第15話 行きの軽便電車にて

 昼一番の列車に茶屋町から下津井まで車掌として乗務した成瀬車掌は、下津井駅到着後、朝から2往復を共に乗務した運転士とともに運転所での点呼を終え、夏物の制服を鞄に入れてとっておきの私服に着替えた。

 彼女はこの後3日間、有休と公休による休みを取っている。彼女の事情をよく知る会社幹部がそうするよう勧めたことは言うまでもない。

 しかしながら、そのうちの1日は出勤扱とされる。翌々日7月23日水曜日は、よつ葉園より児島に行く間の第2班の引率と、その後児島から岡山に戻って来る第1班の引率を唐橋指導員とともに手伝うことになっているからである。


 なぜそんなことになったのか。

 それは、第2班の構成にその大きな理由がある。この第2班は、特に幼児=小学校入学前の幼い子たちを多く入れている。第1班は中学生の男子児童も加えているが、こちらは中学生の女子児童を数名加えている。それはひとえに幼い子どもたちを見守る体制ができていないと困るという、その一点に尽きる。中学生の男女を一緒にしないのは、思春期でお互いに気まずい事態が発生することを避けるためだ。

 そのため、唐橋指導員と現段階では彼の交際相手でもあるが同時に鉄道会社の社員でバスガイド経験もある成瀬車掌にもその行き来の間手伝ってもらうことが、会社とよつ葉園との間で話ができているのである。当然彼女にとってはこれは普段の業務の一環ということになるが、よつ葉園の子どもたちの引率というのは仕事というよりもむしろ今でいうボランティアの要素の高い仕事である。

 水曜日の復路も彼女は唐橋指導員とともによつ葉園の子らの帰路に同行するが、これは引続き山上保母と磯貝青年が現地に金曜日までとどまるためである。

 第1班は幸い未就学児はいない。帰路の付添は彼ら二人で十分対応可能である。


・・・・・・・ ・・・・・ ・


 点呼を終えた成瀬初奈嬢は、直ちに着てきた私服に着替えた。岡山滞在に必要な着替えを入れたバッグを持って、14時30分発の列車に便乗して茶屋町経由で岡山へと向かう。

「初奈さん、いよいよですね」

 同僚である大山洋子車掌に声を掛けられる。数歳年下の後輩にそう言われても、悪い気はしない。彼女がいつも仕事で乗務している路線を、電車は淡々と進んでいく。カーブを曲がり切った後は勾配を駆け上り、丘の上から瀬戸内海を見下ろす。今日は児島競艇の開催日らしい。そろそろ最終レースが近づいている頃。豆粒のように見えるボートたちが一刻一瞬を争いながら周回している。

 ゆっくりと勾配を降りりた先の小さな八百屋と散髪屋が並ぶ集落を通り抜け、電車は児島の市街地に入ってくる。いつもならここで自分の声を車内に響かせるが、今はその必要はない。一人の乗客として、よく知った後輩の女性車掌の声を聴きながら、ただひたすら電車の揺れに身を任せていればいい。

 児島駅では、下津井方面からの多くの客が降りた。ここからさらに、児島市への出張を終えたビジネス客や児島市内に用のあった地元客らをたくさん乗せる。とはいえ今は午後3時前。満員になって立客が出るほどのこともない。

 電車は児島のターミナル駅を出発した。


 30分もすれば茶屋町。宇野から来る列車に乗れば、4時には彼に会える。それから1時間もすれば、特に不備のない限り成瀬初奈としての人生を終え、新たな人生が始まる。今はその前のちょっとした孤独という名の試練なのかな。

 成瀬初奈としての人生も悪いものではなかった。でも、これから先の人生はもっといいものになるのではないか。子どもの頃から彼は悪い子では全然なかった。それを言うならいい子。今は眼鏡をかけたやせ目の優男だけど、芯の強いところがある。短期大学を出てすぐに就職した養護施設で職員として6年も務めているが、彼は上司で経営者でもある園長に交渉して公務員並の賃金体系を実施させた。

 彼の妻として専業主婦でいれば幸せかもしれない。でも、それがいいのか。修也はあの職場にいつまでもいられるかな。私の父が、もしよつ葉園がしんどくなったら浅口教関連の仕事もあるから遠慮なく言うてこいと言っている。よつ葉園は男が一生勤められる場所ではない。そもそも子ども相手の仕事はそう長く続けられるものでもないと、父は酒を飲みながら修也に熱心に語っていた。


「隣にシュウ君がいてくれたら・・・」

 そんなことも思ってみる。彼と他愛ない話をしながら一緒に同じ屋根の下で暮らせる幸せはすぐ目の前にあるというのに。

 なぜか、一抹の空しさと寂しさが感じられるのは、なぜなのかしら。

 成瀬初奈嬢は、いつも仕事中に見る景色に目をやるともなく見ている。後ろの車両では、彼女もよく知る後輩が自分と同じように仕事している。

 先頭にいる運転士もそう。彼は自分より数歳先輩で、入社時からいろいろ教わってきた。修也君と喧嘩した時も、彼のアドバイスで仲直りできたくらいだし。痴話の言い合いを聞かれたら、今朝の運転士と一緒に、それはうまく行っている証拠と言われた。彼も今朝の同僚同様、阿津の散髪屋に行っている。確か先週の金曜日が休みで、社員の乗車証を使って阿津まで行って散髪した帰りに見かけたっけ。


 初奈嬢がいろいろなことを思い考えている間にも、列車は刻一刻、一駅ごとに終点に向っている。いささかきつい勾配を超え、軽便にしては長めの川を渡り切り、列車は平地へと進んでいる。天城駅を発車すると、終点茶屋町はもうすぐ。少し東側のほうから、宇野から岡山へと向かう宇野線が目の前に見えてくる。

 茶屋町駅には、定刻に到着した。

「初奈さん、お気をつけて」

「成瀬クン、がんばって来いよ!」

 初奈嬢は社員が使える乗車証を駅員に提示し、国鉄の茶屋町駅へと向かう。後輩の大山車掌と改札に出ていた茶屋町駅長の見送りを受け、彼女はつい数時間前にかの男性にしたのと同じように手を上げて自分の会社の敷地から飛び出した。


 同じ茶屋町駅でもこちらは国鉄の茶屋町駅。ここからは切符が必要である。彼女は下津井電鉄とういう会社の社員ではあるが、国鉄の職員ではない。岡山までの運賃は40円。唐橋修也青年に前の誕生日にプレゼントされた財布から板垣退助の100円札を出し、穴の開いていない昭和30年のニッケル製の50円玉とギザギザの入った昭和32年の10円銅貨をお釣りとして受取った。その小銭はその財布にある小銭入れに入れ、財布を閉じて着替えの詰まったカバンに入れた。

「シュウ君、この服、喜んでくれるかな?」

 鞄を開閉しているうちにちらっと見た着替えの服。どれもひとえに、彼に喜んでもらうべく今朝の乗務の前に選んだものばかり。


 程なく、宇野方面から3両の気動車がやって来た。実はこの列車、つい2時間ほど前に彼女の良く知る人物も乗っていた列車とまったく同じ車両での編成。別に申し合わせたわけでもないが、彼女はなんと彼が乗ったのと同じ車両に入り込み、中ほどの座席の窓側のある席に進行方向に向けて座った。

 この時間も、岡山に向かう人はいる。座席はここで半分以上埋まった。

 泣いても笑ってもあと30分。この列車に乗って降りれば、そこは岡山である。

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