国鉄、軽便、そして、バスを乗り継いで

第2話 岡山駅の宇野線ホーム

 よつ葉園の子どもたちと引率の大人たちは、跨線橋を渡って宇野線の列車が出入するホームへと移動した。すでに、次の宇野行普通列車が入線していた。

 跨線橋を降りてしばらく前に進むと、そこには青い帯こそないものの明らかに窓枠の違う車両が1両連結されていた。椅子も、なんだかほかの車両よりもよい。

 ふと何を思ったか、2人ほどの小学生の児童がその車両に入っていこうとした。


「そっちは二等車じゃ! お金取られるよ!」


 少しばかり年長の保母が、二等車に入ろうとする少年らを止めた。少年らは、窓枠から中の様子をうかがっている。保母より少し若い男性児童指導員が彼らのもとに寄り沿った。そのとき、ある背広姿の男性がその青年らに声をかけた。


「唐橋君じゃないか」

 その相手は、山藤豊作氏。街中で米屋をしていてよつ葉園にいつも米を納入している会社の社長であった。

「今からどこに行くんなら。あ、そうか、先日言っておられたな、森川先生が。児島の海水浴かな?」

「はい。この列車で茶屋町に行って、それから軽便とバスを乗継いで、児島の××院に参ります。ぼくは明日には戻りますが、この子らは3泊して帰ってきます。これから連続で5班に分けていきますから、結構な事業ですよ」

「じゃろうな。私はこれから高松に行って陸軍時代の先輩の弁護士さんにお会いしてくる。三等で行ってもええが、こういうときに運賃をケチりたくないから、今回は二等車よ。君らはさすがに二等車というわけにもいくまい」

「まあその、子どもらにそんなことでぜいたくさせても仕方ないですから」

「そりゃそうじゃ。ただ、唐橋君、あなたはもし時間があれば、茶屋町までの間二等に来てくれんか。ちょっと打合せしたいことがあるもので」

「わかりました。今日は山上先生の他に、ボランティアの学生さんも来ていただいていますから、茶屋町まではお供いたします」

「そうか。山上さんがおられるなら大丈夫ジャロウ。頼むわ」


 唐橋指導員はいったんよつ葉園の集団のほうに子どもらを連れて戻り、二等車のすぐ後ろの三等車に全員を乗せた。彼らので左右4ボックスの座席が埋まった。

「山上先生、ちょっといいですか?」

「何でしょうか、唐橋先生」

「実はこの列車の二等車に、米屋の山藤さんが乗っておられます。業務の打合せがしたいということですので、ぼくは茶屋町まで二等車に行かなければならなくなりました。申し訳ないが、子どもらを磯貝君とともに頼みます」

「どのみち明日から帰るまでは我々2人で面倒を見なければいけませんから、ちょうどいい予行演習になるでしょう」

「では、この子らの切符、山上先生のほうでお願いしますね」

 そう申し述べた唐橋青年は、自分の切符を除くよつ葉園一行分の切符を少し年長の保母に渡し、前の二等車へと向かった。そうなりかねないことを見越して、彼だけはこの団体とは別に切符を用意していたのである。どのみち明日には岡山に戻るので、彼だけは往復切符を買っていたのである。


 程なく、東口側のホームに東京からの急行列車が到着した。東京発呉線経由広島行の安芸号である。こちらは二等寝台車と特別二等、並ロこと普通の二等車、さらには三等寝台車に食堂車を広島よりに連結した豪華な列車である。乗客の中には岡山からこの列車に乗換して四国方面に向かう客もいる。四国方面の宇野までならこの後の急行瀬戸もあるが、こちらは寝台車や二等車もあるが食堂車の連結はない。そのためかどうか、少し早めにこちらの列車で来る客もいくらかいる。その人たちのための四国方面への乗継を、この列車は担っているのである。唐橋指導員と山藤氏の乗車する二等車にも、急行からの乗継客がやって来た。隣のよつ葉園の子らがいる三等車にもいくらか乗車したが、やはりそういう意識の客は二等車に多いようであり、子どもたちの乗っている三等車に客が殺到するようなことはない。


 ふとホームを見ると、跨線橋下の立ち食いうどんの店に数名の客が並んでいる。

何だかんだで、こういう食べ物のにおいは、人によっては旅情というよりも単純に食い気をそそる要素のあるもの。

「あ、うどん!」

 誰ともなく、三等車に腰かけた小さな子が叫ぶ。

「お寺に行ったら御馳走が待っているから」

 そういって目先をくらますように我慢させるのも、保母の仕事のひとつ。

「立ち食いのうどんは、そんなにおいしいってほどでもないよ」

 大学生の磯貝青年も、ベテラン保母に同調する。彼がそんなことを言うのも無理はない。昼に学食の素うどんを食べてしのぐことが週に何度かあるから。

 当時まだインスタントラーメンは発売されていなかった。実はこの年の1か月後の8月25日に日清食品がチキンラーメンの発売を始めたが、売価自体が35円。当時の銭湯の入湯料の倍以上であり、学生が昼休みに気軽に食べられるようなものではまだまだなかった。テスト生でプロ野球選手になった後の大選手も、1年目は合宿所の食堂でうどんを湯がいて食べていたという。

 うどんは、この頃の人々にとって、かくも安くて腹の膨れる食だったのである。


 急行列車はやがて汽笛を鳴らして広島へと去っていった。食堂車からの石炭レンジの煙と料理のにおいは、ここまではさすがに届かない。

 この列車も、程なく岡山を出る。出発は、10時47分。茶屋町までおよそ30分弱の、ほんのちょっとした汽車の旅が今始まろうとしている。

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