第48話 床屋談義と事実確認
一方、こちらは児島市阿津の楠本理容室。8月最初の日曜なので通常営業中。この店は利用組合に入っているため、翌月曜日が毎週の定休日。日曜と祭日(月曜日を除く)は通常通りの営業である。
朝10時過ぎ。3席ある椅子のうち2席が埋まっていて、真ん中の1席は父親、入口側の1席は20歳になったばかりの息子が客の散髪している。息子のほうの客は今年30歳になる下津井電鉄の運転士・松本貢氏。父親のほうは個人タクシーの国安聡志氏で、40代半ば。この10年来の常連である。
「おい松っちゃん、聞いてくれ」
髪を切ってもらっている国安氏が、洗髪を終えたばかりの青年に声をかける。
「おたくのところの車掌さん、なんかこのところ成約が目立つのう」
成約とは何のことはない。男性との関係が成立するという意味。
「ええ。成瀬の初奈ちゃんはこの水曜日に××院で結婚式しますよね。それに加えて中田のノブちゃん。あのおてんば娘、中学時代にあこがれだった同級生と再会したはええけど、あっという間に彼とねぇ。その彼、彼女のほかに若いおねえさんと一緒にクルマに乗っとったって。うちの運転士仲間が児島の街中で見かけたと」
「それはまた穏やかちゃうなぁ。しかしまあ、それもこれも、よつ葉園さんの夏の行事のおかげさんじゃ。わしも御指名受けて商売柄ありがたい限りではあるけど、いろいろ話が飛び交いよるのぅ」
「それがねぇ国さん、またひとつその手の話が湧いて出よりますのや」
「ホー、今度は誰なら」
松本運転士、同僚の女性車掌の話を始める。
これは厳密にはよつ葉園関係者とは言えんけど、あの行事に関連している人物には違いないでしょ。倉敷に本店のある自由食堂ね、あそこで修行中の浅野茂夫君っていうのがいてね、今年18になったばかりや。彼、今週の木曜日に小学生の女の子らを引率して下津井まで行って、それから児島に戻るときの列車に乗務しとった大山の洋子ちゃんと、なんかエエ感じで話しとってなぁ。彼女が引率中の浅野君に用がある言うて呼出して。ええ。そのとき一緒に乗務しとったのが、私ですわぁ。
しかも良いのか悪いのか、彼は倉敷までバスで戻ればよさそうなものを、わざわざ彼女の乗務する列車を聞き出したのか、それで茶屋町に出て国鉄を乗継して岡山経由で倉敷の自宅に戻ったらしいです。これは彼女とぼくが乗務する列車に乗っていたから、ぼくも確認済です。
まあ、一体全体、あの行事をやっとる間にこうも沢山くっつく年なんか、これまで一度もなかったのになぁ。一体全体、今年は何が起きとるのやら。
髪を切り終った国安氏が、顔剃りに入る前に一言尋ねる。
「じゃけど、浅野君より大山の洋子ちゃんの方がだいぶ年上ちゃうか?」
「確かあの子は中田のノブちゃんと同じだから、23歳ですね。今年で」
「めがねっ子の洋子ちゃんは、浅野君の何が気に入ったのやら?」
「見とってのことだけですから真相はわからんけど。あの子は上にお兄さんがおって東京の中央法科に行っとるから自分は高卒で働くとか言いよって、それでうちに高卒で来てがんばっとるの。その気になれば大学まではともかく短大なら行けるのにな。もったいない」
「でも、浅野君はええ筋しとるらしいから、将来社長夫人かもよ。それがあの娘さんかどうかはわからんけど」
「そりゃあええですな」
やがて国安氏のほうは首筋を終えて顔、そして髭剃りへと入っていく。
しばらくの間、話はお休みに。
「ところで、大山の洋子さんに事情、聴いたんかな?」
顔剃りを一通り終えてどちらも最後のすすぎ洗いに入っているところ。顔をうつぶせにしながら、国安氏が一回りほど若い運転士に尋ねる。
「いや、さすがに聞けていませんわ。彼女とは別人との関係かもしれんです。そこはさすがに根掘り葉掘りは聞けなんだです」
「ということは、彼女そのものではなく共通の知人の誰か、かもな」
「そうかもしれません。でも、なんか興味わきますね」
両者とも散髪終了。それぞれほぼ同時に散髪代を払って店を出た。
「まあ、明日以降何かわかるじゃろ。浅野君は××院であと4日あろうが」
「そうですね。何かあったらお伝えしますわぁ」
かくして彼らは、それぞれの行く場所へと向って別れた。
非番で制服姿でない松本運転士は、阿津駅から電車に乗って児島市内の自宅へと戻ることにした。理容室の前のかなり狭い線路幅の上を電車がやって来た。その電車の車掌は、もちろん昨日乗務した時の同僚ではなかった。この電車の車掌は、実は新婚の唐橋初奈嬢であった。
彼は初奈嬢ともかねて仲がいい。付合っていたことは一度もないが、時々食事には行く仲である。彼女の恋愛にかかわる相談を度々受けており、彼が幼馴染の唐橋修也氏と恋仲が深まる一部始終を横から見てきたほどの関係性である。その結果、彼女の夫となった人物とも面識があり、彼の方からの相談も度々受けていた。
「初奈ちゃん、今日は大山の洋子は休みじゃったな」
やっぱりあの青年とできていたのか。
「そうよー。まっちゃん、あの子は今日は久々に日曜の休みじゃから言うて、今朝喜んで茶屋町まで乗ってった。今日は、岡山に行くらしいわ」
倉敷ではなく岡山へ。あれれ? なんか違うような気がするなぁ。そう思っていると程なく、唐橋車掌は彼女のことを話し始めた。
「洋子ちゃん、岡山におる同級生のところに遊びに行ってンの。女友達らしいよ。あの子は今付合っている男の人はいないはず」
それが事実とすれば、あの青年と彼女が今倉敷でデートなんかしているはずがないということになる。だが、それが偽装工作で実際、洋子嬢は今、倉敷かひょっと岡山あたりでかの年下の青年とデートしているかもしれない。
そんなことも考えてみた。だが、それが明らかにガセとわかる情報が入った。
列車は備前赤崎駅に到着。ここでしばらく停車する間は立話中断。出発して案内を終らせ、彼らはまた話を始めた。
「浅野君の彼女は洋子ちゃんの従妹なんよ。昨日会っていろいろ話しとったンは、たぶん、彼女のことで用があったからじゃない。洋子ちゃんの従妹は岡山に住んでいるけど、浅野君は今修行中で倉敷でしょ。ちょっとばかり遠距離恋愛中よ。彼が20歳になったら結婚する予定なンだって」
ありゃりゃ。そこは外れたか。
「だけど、大山の洋子ちゃんは相変わらず彼、いないのかねぇ」
「さあ、そこは本当のところはわからない。私らの気付かんところで付合っている人がいるかもね。中田のノブコみたいにおきゃんじゃなくて、落ち着きのあるお嬢さま、じゃけんね、彼女は」
電車はまもなく児島に到着する。松本氏は児島駅電車を降り、社員証を提示して児島駅を出て自宅へと向かった。昼から勤務の中田信子嬢が児島駅にやって来た。彼女はこの日昼から夜にかけて勤務し、下津井の乗務員宿泊先で1泊して朝一番の電車から昼頃まで乗務することになっている。
「おー、ノブコっち、これから勤務じゃな」
「はーい。水曜から金曜まで別の仕事と休みがあるから、それまでひと稼ぎねー」
「あんた、また今週も彼と会えるのう」
彼女は顔を赤らめ、乗務の点呼のため下津井まで電車に便乗して行った。
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