続 それぞれの日曜日
第46話 本田陽子嬢の苦悩と決意 1
8月3日・日曜日。昼過ぎに、大宮病院の電話が鳴った。
電話の主は、窓ガラスのマスターだった。
「大宮君、ちょっと、相談したいことがある。うちに来てくれるか。あと、森川先生にもお電話して、こちらに向かって頂いている。昼飯は食ってないなら出すし、まあまたアイス珈琲1杯で粘るがごとく時間をとらせて申し訳ないが、済まん」
特に用事のない日で退屈していたほどでもないが、彼は六法を片手に民法の家族法をダットサンと呼ばれる入門書を読んで勉強していた。法学を学んでいる以上、憲法であれ民事法であれ刑事法であれ何を学んでいたかということをわざわざ言うほどのことでもないのだが、これは来る口述試験対策ということもあるのと、それ以上に何か嫌な予感がしていたということもある。
「ごめん、またしょうがない事件が発生したみたいじゃ。行ってくるわ」
彼はたまたま近くにいた父親に伝言し、出かけることになった。今回は酒を飲むほどのこともあるまいということで、自転車で。ま、飲んだらそのとき。
「よつ葉園で鍛えとけば、将来どんな仕事してもやっていけるやろ」
これまたそばにいた兄も言う。
自転車に乗ること約十分程度。ゆっくり目に漕いで、この日の案件のシミュレイトをする。あのマスターが呼ぶということは、間違いなく陽子嬢のことだな。
結論から言っておこう。その予感は確実に的中した。しかも、森川園長にまで相談をということは、余程のことであるに違いない。
喫茶・窓ガラスに到着した。森川園長はまだ来ていない。陽子嬢とマスター夫妻の親子の他、彼の兄夫婦も来ている。しかも加えて、岡山清美嬢までが何とウエイトレスの服を着ているではないか。ただし、本日定休日の看板は出ている。本来この店、日曜は定休日なのだから。
「大宮君、済まんのう。よく来てくれた。頼むわ」
そう声をかけたのは、現在京都で法学系の大学助教授を務める本田武男氏。横には妻がいる。一通りあいさつした後、マスターではなく助教授のほうから話が進むことに。その間、清美嬢は大宮青年のもとにアイス珈琲を持ってきた。
「園長先生はあと30分ほどしたら来られる。じつは森川さんには私の方から事情を説明しているから、大宮君は済まんが、法学を学ぶ者の視点をもとにこの話を聞いてやっていただきたい。よろしくお願い申上げる」
何だか随分大袈裟な話だなと思う間もなく、武男氏から状況説明を聞かされる。
やっぱり、そういう話になったか。
彼は昨日、森川園長の意思を伝える手紙を代筆した。なぜ代筆に過ぎない自分の名前が必要なのかと思っていたが、そういうことだったのか。
森川氏の手紙は、すでに陽子嬢の兄夫婦も読んでいる。
「なあ、大宮君、陽子の件であるが、私は憲法学者としては別にこれも幸福追求権の一実現方法であると評するにやぶさかでは、ない。だが、兄妹としてはね、それで大いにやンなさいとは正直言えないし、道徳的には、ちょっといかがなものかと思えてならんのや。どや、君は?」
アイス珈琲と水を交互にすすり、少し間をおいて彼は答えた。
陽子さんは将来結婚せず独身をとおして教育学に身を投じるとのこと、もちろんそのような幸福追求の方法もあるし大いにやればいいと、ぼく個人としては思います。しかしなぜ、そのようなことを言い出したのか。何だか、失恋して自棄になっているのかなと思いきや、どうもそうではなさそうですね。最近の陽子さんを見ていて思うに、確かに生き生きしていると見える半面、どこか、自らのやりたいことを貫き通すためには悪魔とでも手を結びかねないというか、そういう雰囲気が見て取れるのです。お兄様から見てそうなら、ぼくが見てもやっぱり同じですよ。
ではなぜ、彼女はそんなことを言い出したのか。
すでに御存知の話かもしれないし、もし御存知でなければ難なのでぼくからから申上げますけれども、陽子さんは高校時代こそそうでもなかったが、大学に合格して2年目の昨年あたりから、お付合いしている男性が何人かいると伺っています。それはしかし、独身者である以上別に何の問題もなく、男子女子とも満18歳に至れば婚姻も可能です。無理なら別にしなくてもいい。20歳に至るまでは親権者の同意が必要ですが、そんなことは大した問題ではない。それについても、陽子さんはすでに成人されているから、親権者の同意など必要ありませんね。あ、そもそも成人に対して親権者という概念を持出すこと自体が無益な論議ですけれど。
さて、陽子さんが誰とどのようにお付合いされようと、それは御両親や御兄弟がとやかく目くじら立てるものではないと考えます。もっとも、その交際に問題点があればそれを軌道修正するべく、成人者の先輩として述べることを否定するものではありませんがね。
そういえば、先日の木曜日ですけど、陽子さんも内山さんも休みで岡山に戻ろうと思えば戻れたにもかかわらず、児島市内の友人の家に泊まられたと聞いていますが、それがどなたかという話も、実は森川園長先生よりあくまでも予想であるがという前提で、内山さんの中学時代の同級生でしかも女性であると聞いています。
それについてぼくは、こう考えます。
その女性に既婚者がいれば格別、そうでなければ彼女と内山さんがどのようなお付合いをされようとぼくらがそれに文句を言う筋合いはない。となれば、陽子さんがこれまで知合いでもなかったその女性と一緒に宿泊して、仮に男女の関係がそこで2つ同時にできていたとしても、ぼくらは法的に問題とするには当たりません。
もっとも、道徳的には非難されかねないことでもありましょう。その非難の内容はいちいち列記しませんが、まあ御賢察下さい。ただ、男としては、ちょっとどころでないほどうらやましいと言えば、うらやましいです、ええ。
あ、今のはまあ、ちょっと、本音ですわぁ(苦笑)。
「こりゃ哲郎! 何がうらやましいンじゃ、おぬしは(苦笑)」
「うわ、おじさん、いつの間に?」
「ついさっきじゃ。貴君は法的に云々と述べておられる頃にこの店に入って来た。折角の大演説を妨害する気はないので、そっと黙って後ろで聞いておった」
清美嬢がアイス珈琲を老園長に提供した。黒い液体に透明と白の液体を少し多めに入れてストローでかき混ぜ、老紳士はそれを口に入れる。いくらか飲んだ後、今度は氷の入った水を少し多めに飲んだ。
「なあ清美、陽子さんじゃが、あんたが最初この店に来た時に比べて、なんか変化のようなもの、感じたか?」
突如話を振られた女子高生が、落ち着いて答える。
「ええ。最初この冬にお会いした時も何だか垢抜けたおねえさんでしたが、この夏あたりからますます、何て言いますか、女の色気が増してきたように思えます。私なんかは相も変わらずこの通りのイモネエチャンですけど(苦笑)」
「戦時中でもあるまいし、自分から芋畑に志願せんでもよかろうに(苦笑)」
いささか洒落っ気を加えた老紳士に、勤労学生が真面目に答える。
「私の場合はとにかく高校を出て事業をきちんと回していける力を身につけなきゃいけませんから、遊んでなんかおれませんので」
「まあそうじゃな。あんたは」
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