ラーハーンの退き口
「ラーハーンにおける戦い、双方、大きな犠牲を出し、アトマスまであと僅かというところにまで肉薄しながら、取り逃がしました」
注進の言葉を、フィンはフードの奥で聞いていた。王宮にあてがわれた自室ではない。王のいる広間である。
「パトリアエの軍は」
フィンは、短く尋ねた。
「ジャハディードを再び破り、退きました」
激戦の中をかいくぐり、後退し、軍の形をなお保ち、封鎖したはずのジャハディードを破り、帰国した。やはり、英雄アトマスは、並の者ではないらしい。アトマスがある限り、パトリアエの軍は無敵なのかもしれぬ。
この作戦は、パトリアエをあえて領内に引き込み、そこで一気に撃滅することを趣旨としているから、その意味では、失敗したことになる。しかし、フィンのフードの奥の唇は、なおも笑っている。王すら、戦況の報告に顔を赤らめたり冷や汗をかいたりしていたのに、フィンは、作戦の失敗を知っても、まだ
「どうするのだ」
助けを請うように、王はフィンに言った。フィンは、少し頭を下げて、
「どうも致しませぬ。私の策を、アトマスの武が、破ったまでのこと。その責めを負えと仰るなら、いかようにも」
と言った。王は、慌てて、
「そなたを罰するなど」
と言った。何なのであろう、これは。何故、フィンは、こうも人に求められるのか。容姿ではない。フィンがとても美しい容姿をしていることは誰でも知っていることだが、普段、それはフードの奥に隠されている。見えて、桃色の唇と、細く白い指くらいのものだ。実際、フィンの何が人をそこまで惹きつけるのか、筆者にもまだ分からぬ。
フィンを描くとき、決まって、筆者は匂いのことについて触れてきた。ウラガーン史記にもそうあるのだが、香水や石鹸などもないパトリアエやバシュトーに、ほんとうに、雨に濡れた花のような甘い香りを放つ人間が、いたとは思えぬ。
しかし、それは、史記が偽りを記していることにはならぬ。史記は、あくまで、フィンと関わった者がフィンに対して抱く「印象」を、花を引き合いに出して記録したのだと筆者は考えている。
そういう何かが、フィンにはあった。例えば、声。一つ溢れる度に、あっと手を伸ばし、救い取りたくなるようなとても貴重な宝石が溢れるように、人は思う。
宝石でなかったとしたならば、東の国からもたらされる、濡れた輝きを持つ、器。あるいは、自然の流れにより作り出された、砂の紋様。あるいは、滔々と流れる、河。あるいは、あらゆる方角、あらゆる位置から鳴る、雨。それらに、フィンの声は似ていた。
声とは、人の関わりにおいて、重要なものである。声が好きであれば、人は、人を許せる。それには、規範通りの声ではいけない。おおむね、規範通りに美しく、快くありながら、ときにその線を、際どく侵すような危険を孕んでいた方がよい。
想像ではあるが、フィンの声は、不思議な音階をもっているのではなかろうか。平時なら、だいたい整った発音と抑揚でもって言葉を発していても、感情が声に滲むとき、それが、上がり下がりする幅が、人よりも広いのかもしれぬ。それだけで、人は、フィンの声に、もっとフィンの感情を、自らの働きかけによって、滲ませてみたい欲求に駆られる。何故そう思うのかは、筆者は文化人類学などを究めたわけではないから、知らぬ。
とにかく、フィンとは、当人が意識もせず、何もしなくとも、周囲の者が、彼女のために、何かをしたくなる。そういう女だった。
精霊の卷族として生きてきたことも、このことに関わりがあるのかも知れぬ。物心ついたときから、人に有り難がられることが、彼女の務めであったのだ。
考えれば考えるほど、分からぬ。だから、もっと想像を巡らせ、フィンの姿を、追い求めるのだ。現に、筆者も、こうしてすっかりフィンの虜になってしまっているではないか。恐らく、彼女の死語はるかな後代になってからウラガーン史記を紐解いてきた他の研究者や劇作家なども、はじまりは、フィンへの興味から、この世界に引きずり込まれたという者が多いに違いない。
そのフィンが立ち上がり、王の前の卓に広げられた地図に、眼を落とす。
その地図の中に、少し前の時点の、アトマスがいる。彼の、撤退と離脱のことを、フィンは想像していた。
彼は、強力な弓矢と自らの武でもって空けた穴を、押し広げた。円陣の、他の箇所が崩れようが、構わない。とにかく盾で守らせ、矢で射る。散開し、突撃して来る者は、重装歩兵のヴァラシュカにかけた。味方の損耗は、激しい。しかし、同じ数を減らし続ければ、先に尽きるのは、相手だ。少しでも、相手を減らすことを加速し、味方が減るのを緩めることだ。
乱戦になると、弓は使えぬ。決して、隊列を崩してはならぬ。だが、惰弱な地方軍の一部が、指揮官を討たれたり突き崩されたりして、混乱している。結局、国を思わず、己のことだけを考え生きてきた者は、こういう大事なときに、国の足を引っ張るのだ。
先の王も、そうであった。と考えかけて、やめた。今は、ここを切り抜け、撤退することである。前進あるのみ、と言っても、全滅しては意味がない。パトリアエを守る者が、いなくなれば、パトリアエそのものが、無くなってしまう。最強の盾が打ち砕かれれば、あの
戦場で華々しく散ることに、何の意味もない。死は、等しく無価値だ。死して語り継がれるより、生き切り、己の責務を全うする方が、よほど大切である。そう思った。
混乱する戦場の中、自らの馬を見つけると、それに飛び乗った。リョートも、同じようにした。いきなり、疾駆。
北へ。退路を、確保しなければならない。しかし、円陣を囲む敵は、北側において最も厚い。すべてを見透かされているような、今、この瞬間の思考を読み取られているような、あるいは、その者の思う通りの行動をさせられているような感覚に陥った。
しかし、こればかりは、予測できまい、と思い直し、巨大なヴァラシュカを握り締めた。
奥歯が、鳴る。
聡い馬が、察して、頭を少し下げる。
強烈な、風の唸り。
敵を、粉砕する。
ふと、空が、夕の色を帯びていることに気付いた。もう、長い時間戦っているのだ。
自分を、止めようとする者。
自分から、逃げようとする者。
全て、薙ぎ倒す。
我は、
声に出して、叫んでいた。
それで逃げ散る者もいれば、立ち向かってくる者もいる。
立ち向かってくる者の眼には、必ず何かが宿っていた。それが何なのか、察しようとした。
希望。あるいは、憧れ。あるいは、慈しみ。あるいは、親愛。あるいは、忠節。あるいは、誇り。
名のない光を二つの瞳に宿しながら、敵は自らに湾曲した
その光を、眩しいと感じた。
ふと、脇を見る。リョートが、戦っている。全身に傷を受けているようだが、深くはない。しっかりと手当てをすれば、問題ないはずだ。
その背後には、歩兵が、全力で駆けてきている。
自分が、味方の血路を拓いていることに、そのとき気付いた。
また、敵。
右腕が、軋む。
体が、快い悲鳴を上げる。
右脇の敵を粉砕し、更にヴァラシュカを振り上げ、左へ振り下ろす。馬は、腿で挟んでいる。
どこまで行っても、敵。
しかし、この戦場を、遥か上から見下ろしている者には、分かるまい。
このヴァラシュカの重さが。
この
戦いを語るとは、戦うこと。後退と言っても、進む方向は、前。ただ、パトリアエへ。守るために。退くのではない。進むのだ。
抜けた。視界が、開ける。敵は、騎馬である。敵にもかなりの損害を与えはしたが、なお追い縋り、こちらを乱し、崩そうとしてくるに違いない。それに備え、少し間隔を空け、二十人毎に組を分け、それぞれが隣接しながら、小さくまとまり、駆けさせた。これならば、その間隙を縫ってくる騎馬がいたとしても、袋叩きに出来る。外側からの攻撃は、流せばよい。退くときも、進むときも、敵を討てる格好でいなければならない。それが、パトリアエの軍。
しかし、敵は、追ってはこなかった。そのまま、丸一日半駆け通し、ジャハディードへ。丸二日眠らぬ状態で戦い、駆け通し、ジャハディードを再び抜く。それを、する。
ジャハディードの砦の中から、煙が上がっている。どうやら、火攻めにあったようだ。涌いたように現れた七百ほどの敵の前に、抑えとして残した五百の味方は、全滅させられたらしい。
バシュトー側の南門は、幸いにも破壊されている。そこから、一気になだれ込んだ。ジャハディードを攻めるときに組み立てた投石器が解体され、部品ごとに置かれている。その一部も、燃えて炭になっていた。
敵が、少ない。七百も、いない。せいぜい、三百か。城壁から射かけてくる矢に対し、盾で防ぎ、強力な弓で応射すると、敵は損害を嫌ってか、散った。
疲労は、極みに達している。ここで敵に徹底抗戦されたり、伏兵がいたりすれば、終わりであった。しかし、それはない。ここまで自分を追い詰めておきながら、何故、という思いはある。まるで、見逃してくれたような形ではないか。自分がもしバシュトー側の作戦立案者ならば、ここで敵を撃滅し、一人たりともパトリアエの土を踏ませぬところだ、とアトマスは思った。
しかし、攻撃がないなら、それは幸いである。パトリアエ軍は、撤退した。
史記では、この撤退を、見事な撤退で、英雄アトマスの武を示すエピソードとなっており、口伝や、街の芸人による講談話などでも、人気のあるものであるが、実際は、どうか。
国境をまたいでから損害を調べると、はじめ一万いたものが、六千にまで減っていた。殆どが、地方軍の損害であった。しかし、バシュトー側の損害も、相当な数になっているはずである。下手をすれば、完全に復活するのに、お互い数年の時を要するほどの損害である。
今回の戦いでは、戦って、互いに何も得られず、何も残らなかった。不思議と、虚しさは、ない。あるのは、再起への計画。兵を補充し、地方軍の新陳代謝を図る。国民には負担を強いることになるが、国家のための痛みならば、受け入れられるべきである。
アトマスは、そのことについてリョートと、細かな打ち合わせをしながら、帰国した。
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