第17話 そして、一世一代の共同作業
タクシーは市役所のロータリーに横付けされた。男性が代金を支払った。こちらにも何台か客待ち中のタクシーがいる。
「とにかく、ぼくについてきて」
唐橋青年にとっては勝手知ったる市庁舎。案内板を見ながら行くほどでもない。養護施設の業務などでこの窓口に来ることも、たまにはある。戸籍窓口は庁舎正面に近い位置にある。この日は幸いにも待たされることなく呼ばれた。
男女はそれぞれ同じ書類を出し、そのうちの一通をこの窓口に提出する。カーボン紙を挟んでで複写された下の紙が、彼らの控となる。夫となる人物が持参したほうの文書を戸籍係に提出し確認を受ける。この男女の婚姻後は夫の指名を名乗ることの意思表示がなされている。
確認は程なく終った。その上であえて妻となる人物が持参した文書の控にも、夫側の提出した文書の控同様に受付印を押してもらった。今のようにコピー機がいくらでもどこかにあって1枚当り10円、下手すれば5円で何枚でも複写できる時代ではない。こちらも夫の提出した文書同様、カーボン紙で複写されたもの。
20分かからぬ間に届を提出する行為は終った。あとは受理されて戸籍が整うのを待つだけ。数週間かかるが止むを得まい。この男女の合意による婚姻はこれにて成立した。晴れて夫婦であることが、社会的にも立証されるのである。
市役所内にある電話口に行き、男性が自分の職場に電話を掛ける。
相手はすぐ電話に出た。
「唐橋・無事終了」
「では」
当時の公衆電話は、間違い電話の対応のために10円玉が回収されるまでに数秒のラグがあった。こんなところで与太話する必要もない。打合せ通りのやり取りを書記の女性と終えて受話器を置くと、10円玉が戻ってきた。彼はそれをポケットに放り込むように入れた。
「初奈ちゃん、よつ葉園に向おう」
彼女は何も言わず頷き、彼にぐいぐい引っ張られるかのように庁舎の外に出た。タクシーはすぐに拾えた。岡山駅から乗って来たのと同じ運転手だった。
「次はどちらに?」
「津島町のよつ葉園までで」
現在時刻は16時35分頃。目前の通りを少し西に移動し、国鉄の操車場をくぐる道路を北に向って突き当りの三差路まで進み、少し東に移動。時間にして10分程度でよつ葉園に到着した。男性客は今度もタクシー料金と引換えに領収書を受領して彼女をエスコートして下車した。それからよつ葉園の門に同行の女性をくぐらせ、来客用の窓口に揃って現れた。
事務室の時計の針は16時50分。まだ勤務時間内である。
「唐橋先生と初奈さんですな。どうぞどうぞ、園長室へ」
応接室の向い側にある園長室に、唐橋指導員とその妻となる女性は案内された。自ら彼らを案内した森川園長は、二人に目の前のソファーに腰かけるよう勧めた。
ソファーに腰かけるや否や、唐橋青年は園長に求められる前に自ら鞄の中より、けじめをつけてきた証拠文書を突き付けるかのように提示した。
「この度私唐橋修也は、成瀬初奈さんとともに婚姻届を岡山市役所に提出して参りました。今後は私の姓を初奈とともに名乗り、夫婦として共に新たな人生を送ることになりました。以上、ご報告申し上げます」
「私成瀬初奈は、夫唐橋修也とともに夫婦として歩む道を選択いたしました。当面は現在の職場に勤めますが、機を見て主婦として子育てに専念できたらと考えております。森川先生、夫唐橋修也を今後とも何卒よろしくご指導いただければ幸いでございます。揃って不束者ですが、私共々、よろしくお願い申上げます」
文字にするといささか妻となる初奈の方が長めの挨拶をした。これまでよつ葉園の園長である森川一郎氏と面識がなかったわけではないのだが、職場として通勤してきて日々会話する夫ほど話してきたわけではないからである。
近く満70歳になろうとする森川氏は、いかにも好々爺然とした表情を崩さず、20代後半に差し掛かったばかりの男女にに優しい眼差しを向けている。しかしながらその眼差しには、いささかの厳しさも加わっている。
「この度は、唐橋修也君、初奈さん、ご結婚おめでとう。世上ではこの結婚というものをゴールと例え、それに飽き足らずゴールインなどと述べる阿呆も散見されるが、それは商売人が婚姻というものを商売のネタにしてゼニを巻き上げるべくやっておるがゆえの言葉に過ぎぬ。諸君のような恋愛結婚がかねて増加しておることについては、わしは必ずしも非を唱える気はない。むしろ歓迎さえしておりますが、かかる世上の予迷事に惑わされることなく、地に足をつけて婚姻生活を送っていかれることを、私はお二人に切に望んでおります」
事務員が持ってきてくれていた冷たい麦茶を口にし、森川氏はさらに続ける。
「ところで初奈さん、山上敬子先生を御存知か?」
「はい、本日もこちらに向かう電車でお会いして、お話いたしました」
唐橋青年、何かあったのかと一瞬冷や汗の出る思いに駆られる。
「初奈ちゃん、山上先生に発覚したのか?」
「こちらから、交際していると申し上げたわよ」
そこで少し間があいた。森川園長が、新婚夫婦たちの話を止めた。
「これ唐橋君、待ちたまえ。山上先生は諸君が交際しよることなど、とうに御存知であるわ。あの女史が気付かれんはずもない。じゃがあの娘(こ)もといあのおねえさんは、下世話なことは言われん。お育ちのエエお嬢さんですぞ。お世辞にもお里の良いとは言えぬわしには、あのような品は望むべくもないでな」
いったん話を止めて麦茶を少しばかり口にし、森川氏はさらに続ける。
「かかる品格ある女性には、私は、できる限り長く、せめて定年と規定しておる年齢を迎える年度末まで、よつ葉園で働いていただきたく思っておる。結婚した、子どもができた。そういう理由で女子は仕事をやめよとは、わしは思っておらん。初菜さんがどういうご意向かはわからんが、今のお仕事が女子一生の仕事となるかどうかも、それは社会の情勢やお二人の状況もあるとはいえ、そういう人生も悪くはないのではなかろうか。愚生の今申したことが、お二人の人生の糧になればこれ、幸じゃ」
そこまで言って、森川園長は話を止めて残りの麦茶を飲み干した。
ようやく17時が到来した頃。夏の太陽はまだ高い。
「それでは諸君、この度はおめでとうございました。お喜びのところ早速じゃが、かねての話どおり、明後日23日水曜日はよろしく頼みます。何分幼児が多い班であるから、保母と年長の女子児童も入れておるけど、道中いささか心もとない。それから第1班の帰路は、何分引率者がおらんですからな。よろしく頼みます」
「わかりました。明後日は9時に初奈とともに「出勤」いたします」
「そうじゃな。職員会議もあるので、初奈さんはその間この園長室で待機願います」
「かしこまりました」
かくして、この日の唐橋指導員の業務は終わった。
「それでは諸君、これは私からの改めての結婚祝じゃ」
森川園長は、唐橋指導員に封筒を渡した。
「ありがとうございます」
のしもない、単なる茶封筒。その上には、森川一郎としか書かれていない。
あとでその封筒の中身を確認すると、3000円が入っていたという。聖徳太子の1000円札が2枚、岩倉具視の500円札が2枚。
そのお札の入れ方には、森川氏のメッセージが隠れていた。
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