第56話 宴の間にも本塁打
本堂のほうの準備も整った。司会は中田信子嬢。厳かな式に引続き披露宴が彼女の仕切りに従って進められる。住職、両家の親、そして本人たちが順次挨拶。
ついに、乾杯の音頭を森川一郎園長がとることに。学生服の青年が各方面に声をかけていく。彼は学帽をかぶっている。大宮青年が会場をくまなく確認し終え、後ろから学帽を高々と掲げた。それを機に森川園長が乾杯の音頭をとった。中田信子嬢が言葉を添え、宴は始まった。
宴が始まって30分程した頃、副住職が一言。
「皆さん、そろそろ始まります。ここで、酒の肴をもう一つ出しましょう。本日は広島市民球場で広島対巨人戦のダブルヘッダー第1試合が中継されます。よろしければどうぞ、こちらでご覧ください」
その時点ではニュースがオンエアされていた。テレビのスイッチが入ったと同時に、広島での光景が動画で撮影されている。無論、この日の慰霊式典。かつて威容を誇った洋館は廃墟となって13年。原爆ドームと名を改められて久しい。ブラウン管の画面は程なく、道路を挟んでその反対側の球場からの中継へと変わった。
「四番・サード・長嶋」
特に抑揚もなくその言葉が男性のアナウンサーより伝えられたとき、参列者の間にどよめきが走った。職業野球をけん引してきた東京読売巨人軍の4番に、昨年末立教大学より入団した新人選手が名を連ねたのである。そこに重大な意味を持って聞いた人も少なからずいた。もっともここは披露宴の場。野球ばかりに目が行っているわけでもない。目の前の主食に目が行く参列者も多い。それでも長嶋選手の打席となればテレビに多くの人の目が釘付けとなる。
長嶋の第一打席はセカンドフライ。
参列者の目と意識は次打者川上が打席に立つと目の前の酒肴へと戻る。赤バットと弾丸ライナーを代名詞として長らく巨人の4番を務め、開幕時はまだ4番にいた大打者も、この黄金ルーキーの前にかすむ存在となり始めている。
広島の中本富士夫投手を打ちあぐねていた巨人軍は4回、三番打者の与那嶺要がライトに単打。次は4番長嶋。先の安打が呼び水となり、参加者の目が一斉にテレビに向く。正副住職各位もまた、その画面にくぎ付けになっている。
一球、ストライクを取られた。しかし、中本投手が2球目を投げて間もなく、右打席に立つ彼のバットがそのボールを確実にとらえた。すさまじい打球音が広島の地からテレビを通じてこの寺の隅々まで響き渡る。気付くと、打球はライトスタンドに吸い込まれていた。この試合の先制2ラン。長嶋茂雄選手初のライト側への本塁打でもある。
長嶋の打球が右翼席に突き刺さったと同時に、本堂にどよめきが走った。それはやがて大きな歓声のようなものへと進化する。誰もが、この黄金ルーキーの活躍に驚きを隠さない。何か新しい時代がここから始まるのではないか、それと同時に過去の何かを拭い去ることへの期待の込められた、そんな空気がこの地を支配する。
一塁から与那嶺が生還し、ほどなく本塁打を放った長嶋もまたダイヤモンドを一周して与那嶺を追い越すことなく本塁に生還した。
次打者川上が打席に入った頃にはどよめきも静まった。
かつて若い頃、あるいは幼少期にこの大打者の活躍に心躍らせたであろう大人たちは、彼の打席を淡々と見ているものの先ほどのような熱を込めてその打席に注目しているわけでもない。川上に続き岩本も凡退。その回の巨人の攻撃は終わった。
その裏の広島の攻撃が終り、次回の表の最初の打者・今日は7番に名を連ねる強肩にして強打の捕手・藤尾茂も追加点を奪う本塁打を放った。その打席をじっくりと見ていた客はあまりいなかったが、しっかりと見ていた男性客もいた。
「さすがは藤尾、あっぱれじゃ!」
その声の主は、現在大阪タイガースで遊撃手吉田義男とともに鉄壁の三遊間を形成する地元出身の三宅秀史選手を後援する中年男性だった。
一方、離れのほうではよつ葉園の中高生と若い保母、それに奉仕活動の青年たちが食事をしている。酒は出されていないが、こちらにもテレビがある。彼らもこの時間の野球中継を見ていた。長嶋の第2打席、彼が本塁打を打つと同時にこちらでも歓声が上がった。プロ野球が国民の娯楽として幹線に定着していく土台は、こうしてこの地に至るまで確立されていることが明らかとなった。
さて、こちらは子どもらのいる離れ。世話がてらに仕出し弁当を食べている若いアベックが、屈託なき子どもらの向うから冷めた目でこの光景を見ている。
「大勢(タイセ)ちゃん、長嶋って人、そんなにすごいン?」
朝からの乗務を終えて早めにこの地に来て手伝いをしていた大山洋子嬢が1歳年下の大学生に尋ねた。野球好きの男性の同僚の中には野球好きの人も多く、確かにそこで長嶋という名前はかねて耳にはするが、本人自身は野球というスポーツにそれほど興味はなく、詳しくは知らない。聞かれる佐藤青年も野球に強い興味を持っているわけではないが、大学近くの喫茶店でたまにスポーツ新聞の見出しなどを見てその名前を見聞きはしている程度。
「すごい選手は他にもいるけど、この人は時代を作っていく人どころじゃない。この長嶋って人は、職業野球を社会に認めさせるために出て来たような人や」
「野球なんて、何が楽しいのかな?」
彼女の疑問はある意味もっともかもしれない。
「ぼくは楽しいけどね、見ている限りは。ただ、あんな仕事、したいとは思わん」
「仕事? 野球が?」
「野球だって、お金をもらってやればそれは仕事でしょ。洋子ちゃんが電車に乗って車掌さんしているのと一緒。野球とは言うけどそこらの子どもの遊びと違ってきつくて危険な仕事だけど、活躍すればそこらの社長なんか比較にならんお金がもらえるばかりか、いろいろなことで注目してもらえもする。それも、何だかなぁ」
「タイセちゃんには、そんな仕事して欲しくない」
彼女の眼鏡の奥の瞳が少し曇る。
「ぼくはそんな仕事しないよ。中田さんがツキアッテル内山さんみたいに小説家を目指すなんてとんでもない。父方の伯父みたいに政治の世界に入るとかね。野球を仕事でやることは、そんな世界に入っていくのと一緒じゃ」
この後彼は大学に残って研究者への道を進むことになるが、最初は会社勤めに進もうと思っていた。そんな折、大学院への進学を研究室の教授から薦められて進路に悩んでいたとき、洋子嬢の紹介で出会った茶屋町駅助役の青木進青年に、それなら是非研究室に残るべきだと言われた。相談相手が国鉄の本社採用の職員で東大出身という出自。彼の周囲にはそういう人物など掃いて捨てるほどいる。彼が言うには、理系なら大学院進学を選んだ方が、研究者も含めて進路が広がるとのこと。
洋子嬢からしてみれば早く大学を出て仕事して欲しいという思いもあったが、それを聞いて彼にむしろ進学を進めるようになっていた。
当時の野球の試合時間は今より短かかった。午後7時になる頃には試合終了。この後第2試合もあるが、中継はここまで。宴会もまた、ここでお開きとなった。
この試合、巨人が3対1で広島を下している。
なおこの後半世紀来、8月6日に広島で公式戦が行われることはなかった。
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