第九章 折れた翼

龍という病

 この地の歴史において最も激しい戦いが、始まった。その悲しみや怒りは雨となり、パトリアエに降り注ぎ、そして、それは血に変わった。

 パトリアエを守護する大精霊の翼のうち、リョートという片方を折られてしまったアトマスは、もう片方の翼である自分自身のみで、それをしようとしている。

 片方だけとなっても、精霊の翼は、強大である。現に、この日、バシュトー軍とその遊撃隊ウラガーンは、ほとんどアトマス一人に止められたようなものである。

 アトマスの驚くべき戦闘の能力は、個人の武だけではないことは既に幾度か触れた。

 彼は、あえて二面作戦を行い、拠点を空にして、ネーヴァ率いるユランの本拠、ノゴーリャの街を潰しにかかった。アトマスと言えば、個人の武にばかり眼がいきがちであるが、本当のところ、作戦立案において、最もその才を強く持つのかもしれぬ。敵兵力、戦力の分析から、必要な兵数を割り出し、最小限の費用と労力で、最大限の効果を求めることが出来た。プラーミャなどが早くに危惧したように、筆者も、リョートを失ったアトマスが、復讐心から無茶な戦をするのではと思ったが、今のところその心配はなさそうである。ハルバシュカを一日で奪還出来なかったのは誤算であったろうが、なにしろ、ニルやダンタールが出てきたのだ。不測の事態である。



 アトマスと彼らが戦った同じ日、河を船で遡り、ノゴーリャを陥落させるべく兵を発した部隊の主将の名は、ラメラ。彼は、夜でも航行可能なほどによく調練された物資輸送の船─すなわち水軍─に運ばれ、昼夜を通して行軍し、アトマスが頭の傷の痛みを感じだしたくらいの時間に、予定通り、ノゴーリャに程近い岸に上陸した。

 ユランには、騎馬隊がある。というより、ユランは、騎馬隊そのものなのだ。夜の影に紛れて本拠に攻め入れば、騎馬隊は意味を成さなくなる。あとは、数と武力の勝負だ。

 その点、ラメラは、アトマスの下で長く戦ってきた歴戦の武人で、歳はもう四十を越えているだろうが、未だ前線の指揮官として戦っているから、有利であろう。

 好きなのだ。自らが、軍人であることが。そういう類の男だった。


「静かだな。このまま、一気に決めるぞ」

 ラメラが、傍らの副官に言った。五千の兵が、静かに散開し、ノゴーリャの周囲にユランによって築かれた石垣の、西と南から攻め入るべく、行動を開始した。

 察知されている気配はない。行ける。西側からの部隊の方が、早く石垣に取りつく。南からの部隊が辿り着いたであろう頃、同時に乱入するのだ。ユランは、潜在的な兵力まで多く見積もっても、五百に満たぬ。十倍の敵を、撃退できる筈がない。

 早く終わらせなければならない。実際のところ、ラメラは、アトマスの方の戦場に立ちたかった。リョートの弔い合戦を、バシュトー相手にしたかった。あの日、行き倒れていたリョートを見つけ、アトマスに伝えたのは、若き日のラメラだったのだ。彼もまた、リョートに、並々ならぬ思い入れがある。リョートが頭角を現し、彼の地位を追い越しても、彼は喜んでその下に付き、リョートをたすけることを受け入れた。

 ラメラは知も無ければ、細かなところに眼も利かぬ。出来るのは、愛するパトリアエのため、強い兵を育てることくらいだった。

 リョートが死ぬことで、その力を発揮する機会が与えられたというのは、皮肉な話である。アトマスに従い、一武将としてバシュトー領内のジャーハディード、ラーハーンの戦場に立つのとは、わけが違う。

 今、与えられた任務は、ユランの撃滅。リョートがしようとしていたことは、当然、自らの弔い合戦などではない。パトリアエに、安寧をもたらすことなのだ。

 だから、今から自分がすることは、リョートのためにすることだ、と思うことが出来た。だから、アトマスの戦場に立ちたいと駄々をこねるようなことは、一切しなかった。


 副官に任せた南の軍が、攻撃を開始した。遠く聞こえる喚声が、それを伝えた。

「かかれ!」

 門扉に、巨大な丸太の先に鉄を嵌め、車輪でもって運動する、攻城用の衝車しょうしゃという兵器をぶつけた。簡易な作りの門だから、二度で破れた。

 中は、何事かと大騒ぎになっていることであろう。あとは、五千の軍で、僅かなを、呑み込んで終わりだ。

 しかし、そう上手くはいかなかった。


 ユランが、居ない。城内には、民が普通に暮らしている。彼らは、夜半、突然の襲撃に驚き、街路に飛び出して来ていた。パトリアエ軍の姿を見、逃げ出す者、再び屋内へ駆け戻る者、様々に混乱をきたしている。

 普通、このようなとき、民は外には出てこない。黙って、パトリアエ軍の進軍を、屋内から見守るものだ。実際、二十数年前、フィンが生まれるきっかけとなったラームサールの盟を結ぶに至ったバシュトーとの戦いでも、多くのパトリアエ人が、攻め込んでくるバシュトー軍をただ見送ったし、今回の戦いの最初に陥落させられた国境地帯の複数の街も、全てがそうであった。

 ラメラは、市街戦ははじめてであったから、そういった聞きかじった事実をもとに、今回も、そうなる。と思っていた。

 しかし、目の前には、逃げ惑い、叫び、慌てる人々がいる。いかに、彼らがノゴーリャに暮らしているとは言え、ユランではない民を傷つけるわけにはゆかぬ。民は、精霊の翼でもって、守られねばならないのだ。

 どうすればよいのか、判断がつかない。このような些細なことに、足元を掬われるとは思ってもみなかった。

 民は、進むパトリアエ軍から遠ざかるようにして逃げていく。

 その混乱の中に、ユランは居るのだ。民に紛れている。民の中で、妙な動きをする者がいないか、眼で探した。

 そのとき。前方から、混乱が伝わって来た。自軍の兵が騒いでいる。

 確かめに人をやろうとする前に、その混乱が、どんどん近付いてくる。

 ユランが来た。そう確信した。

 混乱とは、叫び声であった。

 断末魔の。

 それが起きる場所に、ユランが居た。

 あちこちで。

 先ほどまで降っていた雨は、止んでいる。

 それなのに、水の飛ぶ音。

 血の匂いが、した。


 ちらりと、見えた。

 何人もの、武器を持った男。

 どれもが、異様な身のこなしをしている。

 ラメラは、悟った。

 アトマスは、自分は、見誤ったのだと。

 向かってくる敵は、二百にも満たぬか。

 中軍にいるラメラの前方で、騒ぎが起きている。

 同時に、後方でも叫び声。建物の屋根から、民とおぼしき者が、一斉に、石をくるんだ布や革を振り回し、投石を加えてきている。

 アトマスは、自分は、見誤ったのだ。

 ユランを、探してはならなかった。

 ここに居る者全てが、ユランだったのだ。

 すぐ眼の前。二つの光が、兵の持つ灯火を跳ね返した。

 両手に付けられた、妙な形の刃物。歴戦の強者であるラメラは、それを昔、一度、何かで見たことがあった。

 あの武器の名前は、確か、ジャマダハル。

 金色の髪。事前の調べやプラーミャからの情報で、その容貌や名は、聞き知っている。


 ネーヴァ。かつて、ウラガーンで、龍の翼と呼ばれた男。

 彼には、二本の翼があった。

 地を這うように、駆けてくる。遮ろうとした者が突き出すヴァラシュカの刃をかわし、峰を踏み、あろうことか、柄を駆け上がっている。

 その兵の身体を踏み台にして、龍は飛翔した。


 一瞬、眼が合った。

 着地点に、自分が居るのが、見えた。

 薄い、美しい色の眼。

 その眼と同時に、龍の翼が光った。



 翌日、日が高くなり、再び軍を発するための機を伺っているときに、アトマスはその急報を受けた。さすがに、卓を激しく叩き立ち上がった。あり得ぬことが、起きすぎているのだ。

 こちらの戦場ではウラガーンの戦闘力を読み違え、昨日は戦いの機を逃し、ノゴーリャの戦場では、五千送り込んだ精鋭が壊滅したという。質も量も、十分であったはずである。

 いったい、この国は、腹の中に何を抱え持っていたというのか。

 人の身体に巣食う病に似ていると思った。

 日頃、何食わぬ顔で内側にありながら、その実、あちこちを食い破り、ある日突然牙を剥いて、表に現れるのだ。


 そうなったとき、人は、成す術もなく、死ぬ。ウラガーン。そして、ユラン。そこに居る、風を呼び暴れる、龍ども。

 あり得ぬことが、起きすぎている。

 綻びは、小さなうちに繕わなければならない。

 アトマスの小さな呟きが、陽の光の中に、こぼれた。

 リョート。そう言ったように思える。

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