幼児たちの遠足と引率の若者

第26話 幼い子たちのえんそく 往路

 翌日の7月24日・木曜日。

 中学生の子らはよつば園にいるときと同様、朝6時30分に起床。それから準備をして7時前に未就学の幼い子たちを起こした。いかんせん小さな子たちなのであまり掃除などを手伝わせるわけにもいかないが、一応ここまで来ている以上、仏様に御挨拶だけはしないわけにもいかない。そういう文化を幼いうちから教えておくことも肝要であろう。おねえさんや保母さんたち、さらには奉仕活動中の青年らにも付添われて、子どもたちはお行儀よく座布団の上に正座して見よう見真似で手を合わせ、お経を聞きながら15分ほどの時間を過ごした。


「皆さん、お行儀良く過ごせましたね。仏様もきっとお喜びでしょう。それでは、朝ご飯の準備をしますね」


 住職さんの一段と優しい声が本堂にこだました。


 朝食を済ませた後は、しばらく自由時間。幼い子らなので放置しておくわけにもいかない。こういう時に備えて、××院にはいささかのおもちゃや絵本なども備えているが、それらはおおむね檀家からの寄付を通しての頂き物で賄われている。

 10時ちょうどに、××院の前にタクシーが4台横付けになった。今日はまず、このタクシーに分乗して児島競艇場まで行く。児島駅まで出て競艇場のある琴海駅まで乗車する予定であったが、会社が気を利かせて直接琴海駅近くの児島競艇まで行ってくれるとのこと。料金的にも、児島駅までと競艇場まではそう変わらない。

 4台のタクシーに分乗したのは、幼い子ら10人と女子中学生4人、それに保母2名と奉仕活動中の青年2名で、男性はその2名のみ。一人は教育学部の大学生でもう一人は倉敷市内の洋食店に勤める若者である。まあ、8人も「大人」がいれば子どもたちの面倒は見切れるであろうとのこと。

 タクシーは15分ほどで児島の競艇場に到着した。ギャンブルに来ているお客がたくさんいて風紀的にいかがなものかとは思うが、まだレースが始まる前。今から酒を飲んでクダを巻いたりはずれ馬券を回りかまわず空に投げるおじさんたちはいない。一攫千金を目指して、誰もがレースの予想と舟券の購入に余念がない。

 そんな中、子どもたちは貴賓室と書かれた看板のある部屋に案内された。


「ようこそ、児島競艇場へ。今日は皆さんに、朝の2レースを見てもらいます。競艇というのは、・・・」


 江口という名札を付けた30歳くらいの男性職員が、幼い子どもたちにもわかるように競艇というスポーツのことを解説してくれる。彼は児島市の職員である。

 江口氏の説明が終り、レースが始まろうとしている。

「今日の第1レース、たぶん・・・」

 浅野青年がここに来るまでに買っておいた予想を見ながら、子どもたちに今日のこのレースの見どころをわかりやすく解説している。磯貝青年も、彼の解説を聞きながら別視点から意見を述べる。浅野青年は既に18歳になっており、磯貝青年に至っては昨年20歳になっているので舟券を買えないわけでもないが、彼らは競艇のようないわゆる賭け事をすることはない。


 号砲が鳴り、ボートが一斉に出走した。子どもたちは走るボートに夢中になっている。いささか年長の女子中学生たちは、冷めた目でこの光景を見ているようにも見えるが、その実、あるボートに着目していた。浅野青年がもらってきた予想では有力候補とも言えないはずのボートが、このレースでは案外健闘している。

 数分後、そのボートがトップでゴールイン。大穴とまではいかないが、かなりの高配当が出た模様である。程なく行われた放送を聞いていると、結構高い配当が出た模様である。朝の第一レースであるからそれほど客がいるわけではないが、客席のほうは一種異様な雰囲気に包まれている模様。

 だがここは子どもたちがいる場所であるから、そういうきな臭い話が出てくることはない。あのボートすごかったねとか、かっこよかったとか、そんな調子。


「ちょっといいですか、磯貝君」

 太田保母が磯貝青年を呼出し、子どもたちから少し離れた位置に移動した。

「太田センセイ、何ですか」

 そこまでは、ごく普通の会話。そこからは、彼らの個人的な会話に。

「春くん、今週の日曜は家にいる?」

「いるよ。景ちゃん何時に来る?」

「10時には行ける」

「ほな、きてや」

 大荒れのレースが行われている間、二人は軽く打合せをしていた。幸い誰にも気づかれていない模様である。


 第2レースが始まった。今度は、予想で上位にランクされている舟が安定的な走りを見せる。結局このレースは本命とみられる舟が順当に勝利した。配当は先ほどのように高くはない。幼い子たちはボートの走る姿には興奮していたが、その後の客席の雰囲気などはまったく無縁である。

 この競艇場は潮の干満=満ち引きがレースの駆引に影響するという。そのあたりで番狂わせが起こったり、対策してきた本命が確実に勝ったりという話である。


 午前の2レースを楽しんだ後、よつ葉園の一行は児島競艇場の建物を出て、江口氏の誘導で琴海駅に移動した。ここから下津井まで移動して、先の第1班が食事したタコ飯の店で昼食をとることになっている。

 今は12時の少し前。琴海駅に茶屋町からの電車が到着した。ボートレースを見に来た、というよりも一獲千金を狙って来場したおじさんたちが、まずはどっと電車から降りた。それから子どもたちは、山上保母らの誘導にしたがって後ろの車両の幌の近くに乗車した。車両後部には女性車掌が乗務しているので、何かあったときにはすぐに頼れる。

 今日の車掌は、高田という名札をつけている。彼女は昨日の若い車掌より少し年長の模様。どうやら、昨日添乗してくれた成瀬車掌と同年代くらいのベテラン。左手の薬指には白い指輪が光っている。山上保母は、この女性車掌と面識があった。というのも、児島までの泊り込み行事が始まった年の最初の班に同行した時の車掌が彼女であったから。そのときは彼女のどの指にも指輪はなかった。その後も何度か彼女と鉢合せたが、指輪をつけている彼女を見るのは初めて。子どもたちを若い人に任せ、思い切って、山上保母は挨拶を兼ねて彼女に尋ねた。


「山本さん、あ、今は高田さんですね、お世話になります」

 以前の名札と名前が違っているのを察したが、触れかけて即撤回した。

「よつ葉園の新橋先生、いえいえ、山上先生ですね。この後乗られる列車でもお世話になります」

「ところで、成瀬の初奈ちゃん、結婚されたようですね」

 いつになく慎重に。高田ユキ車掌は子どもたちに聞こえないよう、車掌室の陰で述べた。この距離なら、子どもや若い人たちに聞かれることはなかろう。

「え? すでに結婚されたとか?」

「月曜日に唐橋先生と結婚されたそうで。それから水曜日の昨日、今いる子らを引率してこちらに来られたでしょ」

 これで状況が読めたわ。山上保母の予感はどうやら当たっていたようである。

「ありがとう。だけど、この話は当分内密にしないといけませんね」

 既婚の保母は平静を装って同じく既婚の高田車掌に返答した。


 電車は今、東下津井から下津井に至るまでの大カーブを走っている。このカーブを走り切ると、まもなく終点の下津井。磯貝青年と太田保母は、あくまでも他人として子どもらの世話にいそしんでいる。

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