第58話 そして、宴の後 2
本堂に寝泊まりするのは、住職ら××院の僧侶の他には、よつ葉園の森川一郎園長と大宮哲郎青年の2人のみ。大宮青年は、森川園長の付き人というか秘書というか、そういう立場で同行している。彼が大学に合格してこの3年間、森川園長は大宮青年を連れてこの行事の最後の前日に来て住職らに挨拶をしている。
すでに宴会後でもあり、あまり酒を飲みまくるわけでもないが、彼らは本堂にある風呂を借りてそれぞれ入浴し、さらにもう一献と相成った。
「森川さん、お疲れさまでした。今年は唐橋君ご夫妻の結婚式まで加えられて、それの影響もありましたが、この暑い中、よく乗り切れましたな。ホンマ、お疲れさまでした。これでお盆は、少しくらいゆっくりされてもよろしかろう」
この寺の住職は森川園長と同年代であり、旧知の仲でもある。
「いやあ住職、今年はホンマ疲れましたわ。このところ同行してくれとる、というかわしが酒食を出汁に呼びつけとるわけじゃが、大宮哲郎君にとってもええ学びになっておるのではないかと思っておる。司法試験の対策と称する勉強も大いにやればよいが、こうして、市井の様々な人の動きや心、何なら煩悩と申そうか、そういうものを肌身で観て聞いて学んでおくことも肝要ですからな」
「とまあ、森川先生かく仰せであるが、今年はいかがであったか? この夏のわずか20日弱。世界を揺るがしまではせんかったろうが、大宮君にとって様々な意味で自らを揺るがされた期間ではなかったかと当職は思料するが、如何に」
副住職は湯呑の酒を飲みつつも眼鏡を光らせつつ、目の前の青年に尋ねる。
「自らを揺るがした20日間、ですか。何だか、アメリカ共産党員のジョン・リードのロシア革命のルポみたいですね(苦笑)」
彼はそのルポを、高校の図書室で見つけて読んでいたという。
「まあそこまでの革命ではないにしても、自分が先月半ばの試験まで勉強していた世界とは全くの別世界ですよ。ぼくはどのみち明日は森川先生のお供で特に海水浴などせず帰りますが、このわずか20日弱の間に森川先生から聞かされた話、他の人から見聞きした話、いろいろありますけど、どれを見ても、なるほど、世上の動きも常識も通用しない世界を知った上でないと人を裁いたり裁きに乗せたり、あるいは人の代理人と称して相手に物言いをつけたりつけ返したりなどするものではない。そんなことを悟らされましたね」
住職が、満面の笑みを浮かべながらやさしさを前面に出して答える。
「大宮君、あんたは実に賢明なる人物じゃ。わしもこう見えて、若い頃はおねえさんらとよう遊びました。あなたほど勉強できたわけもない。仕事はまあぼちぼち。世上にどっぷりつかって生きていくことに疑問を持つこともなく生をむさぼっておりました。懐かしいのう。今はこうしてあの遠浅の海で無邪気に戯れておる子ら、その子らを見守りに来ている若い人らもそうですけど、そうして遊べる日々は、永遠ではありませんからな」
「所詮はそれも一刹那、ということでありましょうか?」
大宮青年の質問に、今度は副住職が答える。
「左様。今でこそあの砂浜は遠浅のきれいな海です。しかしあの遠浅のきれいな海も近く見納めとなります。埋立して工業用地とする計画が浮上しておりましてな。貴君に何も明日は泳いで遊び惚けて帰れとは申しませんが、その景色、しかと御覧になっておくことも肝要ではなかろうか」
そのような計画が上がっていることは、彼も兼ねて聞き及んではいた。しかし、具体的にどうなるかまで知っているわけではない。
「副住職さん、いつ頃から工事が?」
「当職の知る関係各位の話では計画段階であるものの、数年後には具体化されて予算も付けられ、工事も始まる。もう数年もすれば、あの遠浅の海で海水浴などできなくなることは確定事項です」
「海水浴は夏だけですが、工場は年中、盆正月も構わず金を生み続けますから」
青年の言葉に、年長者たちは何とも言えぬ表情に。その言葉の主は、ふとあることを思い出し始めた。1950年夏。森川園長と父親、兄とその友人たちとともに塩生の海水浴場に来た。進駐軍の日系将校で日本研究者のダグラス・ヨシダ中尉に紹介され、この地で3日、××院に泊まりつつ海水浴を楽しんだ。ヨシダ中尉からいろいろな話を聞かせてもらったのも、いい思い出である。
ヨシダ氏は帰国後アメリカの大学で日本研究科の教授になっており、ときに来日している。兄の友人の一人は検察庁に入庁して検察官になり、もう一人は××省の官僚となって、それぞれ東京で活躍中である。実はあの家族旅行は、その後よつ葉園で毎年夏に開かれるこの行事の下見も兼ねたものであった。
「明日はあの海を見て帰ります。カメラ、持ってくればよかったかもしれません」
「それなら御心配無用。本院にあるカメラを使ってください。フィルムは1本さし上げるから、それでしっかりと、この地の光景を収められたい」
副住職が近くに置かれていた一眼レフのカメラを持ってきた。
「これで、毎年海水浴の日に写真を撮って差し上げております。貴君はあの子らが海水浴に行く前に、どうぞ朝の散歩がてらに行って来られるとよろしい。あの静かな遠浅の海、貴君の子どもが生まれる頃にはすでに過去のものとなっておろう。子や孫らに、写真という形でこの財産を残していただきたい。それからもう一つ。出来上がったらお兄さんやその友人各位、それにヨシダ教授にも機を見てさし上げなさい。皆さんにとっても、良き思い出のよすがとなりましょう」
青年と副住職のやり取りの一部始終を聞いていた住職が、二人と森川園長、そして自らの湯呑に酒を継ぎ足した。
「皆さんお疲れさまでした。大宮君におかれては明日の仕事が一つできましたな。それでは、もう少し飲み語り合いましょう」
住職のやわらかな声が、夏の短い夜の帳にやさしくこだました。
「しかし、この塩生で泳げんことになったら、子どもらぁ、悲しみましょうな」
森川園長の問いかけに、住職が答える。
「その節には、うちを起点にいろいろ回って楽しまれるとよろしかろう。海水浴はその期間内によそに行かれるとよろしい。六口島もあれは渋川もありましょう。ここからちと歩いてとは無理ですが、あちらは工業用地になりはせんでしょうから」
近く住職に昇格することが決まっている副住職が、さらに述べる。
「当職は、よつ葉園さんと良きご縁をいただいてありがたく思っております。しかしながら、無理してまでお越しにならずともさらに良きご縁があればそれでよろしい。会者定離(えしゃじょうり)と申します。腐れ縁よろしく無理されずとも構いませぬよ。当職といたしましてはまた形を変えてご縁あらばありがたく存じます。改めて問大宮君に尋ねる。会者定離、御存知かな」
青年は、湯呑の酒を飲んで一言回答した。
「はい。会う者には必ず別れあるもの。これも宿命のひとつと思料します」
翌朝、大宮青年は夜明けとともにカメラを持って塩生の遠浅の海を撮影した。朝から散歩している地元の人に何人か挨拶され、自らも挨拶を返した。
この日も晴れ。海水浴客も海水浴場の管理人もまだ誰も来ていなかった。
熱狂の狭間に静けさをたたえる遠浅の海は、かくして永遠のものとなった。
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