第20話 たのしいきしゃぽっぽのたび

 3日前に乗ったこの列車は、この日も定刻の10時47分に発車した。

 あの日はいわゆる並ロとはいえ二等車に招かれてこの岡山市の名士のひとりでもある山藤豊作氏と業務上の打合せをしたが、今日は、この三等車で実は夫婦となっている意中も意中の女性との旅。どちらが唐橋青年にとってうれしいかを問うのは野暮だが、今は他人の振りを求められている。下手な行動は起こせない。まして仕事の愚痴なんか言おうものなら、即問題になりかねない。

 ま、これも仕事というものの内。唐橋指導員はそう割切っている。


 汽笛一声、列車は今日も宇野に向けて出発進行。ゆっくりと山陽本線と別れて宇野線に入ったこの列車は、街はずれをゆっくり走り、程なく大元へ。

 今日も岡山臨港鉄道の気動車が客待ちをしている。何人かのビジネス客が臨港鉄道の気動車へと移動している。この先には鉄道車両製造会社や岡南地区の工場がいくつかある。他方面からバスに乗換えず直接乗付けられることもあって他府県からのビジネス客の利用もあるが、いかんせんこの沿線には大学はもとより高等学校もない。その分、通学客の定期券収入が見込めないのが辛いところか。

 貨物にしても、いよいよ発展にむかう倉敷水島地区ほどのポテンシャルはない。岡山港からの船の乗継があれば救われようが、そちらは旭川下流の京橋で路面電車から乗換すればよいため、何も国鉄とこの鉄道を乗継する必要もない。

 この頃はまだよかったが、史実を述べておくと、後に国鉄合理化のあおりを受けた岡山臨港鉄道は、1984(昭和59)年に廃線となった。鉄道利用するだけの貨物輸送も見込めず、トラック輸送により賄えるようになったことも大きい。


 さて、物語の世界に戻ろう。

 大元を出た列車はさらに足取り軽く備前西市駅を走り抜けるように通過し、次の妹尾駅に停車した。駅舎の向いにある下り線のホームに停まったこの列車から、多くの地元客が降りていく。その代わり、何人かの客が乗車する。二等車からの降車客はあまりいない。乗車客は一人もいない。

 幼い子どもたちは、年に何度も乗れない汽車の旅を楽しんでいる。何両か前の先頭にいる機関車が汽笛を鳴らすたびに、びっくりして近くのおねえさんや保母さんに抱きつく子もいる。だがそれも一瞬。列車が動き出せば、子どもたちはいつも通りの顔に戻って、走る列車を楽しんでいる。

 妹尾で客が幾分減った客車列車はさらに軽快に岡山平野の田園地帯を快走する。次の備中箕島をすいすいと通過し、列車は早島町の中心駅である早島駅に到着。ここでもまた岡山からの客が降りていく。そのかわり、茶屋町や児島、あるいは玉野への客が何人か乗車してくる。この列車に乗るのはせいぜい20分少々。子どもたちがはしゃぎ飽きて疲れるほどの時間でもない。列車は改めて汽笛を鳴らし、ゆっくりと次の茶屋町へと歩み始める。


「それでは皆さん、次の茶屋町駅で電車に乗換します。私と先生やおねえさんたちの指示にしたがって、隣の客車のデッキまで行きましょう」


 成瀬車掌もとい添乗員の号令の下、幼い子どもたちは降りる準備を始める。無人駅の久々原を通過する頃には、おおむね準備ができた。この客車はドアが開いたまま走ることもままある。当時の客車は自動ドアではないため、転落の危険もある。それを見越して女性添乗員を補佐すべく唐橋指導員が根回ししている。彼は妻である成瀬添乗員が声掛けを始めるとともにデッキに赴き、ドアを確認した。

 三等車のドアが開放されていたので、彼はそれを閉めた。普段なら気にすることはないが、今回ばかりはそうもいかない。子どもたちはここを通らざるを得ないから、前もって準備しておく必要がある。その先の二等車のドアは客層もよいせいか開放状態にはなっていない。彼は客室のドアを開き、妻である女性添乗員に手を上げて合図した。列車はもうすぐ茶屋町に到着する。何とか三等車のデッキと二等車のデッキの間の動線に子どもたちが揃ってくれた。このデッキから降りる客はいない模様。茶屋町到着前に二等車の車掌室から川本車掌がやって来た。この団体客を安全に見送る必要があることを十分に理解しての措置である。

 程なく列車は茶屋町駅に到着した。完全に列車が停まったのを確認して、この列車の川本車掌が二等車のドアを開け、ホームに降りてデッキの客に声をかける。

「気を付けて降りてね~」

 彼に続き、唐橋指導員と成瀬添乗員が降りた。子どもたちがきちんと怪我なく降りられるよう、三人の大人が足もととホームの間を確認している。ここから二等車に乗車してくるような客はいない。ゆっくり慌てず、子どもたちは列車から無事にホームへと降りられた。

 遠く機関車からも、機関助士が列車の乗降を確認している。

 やがて発車時刻が来た。機関車の運転台に戻った機関助士らに向って駅長代理と思われる若い駅員が出発の合図を出す。帽子には駅長と同じ赤線も入っている。汽笛を上げ、列車はゆっくりと宇野に向って走り始めた。

「じゃあ、成瀬さん、唐橋さん、お気をつけて!」

「川本さん、ありがとうございました!」

 唐橋夫妻が列車に戻る川本車掌に挨拶する。動き始めた列車のデッキに飛び乗った川本車掌は、開いたドアから手を振って子どもたちの団体を見送った。幼い子どもたちもまた、若い車掌の手を振る姿に応えて手を振っている。


「それでは皆さん、下津井電鉄のほうへお急ぎください」

 子どもたちの団体が改札からすべて出るのを見計らい、先ほどの赤線の入った制帽をかぶっている助役と思われる駅員が声をかける。

「ありがとうございました。また昼過ぎもお願いしますね」

 女性添乗員が駅員に一言挨拶した。この駅員とは彼女は顔なじみである。

「成瀬さん、お気をつけて」

 国鉄茶屋町駅の駅員に見送られ、よつ葉園の第2班は下津井電鉄の茶屋町駅へと歩いて急いだ。この団体が次の接続列車に乗ることは業務連絡で周知されており、慌てるほど急ぐことはない。むしろ、少々遅れても待つから安全に移動してきてくれと言われている。それは唐橋夫人もとい成瀬車掌がこの団体に添乗してくれているが故にできる措置ともいえる。


「成瀬添乗員、皆さんの切符です」

 下津井電鉄の茶屋町駅では、切符がすでに用意されている。切符は成瀬車掌に駅長が手渡した。

 今回は中学生以上大人扱6人と幼児10人の客。社員証で乗車できる成瀬添乗員以外の運賃は、しめて大人6人分のみ。社員の無賃乗車は業務であるから別としても、この他16人も乗車する割には大人6人分の運賃収入しか見込めず、その上手間のかかる無賃扱の幼児が10人。仕事としては骨折り損のくたびれ儲けかもしれない。とはいえ、これも未来への投資と思えば、この幼い子どもたちはむしろ、他の大人客よりも数十倍大事なお客様である。

「ノブちゃん、乗車完了ね~」

「了解で~す。では!」

 誰も迷子になっていないことを車内で確認した成瀬添乗員は、この列車に乗務している同僚の女性車掌に告げた。駅長は乗車終了を確認した上で信号を変えた。

 ここからさらに約30分、この小さな軽便電車での旅はいよいよ始まる。

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