聖女と、翼
ニルとの訣別のあと、ネーヴァはユランを率い、アーニマ河のほとりのノゴーリャに戻った。そこから、パトリアエとバシュトーの戦いを、睨むようにして見ている。
「ネーヴァ」
マオの亡い今、唯一の副官となったアイラトが、ネーヴァに食事を運んできた。そうしなければ、ネーヴァは食事をすることも忘れ、何か地図を眺めたり、書き付けをしたりすることに没頭してしまうのだ。
このときも、アイラトは、ネーヴァらしい細かい字でびっしりと何かが書き込まれた地図をちらりと見ている。
小さな組織でも、彼の下には部下がいる。一見、変わらぬ様子で過ごしていて、いや、むしろマオを失う前に二人で分担していた様々な業務を一手に担い、より頼もしく兵からは見られていたが、夜毎、彼がマオを想い涙を流しているのを、ネーヴァは知っていた。だから、今から彼が言うことも、彼のどの部分から出る言葉なのか理解することが出来た。
「いつ、決行するの」
穏やかな口調だが、アイラトは、焦っているらしい。マオの敵を討ちたいのだ。
アトマスは、志のもと創られる美しきパトリアエの、守護神たらんとしている。フィンは、乱れと破壊により、既製の秩序を取り払い、この地上で初めてとも言える、誰にも侵すことの出来ぬ、高潔な国を創ろうとしている。
そして、ネーヴァらユランは、虐げられし者、その雨の一粒の声を、轟かさんとしているのだ。その声が国全体に伝播し、大きなうねりとなり、それこそが、自分達のような境遇の子供を作らぬ唯一の方法であるというのが、彼らの説くところである。
異なるようで、似ている。その辿る道を、
くどいようだが、このウラガーン史記とは、パトリアエやバシュトーの歴史を追いながら、彼らが何者であるのかを暴くことにより、歴史、すなわち人の知と、無知を結晶化させるものらしい。
筆者が、目録の名の通り、その行為にとって重要な頁のみを抜き書くようにしてこれを編んでいるのも、おそらく、かつて触れた通り、フィンという存在が、歴史における特異点として、異様な魅力と輝きを放っているからに他ならない。
彼女は、あまりにも多くのものを吸引する。ニルやウラガーンも、バシュトーも、敵であるはずのプラーミャやリョート、アトマスでさえも、ある意味、彼女という巨大な惑星の公転による重力に惹かれ、敵対という形を取っているようには思えぬか。彼らという大小の彗星は、歴史という空間を飛行するうち、フィンの存在のために、大きくその軌道を曲げているように見える。
だが、その重力が強力であればあるほど、それを利用したスウィング・バイの加速も、大きくなる。
それが、フィンと、他の登場人物として史記に名を刻まれる者達との、明らかな違い。
そのことを、書く。
「やっぱり、気になるんだね」
と、アイラトがネーヴァに言った。
「なにが」
ネーヴァは、石造りの館の窓から、外を見ている。窓と言っても、近世のようにガラスをはめ込んだものではない。石壁に穴が開けられていて、それを木の板で塞いだり開けたりする窓である。
その窓が開いているのは、雨が降っていないからである。
「このところ、雨が少ないな」
曇天を見上げ、ネーヴァは呟いた。
「そうだね、ネーヴァ」
そのまま、ネーヴァは、沈黙に入った。
「アイラト」
「なに、ネーヴァ」
「お前、マオの仇を、討ちたいか」
アイラトは、少し、考えているようであった。
「わからない」
と、彼は言う。
「それが、いいことなのか、悪いことなのか、俺には分からないんだ」
困ったように笑って、椅子に腰かけた。その代わりに、ネーヴァが立ち上がった。
「どこへ?」
「すぐに戻る。数日の間、留守を頼む」
アイラトは、こういうとき、何も聞かない。
「わかった」
と、ただ微笑むだけだ。
ネーヴァは、たった一人、西へ向け、馬で駆けた。このまま行けば、明日の夜には着く。道中、何を考えていたかは、記録されていないため、筆者の想像の域を出ない。筆者が思うに、彼は、理由を考えていたのではないだろうか。
今から、自分がすることの、理由を。
なぜ、自分が、今、そこに向かっているのかを。きっと、彼は、確かめにゆくのだ。
思った通りの刻限に、ネーヴァは、馬を降りた。降りて、夜営地として築かれた陣地の柵に繋いだ。当たり前のような顔をして、兵の間をすり抜け、歩いてゆく。誰も、ネーヴァの姿を見咎める者はない。気配があるようで無い、そういう風に操作し、周囲に溶け込むのは、得意である。
ひときわ大きな
彼は、ネーヴァの接近を、息のかかるほど近くになるまで知らなかったらしく、背後にネーヴァを感じると、咄嗟に大きく跳び、距離を取って、
「お前、ユランの」
少し、アクセントの位置が妙だが、綺麗なパトリアエ語だった。
「大した陣ではないか。さすが、パトリアエ相手に
「なにを、しに来た」
「ニルは、不在か」
「ニルは、戦いに出ている」
「そうか」
かつて、兄弟のように育った同志ニルと刃を交え、はっきりと、ユランの独歩と敵対を宣言したネーヴァが、今、眼の前で、武器も抜かず、堂々と、背もたれのない軍陣用の粗末な椅子に腰かけているのだ。シャムシールは、殺すべきかどうか、迷った。いや、殺そうと思った。しかし、気を放つと、ネーヴァはそれを機敏に察して、微笑を向けてくるのだ。うかつに打ちかかれば、返り討ちに合う。シャムシールは、本能で、そうなった場合、確実に負けることを悟った。
「ニルとの、決着を、つけに来たのか」
言って、シャムシールは、自分の歯の根が合わないことに気付いた。それを、ネーヴァは、そっと笑った。
「恐れるか。俺を」
脚を組み直して、そう言った。威圧する響きはない。ただ、感じたことを、口にした。そんなふうに。
シャムシールは、答えない。
「べつに、ニルを殺しにきたわけではない。話を、したくなったのだ」
「ニルは、いないと言った」
「いいや、ニルと話すのではない。俺の話す相手の側に、あの狂犬がいれば、うるさいと思っただけだ」
シャムシールは、ちょっと怪訝な顔をした。では、ネーヴァは、誰と話すつもりだというのか。
「フィンを、呼べ。ここに、居るはずだ」
「それは、出来ない」
「心配なら、お前の剣を、俺の喉に当てたまま、話してもいい」
「それでも、お前を、信用出来ない」
「そうまでして、守るか。あの女を。あの女は、何なのだ」
「
「お前たちの生を、そのまま、あの女に、投げつけるのか」
ネーヴァは、皮肉を言ったつもりであった。目の前のバシュトー人は、よほどフィンに心酔しているのか、それともパトリアエ語での皮肉の響きが伝わらぬのか、
「そうだ」
と断言した。
「俺たちは、
「馬鹿な。あの女は、ただ争いを、乱れを、血を、そして死を呼ぶだけではないか。俺の仲間も、あの女のせいで、死んだのだ」
「お前の痛みは、分かる。俺も、弟や一族が、
「では、何故、お前は、あの女を、憎まぬのだ」
言われて、シャムシールは、口を覆う布を、外した。ネーヴァは、彼の口許が、意外に若いことに気付いた。
「死んだ弟や、一族の者のうちの誰一人として、彼女を恨んでなどいないからだ。俺の無念は、俺一人のものとして、俺は、進むのだ」
ネーヴァは、驚いた。表情には出さぬが。
これが、フィンを知る者か。
ニルといい、このバシュトーの指揮官といい、フィンを知る者は、ことごとく、こうなのか。
ネーヴァの知っているニルとは、もっと空っぽで、もっと無機質であった。人の優しさなどを多く持ち合わせているのは幼い頃から知っていたが、ニルという男自体は、空っぽだったのだ。喜びにも、悲しみにも、怒りにも、怖れにも、疎い男だった。
それが、久しぶりに見てみれば、ニルという器の中には、溢れそうなほどに、意思と、志と、喜びと、希望が注ぎ込まれていた。ニル自身が、注ぎ込まれていたのだ。
同じものが、目の前のバシュトー人の中にもあるのを、ネーヴァは感じた。
それは、フィンが与えたものではないのだろう。きっと、彼らが、フィンに触れたことが、自らの内にある希望を拾い上げ、名前を付けて磨き上げるためのきっかけになっただけのことなのだろう。
ネーヴァは、聡い。ウラガーンの中でも随一の切れ者で、合理的思考と冷静な判断力をもって、いつも物事にあたってきた。
だから、彼は、知ることが出来たのだ。フィンという者が、何者であるのかを。
ネーヴァは、まだその死すらも知らぬが、ダンタールが最後に言ったこと。
フィンを知る者を知れば、フィンが分かる。
「シャムシール、どうしたの」
ネーヴァの耳を、その音がくすぐった。ネーヴァは、弾かれたようにそちらを見た。
ネーヴァの背後、篝の向こう。
「
鋭く、シャムシールは言った。ネーヴァが、椅子から跳び上がり、フィンの前に、立った。龍の翼と呼ばれた彼が起こした風は案外優しく、フィンの柔らかな髪を、僅かに揺らしただけであった。
「
シャムシールが、篝を回り込んでくる。
「大丈夫よ、シャムシール。この人は、わたしを、知っている人」
フィンの唇が、名を呼んだ。
「そうでしょう、ネーヴァ」
ネーヴァは、昔のように、少し皮肉に唇の端を上げた。
「ああ、フィン」
「どうしたの。一人で、こんなところに」
「なに、見物さ」
と
「この辺り一帯の要塞への、同時攻撃か」
「そう。ユランも加わる?」
フィンが、冗談を言ったのが、分かった。
「いいや、加わらぬ」
と、ネーヴァは、微笑んで返した。
「そう。わたしに、会いに来たのね」
「分かるのか」
「あなたが、死ぬ前に」
ネーヴァは、思わずフィンの琥珀のような眼を覗き込んだ。眼を真ん丸にして、驚いている自分がいた。
「なぜ、そう思う」
「あなたを見たから」
「お前の言うことが、分からない」
「でも、あなたは、あなたの考えることが、分かっているわ」
「それは、そうだ」
「ならば、あなたが思うように、するといいわ」
「フィン」
フィンの眼が、ネーヴァの言葉を乞うように丸くなって、ネーヴァは、戸惑った。
「もう、行く」
「そう。もう、行くのね」
「ああ。よく考えれば、お前と話すことなど、何一つとして、無かった」
ネーヴァは、力なく、苦笑した。
「あの馬鹿にも、よろしく言っておいてくれ。ダンタールにも、リュークにも、ストリェラにも」
「わかった」
ネーヴァは、立ち去ろうとした。その背に、フィンの言葉が、被さった。
「ネーヴァ」
ネーヴァの背が、止まった。
「ダンタールが、死んだわ」
それを聞いたネーヴァの背は、陽炎に、激しく揺れた。
「なんだと」
「わたしを殺しに来た、プラーミャと刺し違えて」
振り向いたネーヴァの瞳には、コーカラルを失ったことを知ったときのような、怒りも、憎しみも無かった。ただ、悲しみだけがあった。それが、フィンの瞳の中、揺れているのを、彼は見た。
「それが、ダンタールにとって、意味のあることだったんだろう」
そう言って、ちらりとシャムシールを見た。シャムシールが、頷いた。
「じゃあな、フィン。俺は、俺の進むべき道へ、戻る」
「ええ、ネーヴァ」
これが、
それを示す根拠など、どこにもないが、きっと、ネーヴァは、ずっと、フィンのことを、想っていたのかもしれない。
彼が、アイラトと話していた作戦は、成功する見込みのないものであった。パトリアエとバシュトーの激しい決戦が起こったら、ユランは、その数の少なく目立たぬことを活かし、パトリアエの眼をかいくぐり、グロードゥカに入り、アトマスの首を取る。その作戦に、そのまま刃を返し、フィンの首をも跳ねるところまで含まれていたのかどうかは、分からない。
ネーヴァは、自らバシュトーの本拠を探ることで、その時を計りに来た。それが、彼が、自らに言い聞かせた、理由であったのだろう。
しかし、ネーヴァが、その作戦を実行することは、無かった。
「グロードゥカの守備隊、急遽、打って出て、進軍中。その数、一万」
予想を裏切る行動である。首都の守備兵を全て、夜の影に紛れこちらに向けたという。それが事実なら、明日の朝には、ここに到着するということだ。
その中に、アトマスが、含まれているか、どうか。いや、恐らく、いる。フィンは、そう思った。多方面同時攻撃の作戦を余儀なくさせて、アトマスは、この本営に向け、兵を発する。ウラガーンも、バシュトー兵も、ほとんどが他の戦線に釘付けになっていて、こちらには対応出来ない。本営を守るのは、僅かに、三千。
フィンが、はじめて、後手に回ったように見える。
今、アトマスもまた、フィンの強力な重力の周回軌道に入った。
彼女を基点にして、大きく加速し、飛ぶのか。
フィンは、特に慌てた様子もなく、立ち去ろうとしてもなかなかそう出来ずにいるネーヴァに、こう言ったという。
「ネーヴァ。そういうことになったわ」
それを受けたネーヴァは、こう答えた。
「ならば、俺は、今しばらく、ここに留まることになるらしいな」
筆者は、そのあとに、こう付け加える。
「あの、お前の狂犬が戻るその時まで、な」
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