新婚夫婦は添乗員 往路編
第18話 添乗員とその夫~新婚夫婦の初仕事
翌々日の7月23日水曜日。午前9時前、よつ葉園に新婚夫婦がやって来た。その夫はよつ葉園の職員。要は、妻を連れて同伴出勤してきたということである。朝から同伴出勤とは何かと思われる向きもあろうが、何もこれから酒を飲んでカラオケを歌ってといった話でないことは言うまでもない。
「おはようございます」
唐橋夫妻は揃って事務室前の外来者受付の窓口に挨拶した。今回は部外者もいるためあえてこうするのだ。挨拶を返される頃、園長室から森川園長が出てきた。夏用の半そで開襟シャツを着た老紳士は、二人を園長室に招いた。
森川一郎園長は、目の前の若い男女に少し長めの訓示をした。
それでは、唐橋先生と成瀬初奈さん。諸君は既に婚姻届けを提出されており法的には夫婦ということであるが、本日はあえて夫婦としての実態はもとより事実関係も伏せた上で、本園児童らの引率をお願いします。
諸君が夫婦である事実は、本園関係者においては現段階で私森川以外は誰も存じておりません。山上先生はもう感づかれたかもわからんが、あの先生はそういうことを子どもらの前で言ったりされないから、大丈夫であろう。とはいえ、他の若い保母らには、諸君が結婚している事実は当面伏せていただきたい。
昨日も私は大宮病院の次男坊の哲郎君を呼んで一杯飲んだが、哲郎は、少なくともこの海水浴の行事終了までは唐橋さんが結婚された事実は伏せておいた方がよいと、そのように申しておった。夏休みである上に加えて海水浴と、子どもらはみな解放感に浸っておるし、若い保母さんらアにしても、夏となれば気持ちも高揚しておるからのう。無駄な空騒ぎを起こす材料を与えるような真似は、初めからせんこっちゃ。
かくなる上は、この事業で第5班が本園に戻る8月7日まではその方針で。その後は折を見て唐橋先生がご結婚された旨を、貴君自らもしくは私森川を介して公告すればよかろう。
ただし、不測の事態が発生した時は、その時はソノトキで対応すればよい。
初奈さんには誠に申し訳ないが、本日の奉仕活動におかれては修也さんと夫婦、もしくは交際しているという雰囲気は、子どもらはもとより職員らの前でも一切出さないでいただきたい。初奈さんはあくまでも軽便鉄道の社員という立場で、今日一日お付合いください。
しかしながら、これはお二人にとって夫婦として初の仕事ではある。
今日は何卒、よろしくお願い申し上げます。
目の前の唐橋指導員は、森川園長同様半そでの白いワイシャツを着ている。ただし彼のは開襟シャツではなく、ネクタイをしようと思えばできる形のもの。横にいる妻は、車掌として勤務しているときの制服を着ており、名札も使用している。この格好でよつ葉園から児島の××院までの行き帰りを通して、彼らが夫婦であることに感づかれる要素はなかろう。森川園長の業務命令を受けた唐橋児童指導員が、この行事に関し下津井電鉄という軽便鉄道の会社と折衝して、その社員の中でもこの行事に理解のある女性社員に手伝ってもらっている。そんなストーリーを描いておいてそのとおりを彼らが演じ切れば、それで問題は一切ないわけだ。
「それでは、これから唐橋君とともに職員会議に出向いて参ります。唐橋初奈さんは申し訳ないが、こちらで、しばしお待ちください」
彼女が園長室で待機する間、この養護施設の職員である老園長と夫となった男性は事務室での朝礼に臨んだ。その朝礼は、いつものように10分程度で終った。
「ごめん下さい。川上モータースです」
よつ葉園の卒園生でもある、近くの自動車店を経営する男性が事務室の外来受付に顔を出した。彼の運転する乗用車も含めて4台のクルマが駅前のタクシー乗場の如く客待ちを始めている。このクルマに分乗して、第2班はよつ葉園を出発する。
岡山駅までは歩いて30分もあれば十分到着するが、さすがに今回は幼児中心の団体であるから歩かせるわけにはいかない。
「川上君、すまんな。今日もよろしゅう頼むわ。あと、昼もな」
事務室から園長室にむかう途中の森川園長が、川上モータースの代表者である川上正喜氏に一言声をかけた。
「森川先生、昼はもう時間に合せて岡山駅に直行しますからね」
「それでよろしく頼みます」
園庭には、小さな子どもたちが担当の保母2人と女子中学生の児童らによって集められた。
今回は小学生以上の男子児童は一切含めていない。滞在先では幼児と女子児童、それに女性職員ばかりで寝起きすることになる。その補助を担当するのが、奉仕活動に来ている大学生の磯貝青年と彼の小学校時代からの友人で後輩でもある浅野青年、それにもう一人、自由食堂から派遣される若い男性社員が担当する。
特に浅野青年は、今日から土曜の昼まで、磯貝青年とともに××院で寝泊まりすることになっている。これで、何か起きたときの言うならバックアップ体制を整えているのである。この事業における、最大に気を遣わねばならぬ山場と言えよう。
「それでは、成瀬さん、今日はよろしく頼みますぞ」
園長室で待機していた唐橋車掌もとい成瀬車掌に、森川園長が声をかけた。
「わかりました。それでは森川園長先生、行って参ります」
唐橋修也児童指導員は、園庭に子どもたちを集めて注意事項を述べている。
そこに、森川園長が車掌の制服を着た女性を連れてきた。
「みんな、よろしいですか。今日、児島の××院まで同行してくださるガイドさんを御紹介します。下津井電鉄の軽便電車の車掌をされている、から、もとい、成瀬初奈さんです。電車に乗ったら、成瀬のおねえさんの言うことをよく聞いて、お行儀よく記者や電車の旅を楽しんでくださいね」
人には時期が来るまで伏せて置けと言いつつも、それを求める当の本人である森川一郎翁がうっかり言い間違えそうになっていれば世話はない。しかし今回は女子中学生と幼児さんたちばかりの集団なので、特にそれで何かを感づかれたということはなさそうである。担当の保母らも、それで何か感づいたというわけでもない。そもそも彼女らはどちらもこの地に来て1年かそこら。毎年夏の旅行で会ったかどうかもわからない女性のことをしっかり覚えているほどのこともない。
「これからあちらのクルマに分かれて乗って、岡山駅まで行きますね。保母さんとおねえさんたちの指示に従って、クルマに乗りましょう」
高校卒業後、今の会社に入社してしばらくバス部門に配属されてガイドの訓練を受けて実際に乗務していただけことはある。成瀬車掌のてきぱきとした誘導で、子どもたちと引率の職員らはクルマに分乗し、あとは出発を待つばかり。
「それでは、準備できました。森川園長、出発いたします」
「唐橋先生、よろしく頼みます」
「川上さん、よろしくお願いいたします」
最後に先頭のクルマに乗車したのは、唐橋修也児童指導員だった。
「それでは唐橋さん、参りましょう」
かくして4台のクルマは特に信号にかかることもなく、10分もしない間に岡山駅の西口に到着した。東口だと乗客が多く子どもの迷子も発生しかねないし、そこに至るまでに踏切にかかってしまうと時間が積んでしまう。そのため、この事業における移動は岡山駅西口を必ず利用することになっているのである。
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