塗り重ねた色

 奪われてはならぬものを、奪われたとき。その多くの場合において、それを、取り返すことは出来ぬ。

 アトマスも、その思いは、同じ。

 しかし、奪われたのが戦略上の要所ならば、その奪回は可能である。

 あの初夏の夜、リョートを殺したのは、間違いなくバシュトーだった。そして、それが出来るのは、ウラガーンだけ。そう、プラーミャがアトマスに言った。クディスに送り込んだまま、行方の分からぬウラガーンが、四人いるという。それは、クディスに吸収され、そのままバシュトーと行動していると見ていい。

 だから、リョートが死した後すぐに彼らは戦備を整え、パトリアエに向け軍を発して来れたのだ。リョートが死ぬことを予め知っていなければ、これほど早く侵攻してくることは出来まい。夏の間に、国境地帯の範図は一挙に塗り替えられた。しかし、アトマスは、三月みつきほどの間、局地戦に振り回されず、程よい応対しかしなかった。

 彼の眼は、先を見る。バシュトーが、パトリアエになだれ込んで来たとき、その性質─依るべき所を持たぬ流浪の兵であるということ─を見抜き、あえて捨て置き、彼らを勢いづかせたのだ。

 彼らは、必ず、求める。依るべき場所を。そこで、南部一帯に広がっている戦線を収束させ、必ず、一つにまとまる。

 それを、叩くのだ。そこは、かならず、ハルバシュカであるはずであった。東西南北に街道の伸びるあの重要な城塞都市を、彼らが見逃すはずがない。


 敵の戦が上手ければ上手いほど、アトマスには、その行動が読みやすいのだ。その証拠に、アトマスは、ハルバシュカの戦いが始まる前に、既に、プラーミャに雨の軍の出動を命じていた。ウラガーンが居るならば、ハルバシュカの戦いの後、必ず、ウラガーンは、その特性を活かし、神出鬼没の遊撃隊の役割を担う。

 バシュトーは、もともと騎馬が得意だ。その機動性に、ウラガーンの人知を越えた武と、その身を隠す技が加われば、大変なことになる。それを、必ずしてくる。プラーミャに出動を命じたのは、その動きを封殺するためである。

 その他、中央正規軍、地方軍合わせて、三万。全力を出せば、まだ更に三万、いや四万は動員できる。リョートの遺したものは、それほど大きかった。

 戦闘の準備が容易であればあるほど、アトマスは、そこにリョートの息吹を感じて、切ない気持ちになった。

 そして、それは、アトマスの怒りに、硬化することを許さないものであった。いつまでも、粘着質な可燃性の液体が、胃から溢れ出てくるような、そんな気持ちであったろう。

 それで、戦闘に対する眼が曇るほど、アトマスは愚かではない。老いたりとは言え、今この国で、最高の知と武を持つ男なのだ。

 まず、アトマスは、三万の軍を整然と並べ、前線拠点を、ハルバシュカから北に少し離れた、ドゥニーミャという街に定めた。

 ドゥニーミャは、南のハルバシュカに籠るバシュトーとの戦いの拠点に最適である位置である上に、アーニマ河の支流が大きく南行しているのに接している。

 その上流には、ユランの本拠、ノゴーリャ。ユランは、数こそ少ないが、その本体はそのまま、ウラガーンとリベリオンである。それは、看過出来ない勢力であり、なおかつ、彼らはパトリアエに抵抗することを明らかにしている。騎馬隊もある。と言うより、ノゴーリャに居て、武器を持っている者は全て、馬に乗っている。危険な存在である。

 ここに来て、あちこちのウラガーンが、いきなり光の下に出てきたことを、アトマスは感じた。彼の眼は、いつも、本質を見ている。

 その眼で見て定めた戦場は、ハルバシュカの北の原野。そのために、バシュトーを、ハルバシュカからひきずり出す必要があった。

 元より、バシュトーは、攻め込んで来ているのだ。ハルバシュカを奪うのは、その通過点。目指すは、首都グロードゥカでしかない。だから、立て籠る理由が極めて薄い。引きずり出すのは、難しくはない。


 

 プラーミャは、その原野を進んでいる。二百ほどの雨の軍を、引き連れて。

 雨の軍は、優秀である。原野においても、身を低くし、あるいは這い、その存在を探知されることなくハルバシュカに近付くことが出来たし、哨戒をしている小隊くらいなら、集団で狩りをする小型の肉食獣のように、死角から襲いかかり、音もなく葬ることが出来た。プラーミャの意思をよく汲み、滅多なことでは口を開かない。

 それを率い、プラーミャは、とうとうハルバシュカの城壁の前に立った。

 彼らが行ったのは、火計による撹乱である。まず、五十ほどの雨の軍が、人の身長の三倍ほどの高さに石が積み上げられた城壁に取りつき、あちこちから上った。

 そこから、バシュトーが兵糧を備蓄している倉庫を探り当て、火を付けたのだ。

 侵攻軍であるバシュトーは、兵糧を焼かれては、ここを拠点とし、あちこちに手を伸ばすのが不可能になる。

 それでいて、全て焼き付くされたわけではない。これからの戦いが苦しくはなるが、何もかも失ったわけではない程度のものは、残された。

 そこが、アトマスの戦略、作戦の巧妙なところであり、その一端を局地にて行う、プラーミャの現場指揮の能力の高さである。


 火が、まだ燃えているくらいの頃、残りの百五十の雨の軍が、街の外で、気配を発した。バシュトーは、火付けを行った者が外にいる、として、一斉に出てきた。

 その数、三千。敵の数を、多く見積もった。雨の軍が、そうさせたのだ。バシュトーが街の眼前に気を取られているまさにその頃、二万五千のパトリアエ軍が、ハルバシュカの北のドゥニーミャを発した。その中に、アトマス自身も居る。ドゥニーミャは、実際には本陣ではない。

 あくまで、敵の眼を、そこに引き付けるための、目印。残りの五千は、当然、その守備にあたると思われた。

 しかし、あろうことか、その五千は、ソーリ海から船を遡らせ、支流を下らせた船に搭載され、また支流を遡らせ、更に上流へと進んだのだ。

 アトマスは、一度の戦いで、二面の敵を、同時に撃破するつもりである。

 兵力配置、分配も、実に巧妙である。主力は、無論、バシュトーの方へ向けながら、北へ向かった五千は、パトリアエの武将の中でも特に武勇に秀でた、豪勇で知られる者が率いる精鋭である。ユランの数が例え五百になっても、万に一つも負けることはない。

 ここで、終わらせる。アトマスとて、自らの怒りの炎で、この愛すべきパトリアエの国土を焼くのは、本意ではない。

 焼くのは、敵であるべきだ。

 それも、一度で。

 焼き尽くす。



 バシュトーが、敵の出現に触れ、街の北方に展開しても、そこにパトリアエ軍は居ないのだ。居ないが、居る。それを、三千のバシュトー人が、肌で感じている。

 珍しく、晴れた日である。

 敵の出現に応じ、出張って来たつもりが、ただ馬の影が、伸びているだけ。異様な事態に、彼らは戸惑った。

 この、敵しか持ちえぬ、特有の強い気。その正体を、バシュトー軍は探った。

 まさか、と誰もが思った。何百、何千もの敵が、ひしめき合うのに等しい気を、原野に一人佇む男が、放っているはずはない。

 しかし、そこには、その男しか居ないのだ。そして、それは、確信へと変わる。

 その男は、白髪の頭の向こう、背に腕を回した。それに握るのは、剣の柄。

 信じられぬほどの長さ、そして刃幅の剣。男がそれを握ったとき、バシュトーの者が未だかつて、誰も感じたことがない、気が満ちた。

 三千の指揮官が、その一人の男に向かって、二十ほどの隊を一つ、繰り出した。しかし、馬が恐れて、走らない。

 それでも、無理矢理、馬を叱咤し、駆けさせた。勢いのついた二十頭の馬は、男めがけて、流星のように、突っ込んでいく。

 指揮官は、馬の影に、男の姿が隠れるのを、見た。

 刹那。

 五頭ほどの馬が、飛んだ。

 兵も。

 まさしく、竜巻タルナーダ

 馬が、ひとりでに、男を避け、割れた。

 割れたところから、男の姿が、再び見えた。

 深く踏み込み、膝を曲げ、剣を振り切った男。

 あの剣を、こんな速さで、振る者が居るとは。それを疑っても、仕方がない。

 バシュトーの指揮官は、恐れた。百騎の騎馬を、繰り出した。男の後方へ通り過ぎた十五騎も、反転してくる。

 合わせて、百五十の騎馬に、男は飲み込まれた。しかし、やはりその瞬間、また、竜巻が現れた。

 前も、後ろも、右も、左も。

 僅か、一振り。

 それに巻き込まれた騎馬は、飛び、倒れた馬に、また後ろに続く馬が転ぶ。また、馬が男を避け、割れた。

 男が、はじめて、声を発する。

「獣は、獣」

 静かな、声であった。しかし、背骨を引き抜かれるような、得体の知れぬ恐怖がこみ上げてくる。

 バシュトーの指揮官とて、馬鹿ではない。

 数で、この男を押し潰すのは、無理だと悟った。犠牲を多くするよりは、一旦、退く。

 馬を返し、街の中へ。


 そのとき。後方の、街への門が、閉ざされた。そして、中から、新たな火。バシュトー軍は、混乱した。後方のハルバシュカから、新たな火の手が上がっているのである。

 とにかく、戻らなければならない。そう指揮官が判断したとき、更なる異変が起きた。

 地平に、土煙。最初、一条のみであったそれは、近づくにつれ、輝きを放つようになった。そして、どんどん大きくなってくる。

 輝いているのは、白銀の鎧。

 二万五千の、パトリアエ軍。それが、来た。慌てて、街の中に戻ろうとする。しかし、それは叶わない。街の中は、どういうわけか大変な混乱となっているらしく、バシュトー軍が、逆に、次々と門から吐き出されてくるのだ。


 もう、パトリアエ軍の、その鎧の擦れる金鳴かななりはもちろん、足音まで、聴こえる。

 バシュトー人は、はじめて知った。地平を埋めるほどに人が集まれば、その足音で、大地が揺れることを。

 その光景に圧倒されそうになる自分達を必死で鼓舞し、城内から吐き出されてくる味方を収容し、陣を展開する。鳳凰の陣と彼らが呼ぶ、鳥が翼を広げたような陣である。迎撃するつもりらしい。

 総指揮官であるシャムシールも、本隊を引き連れ、出てきた。もともと原野に展開した三千の軍の指揮官は、安堵した。


「スーラン」

 と、シャムシールは三千の軍の指揮官の名を、読んだ。

「シャムシール。あり得ません。一人の男が、百を越える我らが騎馬を、退けました。竜巻のように、剣を振って」

「それは、たぶん、プラーミャだ」

「まさか、あの、聖女フィンとかつて共にあったという」

「そうだ。今は変遷し、彼は─」

 スーランが遭遇したという、プラーミャの姿を、シャムシールは探したが、原野には、それを埋め尽くさんと迫ってくる敵の輝きが明滅しているだけだった。

「─パトリアエ《敵》なのだ」

 スーランは、よほど張り詰めた精神状態であったのか、ほとんど泣きそうになりながら、シャムシールに報告を続けた。シャムシールは、穏やかに、それを聴いてやった。

「わかった。よく戦った。しかし、ここからだ」

「城の中で、何が」

「それが、分からん。兵糧庫の幾つかから、火が出た。それを消し止めようとする者が、次々と死んだのだ。結局、兵糧は、三分の一ほどしか焼けなかったが。そして、城内に、敵、という声。しかし、城内に、敵など居ない。だが、あちこちで、何人かの部隊長が突然血を吹き出し、死んだ。皆、怯え、乱れた。そして、開け放っていたはずの門も、閉じられた」

 一種の、閉鎖空間におけるパニック状態に、集団的に陥ったということであろう。

「誰かが、再び門を開き、勝手に飛び出した。そうすると、もう収集がつかない」

「前方の、あの軍」

「恐らく、全て、彼らの仕組んだこと。スーラン。俺たちの敵は、恐ろしいぞ。俺は、混乱の中、あれの接近を聞き、急いで本隊を引き連れ、こうして出てきた」

 胡桃でも割るような異様な音が、晴れた陽の光の中に響いた。シャムシールは、四年前の、パトリアエとの大戦を知っている。国境の要塞ジャーハディードを守る一族として、ジャーハディードの戦いにも、ラーハーンの戦いにも、出た。当時まだ若く、主は父であったが、ラーハーンの戦いにおいて、アトマス軍に討たれ、父は死に、シャムシールが一族の長となったのだ。

 そのときの記憶を、呼び覚ます、音。

「矢だ!」

 シャムシールが、叫ぶ。即座に、バシュトー騎馬隊が、回避運動を行っている。まだ、城内に残り、まごついている者もあるらしいが、それに構ってはいられない。

 シャムシールは、回避運動を行いながら、原野に展開する自軍の総数を、数えた。

 ざっと、二万余り。

 晴れた天から、雨は降らぬ。その代わり、矢が、降ってきた。四年前の戦でパトリアエが見せた、強力な弓。どうやら、異なる素材の板を張り合わせているらしい。弓の弦は、動物の腱をり合わせて作っているのか。

 その矢の威力は、恐ろしい。射程も長い。回避運動に遅れた者が、次々と、斜め上から降ってくる矢に襲われ、一撃で絶命している。それが、数度続いた。

 斜め上に、誰もが気を取られた。真正面から、本当の恐怖が迫っていることに、気付かない。

 シャムシールと、側にいるスーランが気付いたときは、が、発した後だった。

 夜、雲の切れ間から輝く、天空の星。パトリアエで、狼の星、と呼んでいる星に似た、強烈な白銀の輝き。

 パトリアエには珍しい、騎馬兵である。速い。

 白銀の輝きは、馬を駈る者の軍装。そして、馬自体の、毛の輝き。

 アトマスだ。シャムシールは、かつて見たことのある風景を、今、もう一度、目の前に見ていた。


 速い。近付いてくるのが、速すぎる。白い星が、墜ちてくるようだ。

 あんなに速く大きな馬は、やはり、バシュトーでも見たことがない。

 咆哮。アトマスの。いや、パトリアエ自体の、怒りの声か。

 天地を震わせるそれを、何故か、シャムシールは神々しいもののように感じた。

「弓。あれが、アトマスだ。射殺せ」

 散開した騎馬が、駆けながら射撃した。

 一本も、その白銀の鎧に傷を付けることが出来ない。

 アトマスの右手が、低くなる。

 ヴァラシュカ。

 手の甲まで覆われた鎧を身に着けているから、あたかも、右腕からそれが生えているように見える。

 彼らの信仰する、大精霊の翼。その片方。

 リョートと言う名のもう片方は、ウラガーンが、もぎ取った。

 もぎ取ったから、怒りの声を上げているのか。

 いや、これは、痛む声。

 流星が、すぐ近くを通り過ぎた。

 さっきまでそこに居て、自分の隊の指揮をしていたはずのスーランが、消えていた。

 眼で探すと、少し向こうに、が、無惨な形で散らかっている。


 シャムシールは、恐怖した。絶対の、恐怖である。

 しかし、彼は、待っていた。

 その流星を、地上に叩き落とすのを。

 それが出来る者は、限られている。


 そろそろだ。


 シャムシールが待つがやって来る前に、機動力を活かして距離を詰め、矢を封じるため、二万余りのバシュトー軍が、突撃をした。

 二万対二万五千の、乱戦。原野が、瞬く間に、血に染まってゆく。

 痛みの色。悲しみの色。怒りの色。それを、全て、塗り重ねることで、はじめて生まれる、血の色。

 バシュトーのそれも、パトリアエのそれも、同じ色をしている。

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