第16話 新しい気動車で 新婦編

 15時28分の定刻で、宇野から来た気動車列車は茶屋町駅を発車した。あと30分だけこの列車に乗っていれば、そこは岡山の駅、そしてそこから彼とともに街に出られる。改札口には、彼が待っている。


 茶屋町を出て間もなく、最初の停車駅である久々原に停車する。駅とは名ばかりの停留場扱いの無人駅。ここではさほど乗降客はいない。しかし、次の早島では岡山方面への乗車客が多数乗込んだ。それもそのはず、この駅は早島町の中心駅。この町の農家の人たちの中には、岡山まで買い物などの用事で向かう人も少なからずいる。わざわざドアの近くに立っている客もいないではないが、まだ座席にはいくつか空きがある。

 彼女は既に席を得ており、岡山まで座ったままで移動できる。特に便所などに行く用事でもない限り、その席を立たされる必然性もない。


 この頃の宇野線はまだ電化されておらず、客車列車と彼女が今乗っているような気動車列車があった。気動車列車は加速と減速に優れている。さすがに電車に比べれば劣るが、それでも客車列車に比べれば格段に優れているため、各駅停車に利用されているのである。この頃より準急列車への気動車投入もされているが、宇野線の準急列車や急行列車はまだそこまでには至っていない。その代わり、岡山を経て関西方面への二等車も連結した快速列車とでもいうべき普通列車が何本も設定されている。東京方面には急行「瀬戸」が設定されているが、これは宇野線沿線というよりも四国連絡による高松より先からの客や逆に岡山より東からの客のための列車。食堂車こそないが寝台車も二等車も連結している。四国連絡の客はこの列車に乗ればそれほど待つことなく宇高連絡船に乗って高松に渡れるのである。

 彼女の乗るこの気動車は、キハ17型。つい数年前から大量生産されて全国に配備され、蒸気機関車の牽引する列車にとって代わりつつある。厳密に言えばこの手の気動車も煙を出さないわけではない。軽油を使用してエンジンを回して動かすが、排気ガスがその代わり出ることになる。一部の鉄道好きの人たちにはその煙やエンジンの音を喜ぶ人もいるようだが、一般人からしてみれば、それもエンジン音と同様、公害につながるシロモノには違いない。

 とはいえ気動車や後のディーゼル機関車ともなれば、蒸気機関車の煙に比べて耐えられないほどのものではない。東海道本線をはじめとする大幹線や大都市圏では気動車を経ることなく直ちに電化されてきたが、地方の路線や幹線でも東京や大阪から離れた区間では、電化に間に合わない場所を中心にこの手の気動車が順次投入されて活躍し始めている。

 こうした動きは、すでに「無煙化」という言葉で示されるようになっている。

 煙に悩まされることなく、列車がトンネルに入るときや出るときに窓を開閉しなくてもよくなる。それは、当時の人たちにとってどれほどありがたかったことか。彼女にしても、そう。自分の顔と折角の服を蒸気機関車の煙で汚さなくて済む。


 さあ、彼女の旅路に話を戻そう。

 次の備中箕島でも、それほどの乗降客はない。その代わり次の妹尾でまた、早島停車時を上回る数の乗客が乗込んでくる。わずかながらの客が降りた後、列車内は岡山までの客でほぼ満席になった。立客もすでに多い。夕方を控えて岡山に戻る客やこれから岡山に用事のある地元客の行き来は思ったより多い。

 次の備前西市でこそそれほどの乗車客はなかったが、明らかにこれまで以上の客が乗車してきている。最後の停車駅である大元は、郊外とは言え既に岡山の市街地にほど近い場所にある。ここから乗車して岡山に出る客、普段なら岡山から乗車してもいいとは思うが近いのであえてここから乗車する長距離客もいくらかいる。少し離れた先にある商業高校に少し遠いところから通っている生徒が、この駅から何人も乗込んできた。今は夏休み中。ちょうど部活動などを終えた帰りであろう。

 車内は既に満杯。乗車率にして160パーセント近くか。しかしそれも、わずか数分の辛抱である。彼女は茶屋町からすでに座席を得ているので、立ったまま移動しなくてもよいし、不埒な行為に走る異性の客を気にしなくてもよい。


 かくして列車は定刻で岡山駅の宇野線ホームに到着した。時刻は16時前。午後4時が近づいている。

 市役所はおおむね17時、午後5時まで開庁している。岡山市であれば当直もあるからそこであの届を提出することも可能ではある。しかしながら不備があると訂正もしくは再提出のためにまた来なければならなくなる。

 だが、自分は心配ない。すでに彼があの届を持っているから。とはいえ、彼女もまた不測の事態に備えてもう一通作成している届を持っており、どんなことがあってもきちんと届ができるよう、この夫婦となる男女の準備に抜かりはない。

 初奈嬢は着替えと人生で一度しか出さないであろう届と財布を鞄に入れ、跨線橋を渡って岡山市の表玄関になる東口の中央改札へと向かい、改札を抜けた。

 改札を抜けると程なく、つい3時間ほど前に茶屋町駅で別れた男性を見つけた。というよりは、彼に見つかったと言った方がより適切であろうか。

 彼に抱きつきたいほどの衝動を抱えながら、彼女は彼のもとに駆け寄る用に近づいた。そんな彼女を彼は黙ったまま、彼女のいささかか細い右腕を自分の左腕で抱えるように組んだ。眼鏡をかけた少し上背のある優男だが、ここぞというときにはこんな対応をすることもある。

 しかし、ここまで正面切って俺について来いと言わんばかりの反応をされたことは滅多にない。いや、このときが初めてだったかもしれない。最初で最後とまでは言わないが、彼のこのような動きは人生で何度かあるかどうか。

 彼女は彼のなされるがまま、彼とともに目的地へと向かい始めた。


「ハナちゃん、市役所に急ごう!」


 唐橋青年は一言のべて、彼女の腕をちぎらない程度に強く組んで駅の外へ出ようとした。そのまま彼らは東京の上野駅に似た造りの駅舎を出て、タクシー乗場へ。幸先がよいのだろうか、タクシーの待客の列は途切れていた。彼らは一切待つことなく、すんなりと先頭のタクシーに乗車できた。中年の人のよさそうな運転手だ。若い男性客が連れの女性を先に乗せ、それに続いて彼も乗込んだ。

「市役所まで、大至急お願いします」

「わかりました。市役所ですね」

 まだ渋滞の始まっていない時間帯であるのは幸いだった。10分もせぬ間に、二人を乗せたタクシーは大供にある市役所に到着した。

 運転手に領収書と釣銭を受取り、唐橋青年は横の女性を力強くエスコートしてタクシーの外へと連れ出した。あとは、目的地に急ぐのみ。

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