えるほどの国力の差を、どうにもできなかった。
だから、特にこの二十年ほどの間、バシュトーは、知恵を使うようになっている。ラームサールの盟などでは今後パトリアエには楯突かぬと誓っておきながら、パトリアエの王家への不満を持つ者どもが徒党を成しているのに目を付け、ひそかにそれを援助し、組織に仕立て上げたり、その実行部隊を作り、内側からの崩壊を画策するようにもなった。
これも、人類の進化のうちの一形態なのかもしれぬ。前提として、戦いとは、愚かなものである。しかし、その善悪は別として、戦いが人を進めるということもある。
この場合、それは人類にとっての利となるのか不利となるのか、史記は未だその答えを持たぬ。史記曰く、それは、人にとっての永遠の命題なのであるという。
ただ、史記は、淡々と出来事を記録するに留める。それを眼にした者が、歴史を知ることで、人類の無知と叡知の結晶の数々から、己が今為すべきことを定めよ、とでも言わんばかりに。
バシュトーの王家は、パトリアエのように普遍ではない。そもそも、複数ある部族が互いに争い、強いものが上に立つ、という素朴な統治形態を長く取って来た国である。
この王国歴三百十七年の時点での王家は、ラシャーン家。今の王で、二代目になる。ラシャーン家は、知恵がよく働き、戦いの指揮も上手い。
パトリアエが、特に鉄と塩を厳しく国家ぐるみで管理しているのは、ひとえにこのバシュトーへの流出を警戒してのことである。それを扱える者は、王家に認められた者だけ。
だから、ますます、パトリアエの富める者は富み、飢える者は飢える。その不満を、徹底した弾圧でもって治めようとする。国家への冒涜は、大精霊アーニマへの冒涜であるとし、即、死罪である。
それにまたバシュトーは眼をつけ、ウラガーンやリベリオン等を使って、パトリアエを乱す。
ニルやフィンが生きるのは、そのような時代である。フィンは、パトリアエで生まれ、精霊の卷属として生きながら、思想的には、明らかに反パトリアエである。己の生い立ちがそうさせるのかどうかは分からぬが、彼女が、パトリアエの圧政からの解放を目指し、バシュトーの力を使おうとしているらしいことは、確かなようである。
筆者も、戸惑っている。このウラガーン史記には、彼女がしたことは記録されていても、何故、どのような感情のもとで、それをしたのかは、記録されていないことがほとんどである。だから、想像をもとに書くしかないのだが、恐らく時代や場所が変わっても、人の心の向きというのは、そう変わるものではないと思う。
「ニル」
と呼び掛けるフィンの声は、どう聞いても普通の少女でしかない。いつも微笑を浮かべているが、どういうわけか、
「フィン、ちょっと良いよな」
と、ニルとよく仕事を共にし、仲のよいネーヴァなどはよく言う。ネーヴァは、空、という意味の名がよく似合う、透き通った笑顔の少年であった。少年といっても、ニルよりも一つ歳は上で、確かこの時点で十七になっているはずである。身のこなしが猫のようで、体術が非常に上手い。
手に直接装着する刃物であるジャマダハルを器用に振り回し、敵を血祭りに上げたり、足の技で首をへし折ったり、あるいは敵と組み合い、石畳に頭頂部を投げ落とし、砕いたりするから、戦い方はなかなかに残虐であるが、普段は、屈託のない笑顔と金色の柔らかな髪が美しい、睫毛の長いだけの少年である。
それが、ごく稀に、ちょっと影のある表情をするときなど、女ならば誰でも背筋を羽根箒で撫でられるような心地になるものらしく、この宿のウラガーンで第二の位置にいるコーカラルなど、あれがあと十歳歳を取っていれば、力ずくでも私を抱かせるところだ。と言っているらしい。
そのネーヴァが、フィンのことを、しきりに気にしている。成り行き上、よくフィンと一緒にいるニルなど、何故あのとき、白い街路に降りたのが貴様だったのだ。と半ば本気で詰め寄られたくらいである。
「ああ、悔しい。俺だって、あの柔らかな髪に触れることができたかもしれぬのに、何故、ニルばかりが良い思いをするのだ」
「ちょっと、待て、ネーヴァ。おれは、フィンの髪になど、触れたことはないぞ」
「それは、お前が触れぬだけだ。触れろ。触れて、どんな手触りだったか、俺に教えろ。この果報者め」
ニルは、謂れのないことで襟を掴まれ、眼を白黒させた。それを振りほどいて、
「自分の髪でも触ってろ、女好きめ」
と、そっぽを向いてしまった。二人は、とても仲が良い。ダンタールは、二人の力を最も信頼していたから、大事な任務、特に殺しが関わるときは、必ず二人に組ませた。
龍の、申し子。ニルは、地を這う爪。ネーヴァは、空を
少年達と少女の祈りが、この時点で、何に捧げられていたのかは、分からない。
しかし、彼らが日々行うことの全ては、ほとんど、祈りに似ていた。この後の史記に記されるあらゆる事象は、彼らの祈りがもたらしたものであると言えなくもない。
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