そして、年が明けて、王国歴三百二十五年。このところ、雨の軍に損害が出ている。おそらく、ウラガーンやリベリオンなどとの、暗闘が始まったのだ。

 手を伸ばせば、逃げてゆく。掴めると思ったら、罠であったりする。雨の軍が翻弄されているということは、どうも、彼らの方が一枚上手らしい。実際、パトリアエ内外における諜報活動などをしてきた雨の軍の歴史は古く、もう百年以上、この地の影の中に、雨の中に生きてきた。しかし、ウラガーンやリベリオンは、それよりももっと前から存在した雨の一粒ずつに宿った、怒りと、悲しみと、恨みが結晶化したものなのである。形を持ったのが、この二、三十年のことであったとしても、ぶつかれば、歴史が古いだけの諜報機関に勝るに決まっている。


 リョートは、やや焦っている。雨の軍から上がる報告なども、今は全て一旦リョートのところに来るようになっている。

 先日、酒場を兼ねた宿を根城にしているウラガーンの巣窟を、一つ潰した。街に放っている雨の軍の者が二人、アーニマ河に浮かんでいた。辿っていくと、どうも、その酒場を兼ねた宿に、立ち寄ったらしい。

 人を放ち、嗅ぎ回ると、いつも、それとなく、連絡が来なくなる。死体も出ない。証はない。だから、表だって動けない。しかし、これは、間違いないとリョートは確信した。表だって動けないならば、影の中で、動けばよい。

 まず、宿から人を遠ざけた。部屋を、雨の軍の者で埋め尽くしたのだ。酒場の方は、常連客がいるから、どうしようもない。だから、夜、鐘が鳴った後、決行した。

 雨の軍が、音もなく宿の中を駆け、宿の者を襲ったのだ。

 果たして、当たりであった。宿の者は、異様なほどにまでに強かった。六十人入れた雨の軍が、戻ったときには十人ほどになっていた。宿にいた者は、二十にも満たない。尋問のため、全て捕らえることが理想であったが、余りの抵抗の激しさと、手加減の出来ぬ戦闘力の高さに、数人をやむを得ず殺害した。彼らは、非常時のことを予め示し合わせてあったのか、その後、瞬く間に散り、消えた。他の者が逃げるのを助けていたのか、最後まで戦っていた女を一人、捕らえた。


 

 その様子を、見に行くのだ。供を一人だけ連れて、リョートは、そこに向かった。グロードゥカの中、雨の軍が偽装して使っている、酒を作る蔵。果実で作られた酒が入った樽が、並んでいる。空気が、冷たい。その中に、女はいた。

 かなり、ひどい拷問を受けたらしい。この冷たい空気の中、裸で腕を天井から縛られ、足は樽に括りつけられている。身体中は傷だらけで、何人もの男に代わるがわる責められたのか、股間の毛には血が流れ、乾いた跡があった。

「なかなか、口を割りません」

 女のをしている男の一人が、そう言った。

「名は」

 リョートは、問うた。女は、答えの代わりに血の混じった唾を吐きかけて来た。若いようにも見えるが、髪の質感などに、年齢が出ていた。顔は、腫れていてよく分からない。

「お前は、ウラガーンなのだな」

 顔に吐きかけられた唾を拭いもせず、リョートは女の眼を真っ直ぐに見た。その眼に、やや警戒するような光が宿った。リョートの身分が、高いことを見て取ったらしい。このような状態でも、冷静な観察眼を持っているらしい。

「教えてくれぬか。お前たちのことを」

 女は、答えない。

「手荒なことをして、済まなかった。これからは、決して、お前に乱暴を働かぬよう、言い聞かせておく」

 リョートは、自らの外套を外し、女にかけてやった。女は、身体を揺らし、それを払い落とした。

「施しは要らぬ。殺せ」

 それが、リョートが女の声を聴いた最初だった。

「お前は、なかなか頑固なようだ。それほどまでに頑なであるのに、何故、舌を噛み切って、死なぬ。死が、怖いか。ならば、言う通りにするのだ」

 腫れ上がった女の顔に、露骨な嘲りの色が浮かんだ。

「あなどるな」

 と女は言う。

「私が、何故舌を噛み切らぬか。それは、生きて、ここから出るためだ。ここにいるお前達の全てを殺し、入ってきた扉をこの手で開き、出てゆく。それが怖いなら、今すぐ私を殺せ。どれだけ私の身体を責めても、無駄だ。私は、決して口を割らぬ」

 不敵な笑みを浮かべ、女は言い放った。

「私を責める者は、薄笑いを浮かべていた。そのような顔をして、人を責める者に、私は決して屈しない」

 これは、難物だ。とリョートは思った。恐らく、手足をもぎ取っても、この女は口を割るまい。そうこうしているうちに、死なせてしまいかねない。

「では、どのような顔をした者に、お前は屈するのだ」

 金色の髪を少し掻き上げ、リョートは言った。女は、その顔を見て、何故か驚いたような顔をしている。

「お前の身体を、責めたりはせぬ。心を、責めることにする」

 そう、リョートは言った。その言葉にも、女はいささかの反応を示した。それを振り切るように、

「いいのか。ぐずぐずしていると、私の仲間が、私を取り返しに来るぞ」

 と凄んだ。

「いいや、来ないさ」

「いや、来る」

 リョートは、笑った。

「お前を、誰にも見つけられないところに、隠すのだ」

 自分の館に、運ぶ。そこで、じっくりと、責めればよい。心を責める。そうして、人は靡くのだ。肉体の苦痛は、修練した者ならば乗り越えられる。しかし、人の心には、鍛えても鍛えられぬ場所が、必ずある。そこを崩したとき、人は、それまでの自己から、新たな何かを産み落とすのだ。そうなるまで、何年でも、責めぬく。リョートは、そう考えた。

 飯の世話などは、館の者にやらせればよい。この女を崩すことが、ウラガーンやリベリオンを崩す端緒となるのだ。ただの構成員ではない。見るところ、組織における下位の幹部によくある型の人間だ。リョートは、人を見ることが上手い。パトリアエの内部の改革がこれほどまでに早く進んでいるのも、彼のその眼によるところが大きい。その眼が、そう言っていた。

 彼らの動きを洗い、探り、そして誘うことにも使える。なにしろ、彼らは、この女が生きているかどうかも、分からないのだ。どのようにでも、この女は使える。


 これほどまでに執拗にウラガーンやリベリオンにこだわるのは、リョートが、アトマスの下で行っているパトリアエの理想の姿への転生に、一点の汚れも付けたくないからであった。

 不満は、押し潰すのではない。解消しなくてはならない。民は、民であり、軍であってはならない。この国に生まれた喜びを感じることはあっても、この国に生まれた不幸を呪うことはあってはならない。それが、理想の形。呪いは、人に牙をもたらす。それは、折っておかなければならない。牙を放っておけば、獣が媒介する伝染病のように、人から人へと伝わり、手が付けられなくなるのだ。そうなったとき、彼らは、必ず、パトリアエに反旗を翻し、襲いかかってくる。リョートの理想を、壊しにやってくる。

 だから、今、眼の前にあるこの牙を、折る。折って、ただの人にする。これは、策略などを越えた、リョートが自らの心の中に定めた、試練なのだ。

 この国に生きる全ての者に対し、それをしようとしているのだ。今眼の前にいるこの女すらそう出来なくて、何の改革か。

 そう思っていた。

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