第24話 夏の夕べの喫茶店にて 1
15時30分をいささか回った頃の喫茶「窓ガラス」の店内。
岡山大学は小中高校と同じく、7月半ばから9月初旬までが夏休みとなる。そのかわり、今の時期に私立大学で行われている前期試験は9月末から10月初旬にかけて行われる(現在の岡山大学は、当時とは日程が大幅に変更されています)。
もっとも夏休みとはいえ、理系の研究室に休みはない。研究室の業務は院生らに任せて、堀田繁太郎教授は一人でこの店にやって来た。さすがにこの暑いさなか、ネクタイはしていないものの、長袖のワイシャツと薄手の上着を着ている。
教授は、入店早々先客に呼び止められた。
「堀田センセイ、どうぞこちらへ」
声をかけたのは、市内中心部で米穀店を営む山藤豊作氏であった。彼も同じような背広姿。堀田教授は山藤氏のいるテーブルの向いに腰かけた。
「アイス珈琲、ひとつね」
「かしこまりました」
食堂車の従業員のような服を着た若い女性店員が、カウンターに声をかける。
「レイコーワン!」
「マスター、コールいち~」
彼女の親世代の女性がさらにマスターに声をかける。マスターがアイス珈琲を客向けにあしらえ、教授のもとへ運ばせる。
「堀田先生、おまたせいたしました」
「おおきに、清美さん」
この喫茶店にエアコンは設置されていないが、天井にある大きな扇風機が回転しながらいささか生暖い空気をかき回し涼をとらせる。外からの風は存外涼しい。
「堀田君、聞いてくれぇ」
いささか渋い顔を作った山藤氏が堀田教授に話しかける。
「何か変なことがありました?」
「変と言うのも難であるし、けしからんとまで言い切れぬがなぁ。あんな言葉、久々に聞かされたぞ」
「どんな言葉です?」
「あなたの御実家ではまず聞かれまいし、うちでもそんな言葉は基本出て来んし、まして実践なんかしたものでもないわ。口減らし、であるぞ。口減らし」
「はあ、口減らし、ですか。一応私なりの定義を申上げますと、子どもを親族もしくは他家に養子や丁稚奉公に出したりすることによる苦しい家計への対処。間引きというのがもう一声。生まれてくる子を産まれないように、栽培数量を減少させることで間隔を物理的に開き、もって植物の健全生育を期す生育法ですね」
「まあそうですが、昨今の法律の目的を定義した条文風ですな。その定義どおりのつもりがあったかはともあれ、それを述べたのは、よつ葉園におられる唐橋君という児童指導員のアンチャンじゃ。わしなぁ、呆れるのを通り越して感心したわぁ」
山藤氏はその言葉を聞いたいきさつを話した。つい3日前の、宇野線の客車列車の二等車での話である。話を受けた教授が感想を述べる。
「二等車の窓から子どもらにみかんでも投げてやればまだ文学の素材にもなるところでしょうが、同じ二等車の中でも、仕事の打合せ中に夏の恒例行事にかこつけてそういう言葉を述べたわけですな。京都の研究室の荒巻教授のように阿呆とまでは申しませんが、心情的には言いたくもなりますなぁ」
「私も、唐橋君に阿呆とまで言うてはおらん。ただ思うところはある。大体なぁ、これからもっと社会を豊かにしていかねばならないこの御時世で「口減らし」みたいな言葉を養護施設の行事にかこつけあてがうような真似されると、なんか裏ぶれて惨めな気持ちになりゃせんですか。堀田教授、おいかがでしょう?」
「山藤さんのおっしゃる通りです。養護施設への国の支援はあまりに不十分であることは認めます。ですが、さまざまな好意によってなされておる行事をですね、経営面にかこつけて皮肉ごかすとは。しかし、ぜいたくな口減らしですな」
「ぜいたくな口減らし、ねぇ。堀田君のお兄さんは新聞記者で元文学青年でいらした方であるから、あの言葉を聞かれたらどんな感想持たれるジャロウかな」
「怒りはせず、興味深く聞きはするかと。ですが問題はその後。書かれた文章はほらこのとおり。五寸釘1本・藁人形を一体添えて、ってところでしょうか」
「何じゃそれ、フルコースのメインディッシュみたいな表現じゃのぅ(苦笑)」
ここで老紳士と若い男女が一組、店内に入って来た。
森川園長との打合せを終えた若い夫婦は、よつ葉園の近くにある喫茶店へと向うこととなった。歩いてわずか数分の場所にある。時間はまだ午後4時台。
何がしかの問題を起こしかねないよつ葉園を避け、会議費と称してこの喫茶店に来店して珈琲を飲みながら打合せすることとなったのである。
「堀田先生に山藤君、打合せがてらに、この際お二人にもぜひお聞きいただきたいことがありましてな」
「わかりました、大先輩。では横のテーブルにどうぞ」
山藤氏にとって森川園長は旧制時代の関西中学の大先輩にあたるため、山藤氏は森川園長を大先輩と呼ぶことがままある。
「すまんが清美、アイス珈琲3人分いただけるか」
半袖のウエイトレス姿の若い女性が、その注文を受けてカウンターに行く。
「唐橋君、まずは山藤さんにご報告されたい」
唐橋青年は上司の命を受け、隣のテーブルにいる米穀店の社長と向かいに座る大学教授に挨拶をはじめた。
「一昨日の7月21日月曜日の16時20分、ワタクシ唐橋修也はこちらの成瀬初奈さんと共に岡山市役所に婚姻届を提出してまいりました。・・・」
挨拶を終えた唐橋青年に続き、今度は妻となった初奈嬢の挨拶。
「それはよかった、唐橋君と初奈さん、この度はご結婚おめでとうございます」
一通りの挨拶を受け、山藤氏が祝意を述べる。堀田教授もそれに続いた。
「よつ葉園の他の職員さんや子どもさんらには、正式にご報告されましたか?」
その質問を発したのは堀田教授。彼もまた山藤氏同様、何かを感じている。
「いえ、まだです。海水浴の行事が全部終了するまで伏せておくよう、森川より指示を受けておりますので」
その指示がある旨の話も、山藤氏はかねて唐橋指導員より聞き及んでいた。
「先日宇野線の列車で唐橋君にお聞きしたところでは、ちょうど夏休みに入ったばかりで、しかも泊まりがけの遠足が5組に分かれて行われるような開放感あふれる状況下にて男性児童指導員が交際中の女性と結婚したことを報告すると、園内の空気に良くも悪くも影響をもたらしかねないことが理由であるとのことですが」
状況を見て商品の提供を控えていたウエイトレスが、ここにきてアイス珈琲を運んできた。それだけではない。後ろから彼女の親世代の女性もやって来た。
「この度は、ご結婚おめでとうございます。皆様のお代は結構でございますので、どうぞお召し上がりくださいませ」
そう言って、女性店員が珈琲のグラスを各人の前にサーブする。付添の女性も彼女に続いて祝意を述べた。
「ちょうど今は他のお客様もおられませんので、うちは17時まで臨時休憩の看板を出しておきます。打合せでしたら、どうぞその間に」
すでに彼女の夫であるマスターは、店先の看板に休憩中を告知している。
「清美、あんた、唐橋君の横の女の人と面識、あるか?」
森川園長の質問に、珈琲の提供を終えたウエイトレスが答えた。彼女も実は、よつ葉園の卒園生のひとりである。
「ええ。唐橋先生と御一緒に、何度か来られました。そういえばおひとりで来られたことが、一度だけですがありましたね」
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