第21話 軽便電車の女性車掌とタクシー運転手の男性

 定刻より少しずれたが、電車はいつものように軽く汽笛を鳴らして発車した。

 進行方向に向かって左側は宇野方面に向かう宇野線が大きく左にカーブを取る形で2本の線路がつながっている。この路線は本州から四国への連絡のメインルートであることもあり、山陽本線とともに近々電化予定。沿線には架線柱が等間隔で線路に沿い建てられつつある。こちらの軽便鉄道は既に全区間電化を終えており、こちらも等間隔で鉄製の架線柱が立っている。線路をまたぐものもあるかと思えば、片側から架線をサポートしているものもある。この電車はゆっくりと走っているだけに、その違いを見るのも一興。この近辺の線路から煙が消える日も近い。

 東西に広く大きく開けた茶屋町近辺を抜け、列車は少しずつ山間に入っていく。天城駅を出発した電車はやがて、倉敷川の鉄橋を渡る。開かれた窓からは川からの涼しい空気が列車内に入り込んでくる。国鉄の列車のような向い合せのいわゆるクロスシートではなく、この電車はロングシートと呼ばれる長い腰掛のような椅子。幼い子どもたちは靴を脱がぬまま座席に乗ろうとさえする。それを、同行の若い保母と中学生のおねえさんたちがお行儀良くしなさいとばかりに靴を脱がせる。靴を脱いだ子はそのまま椅子の上に立ち、窓の外の景色に夢中になる。さすがに転落の危険があるから、あまり窓を大きくは開けられない。


「特に小さなお子様をお連れのお客様方にお願いいたします。走っている電車の窓から、体や手を出さないよう、お子様の動きには十分配慮お願いします」


 高校を出て新卒でこの会社に入社して5年目、23歳になる中田車掌が気を利かせて案内放送を入れてくれる。それに合せて、普段車掌業務をしている成瀬添乗員が子どもたちの乗っている区画を座りながらしっかりと目を配りつつ、何かありそうな気配を見るたびにそこへ行って注意を促す。


 電車はいささか急な勾配に差し掛かる。これが山陽本線を走る幹線用の蒸気機関車や電気機関車ならさほど苦もなくさっさと登り切ってしまうところではあるが、いかんせん電圧直流600ボルトという低電圧であり、しかも線路幅が762ミリと、国鉄在来線の列車より305ミリ、すなわち30センチ以上狭い線路幅の路線であるから電車のほうもそれに合わせて小ぶりに作られており、どうしても非力であるのはやむを得ない。ましてこれが電化前の蒸気機関車の時代であれば、客までが列車から降りて客車を押していたという話もあるくらいだ。電車ともなればさすがにそこまではないが、気持ちとしては押してやりたくもなろうというもの。山間の路線をゆっくり進み、途中駅で下津井からの列車とすれ違ったこの電車は、約30分後に児島市の市街地に入っていく。そこでまた、瀬戸内海へ出る川をまたぐ鉄橋を通り、おおむね定刻で電車は児島駅に到着した。


「それでは皆さん、こちらのドアから順番に降りましょう」

 気を利かせてか、他のドアから降りていく乗客もいる。先頭の成瀬添乗員がまず下車し、それから次々と幼い子どもを連れて女子中学生や保母たちが降りていく。最後に降りたのは、唐橋指導員であった。

 これで無事に、児島駅までの移動ができた。

 電車はやがて、定刻で児島駅を発車。終点の下津井へと走り去っていく。運転士と女性車掌が子どもたちに手を振ってくれた。ここでも国鉄茶屋町駅同様、幼い子どもたちはおねえさんたちと一緒に手を振って列車を見送った。

 他の乗客がすべて降り、誰も迷子になっていないことを確認したうえで、成瀬添乗員の誘導にしたがって改札を抜けた。最後に抜けたのは、すでに彼女の夫となっている唐橋指導員であった。

 ここで、少し休憩。便所に行く子が何人かいるので、保母さんと女子中学生たちがその子たちを便所に誘導する。程なく休憩は終り、あとは宿泊先の××院まで移動するだけだが、年長の子らのようにバスに乗ってというわけにもいかない。

 児島駅前のタクシー乗場には、4台のタクシーが来ている。どのタクシーも一様に空車ではなくして「迎車」の札を出している。実はこれも、唐橋指導員がこの班の移動に際して手配していたものである。列車についてはともかくとしても、10分程度のバスの移動による乗降は、多数の幼児を連れての団体としては迷惑となることを意識しての措置である。児島駅前であればまだしも、行き帰りの××院前のバス停での待ち時間の間に何かが起きるリスクを考えれば、これはやむを得ない措置である。

 成瀬添乗員が幼い子らをまず各タクシーの後部座席に乗せ、それから順に中学生女子児童と保母らを助手席もしくは後部座席の子どもらの世話のためにあてがって手際よく乗せていく。これも事前に唐橋指導員と成瀬車掌との間で席割表を決め、なおかつ唐橋指導員が担当保母と中学生の女子児童とともに事前に打合せしたものなのだ。いかんせん幼い子らが中心であるから、行き当たりばったりで適当に座らせて、まして好きに座って、というわけにもいかない。

 全員を乗車させて××院まで向かわせた後、唐橋指導員は成瀬車掌とともに残りのタクシーの後部座席に揃って乗込んだ。

 目的地まではせいぜい10分程度だが、その間だけは、新婚夫婦になれる。


「お疲れさまです」

 お互い後部座席であいさつ。タクシーの国安聡志運転手は成瀬車掌と唐橋青年のどちらとも知合いで、両者が結婚前提の交際をしていることも知っていた。

「君らぁ、まだ結婚せんのかな?」

 国安運転手の質問に、唐橋青年は淡々と事実だけを伝える。

「実は一昨日、岡山市役所に婚姻届を提出しました」

 少し間をおいて国安氏が答える。××院はもうすぐである。

「そりゃあよかったな。初奈ちゃんはこれで成瀬さんから唐橋さんじゃな、唐橋夫人や。これで晴れて!」

 そう言われて、悪い気はしない。国安氏は40代の温厚なタクシー運転手だが、戦時中は満州にいてシベリアに抑留されていたこともあるという。

「そりゃあなあ、唐橋君よぉ、シベリア送りにされて帰ってきたら、わしはまだええわな、嫁さんが待っとってくれたから。中には、帰って来たのに元のさやに戻れなんだ戦友もおるからなぁ。それを思えば、シベリアどころか兵隊にも行かんでええことになったし、こうして可愛い初奈チャンと一緒になれて。ぜいたくしたり言うたりせんと、初奈チャンを幸せにしたらにゃあおえんでぇ」

 終戦後10年少々。社会にはまだ戦争の爪痕や傷跡が随所に見られた。それは物理的なものだけでなく、人々の心身にも大きな傷を残していた。

「はい」

 唐橋青年はそう答えるのが精一杯だった。この2日来新婚気分に浮かれて彼女と一緒にいたが、国安氏の言葉で、自らの背中に一本の筋を通された気がした。


 ××院に到着した。

 運賃は既に4台分まとめて支払っているので、ここで支払う必要はない。

「ほな、大してないけど、唐橋君、結婚祝じゃ」

 そう言って、国安氏はあらかじめ用意していた茶封筒を渡した。その茶封筒には毛筆の達筆で、新郎新婦の名と祝主・国安聡志の名が書かれていた。

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