第55話 遠浅の海と仏様の御前
二十数名の団体が海水浴場にやって来た。中高生の男女に加え引率の青年男女はそれぞれの更衣室で着替え、泳ぎ始める。今日も海水浴場は賑わっている。若い男女もいれば親子連れもいる。少し離れた場所で、年配の男性が一人で泳いでいる。
「あのおじさん、泳ぐの上手いな」
ある少年が一言。それに反応したのは、奉仕活動に来ている佐藤大勢青年。
「あ、あの人知っとるわ。元海軍の人じゃ。海軍兵学校に行った人。そりゃあ、江田島で鍛えられとるから、あのくらい普通じゃ」
彼の交際相手の従妹になる大山美香保母助手がそれに次いで答える。
「私もあの人シッテル。倉敷で会社の社長しとるんよ。戦争終って海軍から戻って会社継がれた人」
「へえ、元海軍の人、すごいな」
「そりゃそうだ。海で泳げないと死んでしまうからね。ああなるともう、海水浴というよりも「海水泳」じゃわな」
数年前、宇高連絡船の紫雲丸が濃霧の中第三宇高丸と衝突し沈没。この事故で修学旅行中の小学生が多数犠牲になった。前年の青函連絡船洞爺丸の事故もあって、国鉄総裁が辞任することに。これを機会に青函トンネルや瀬戸大橋の建設機運が高まったものの、今日に明日で完成するわけもない。
そこで当時の文部省は、小中学校でのプールでの水泳を正課として取入れた。彼らの通う小学校は街中の伊福小学校であるため、かなり早い時期にプールが完成している。プールの授業は夏場には涼をとる絶好のチャンス。シャワーを浴びて塩素で消毒した水中を泳ぐ。だが、海での海水浴は本来泳ぐためのものではなく、海水と海風を浴びることで健康を増進することが目的であった。何も元海軍のおじさんのように泳ぐことを目的とはしていない。良くも悪くも。
「海水泳、かぁ。なるほどなぁ」
「そりゃあ、学校の授業じゃできんよな」
近くにいたよつ葉園の少年たちが、大学生の言葉にうなるようにつぶやいた。
彼らは16時前に戻ってくるように言われている。時間が来たようである。引率者代表の佐藤青年の指示により、全員陸の上に無事に上がった。この後男女別に設けられたシャワーを順次浴びて着替え、××院へと戻った。
・・・・・・・ ・・・・・ ・
少し時間を戻して、××園の本堂へ。
子どもらが海水浴に行っている間、本堂は出入りの人々で一杯。車を持つ中田信子嬢に加え、個人タクシーの国安氏などが児島駅からの来場者をピストン輸送して××院へと順次送り込んだ。彼女の家に宿泊した岡山市内の大学生男女2人も、結婚式場の来場者受付を手伝う。今日はなぜか、地元のラジオ局とテレビ局も取材に来ている。結婚式は15時に始まった。懐中時計を持つ副住職の声が、その始まりの合図であった。約40分の厳かなときを経て、唐橋修也と成瀬初奈の二人の男女は晴れて仏様の前で夫婦として名乗りを上げる許しを得た。両家、とりわけ新婦方の両親はじめ親族のホッとした顔が、来場者の心を打つ。
それもそのはず。新郎である修也氏は結婚式など行う気などまったくなかったのだから。婚姻届を提出して法的に夫婦としての地位さえ得られればそれでいいというのが彼の主張。妻となる初奈嬢、いささか彼の言動に不安のようなものを感じたのか両親に相談した。さすがにそれはなかろうと、彼らは旧知の唐橋家の親たちにも相談した。しかしそれでも埒は開かない。泣き落としさえ通じない状況に、彼らは岡山にある息子の職場の代表者であるよつ葉園の森川一郎園長に相談し、こうして何とか、娘の晴れ姿を拝めたのだから。
「おじさん、これで何とかなったね」
「そうじゃな。わし一人では正直かなわなんだ。哲郎がおってくれて何とかなったようなものの、あのまま行っとってみぃ、あの子らぁは神仏の援護もなくいずれ雲散霧消の如く別れる方向に行ったかもしれん。じゃが、これで安心。業務の一環として結婚式を行い、仏前だけでなく人前でもその姿を披露することで、あの子らは間違いなく生涯寄添って生きていけるじゃろう」
森川一郎園長は、大宮哲郎青年を連れて昼過ぎに岡山から宇野線と下津井電鉄を乗継して児島まで来ていた。児島駅からは、国安聡志氏が運転するタクシーでまずは行きがけの駄賃がてらに児島市内の被服製造会社に挨拶に行った。よつ葉園の子どもたちの就職関連の挨拶とお願いを兼ねていたのである。
この頃の児島市は現在以上に被服の街として有名であった。集団就職で四国や九州など他地方からの集団就職も受入れていた。加えて戦後設立された児島競艇場の売上も大きな税収をもたらしている。宇高航路を現国鉄が設定して後、丸亀と下津井を結ぶ四国連絡の航路は苦戦を強いられているが、それでも児島市は繊維の街として全国にその名を知られている。当時は今時以上に学校制服に大量の需要があった。それに加え、ジーンズ。そもそもジーンズは、ゴールドラッシュ時のアメリカで金を掘る者たちのための服として誕生している。この街もまさに、金の卵たちに服を売ることで大発展を遂げている途上であった。
「わしが唐橋君に取った措置は、いささか公私混同と言われる手法かも知らん。だがこれも、今このよつ葉園にいる子らの糧になるもの。あのクンをあえて出勤扱にしてこの行事と抱合せで挙式を行ったが、どうじゃ哲郎。あのクンの損得勘定に訴えるが如き手法をとったが、人を見て法を説けとはよく言ったものじゃな」
「確かに、それは感じました。ええ。この夏は、ぼくもいい勉強させていただいています。けどさぁ、夏って季節は、人間の欲望というか、煩悩が最も湧き上がる季節なのかもしれない。そんなことを感じるぼくが異常かもしれないけど」
「自主申告するほども異常ではなかろう。ま、この行事つながりだけでもあれこれかれこれあるからな。全くどいつもこいつも、のう・・・」
老園長の言葉に、法学徒が答える。
「法を学ぶというよりも、ぼくは今、阿呆を学んでいるのかもしれない。法文学部法学科というより、法文学部はいいとしても阿呆学科にいるみたいだ」
法学徒の言葉に老園長はぽつりと、しかし彼にとって重い問いかけをした。
「法も大いに学べばよろしい。じゃがな哲郎、阿呆を見て学ぶことも同列で重要ではなかろうか。世上は貴君の如き賢者ばかりではない。むしろ、馬鹿と阿呆の絡み合いが圧倒的に多いときており、その中で貴君は生き抜いていかねばならぬ。とはいえ、阿呆を見て糧にするのはよろし。じゃが、自ら阿呆となることはないぞ」
老紳士の言葉に、若き法学徒は黙って頷くのみであった。
掛時計が4回、ときの音を打った。本堂によつ葉園の子らと職員、それに引率の子らが揃ってやって来た。彼らの前に、新郎新婦の姿が披露された。
「唐橋先生、おめでとう!」
男子児童を中心に、祝福のことばが本堂に響いた。他の列席者はそれぞれの席についている。この後程なく、列席者のための宴が始まる。何人かの女子児童と女性職員が残って宴の準備をした。適度に準備をした段階で、彼女たちはお役御免。離れへと戻った。こちらも、ほどなく会食が始まる。今日は世にもおめでたい日。仕出し弁当が程なく届けられた。それはすでに、男子児童らが本堂のある建物からすでに離れへと運んでくれている。
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