第25話 夏の夕べの喫茶店にて 2
「一度だけ、この店に一人で来られた? はてそれはまた、いつのことかな?」
森川園長の質問に、鉄道会社に勤める新婦がそのときのことを説明した。
「去年の11月頃でした。修也君とこちらで会うためにこの店で時間つぶしのためにです。あの後、彼がこの店に現れたのを機に店を出て街中に出ました」
「そのとき、泣いていらっしゃいませんでした?」
女性ウエイトレスの言葉に、彼女はハッと、あることを思い出した。アイス珈琲を少し口にし、彼女はその時のことを回想する。
あの日は彼に報告すべきことがありまして、修也君の休みの日を見計らってよつ葉園に行って、それで彼に会ったまでは良かったのです。ところが彼、なんか虫の居所が悪かったのか、口論になってしまいました。男の職場にのこのこ顔出すな、なんて言われて、それならどうしたらいいのよ、って調子になりました。
彼はその時まだ住込みで職員宿舎にいましたから、他の職員さんに私の存在が発覚することを極度に恐れていました。その日は子どもさんたちは学校にいる時間帯で、幸いにも保育の子らは保育室にいたようで、子どもとは会っていません。運よく保母さんたちにも会わずに済みました。園庭でかなりの言い合いになりまして、たまたま来園された武田のパン屋の社長さんが間に入ってくださいました。まずは修也君が咎められて、ついでに私にも、あんたは近くの喫茶店で待機するように、その旨は園長さんにも報告しておくからと。それで、この店に来たわけです。
だけど、男の職場に来るななんて、プロ野球の選手ならまだしも、養護施設という場所を女子禁制の場所みたいに言われたのが妙に引っ掛かって、なんか、私、こんな奴とはもう別れた方がいいかとまで思い詰めました。
1時間くらいしたら修也君がこの店にやってきて外に呼出されて、さっきは御免というので、もういいやってことで許してあげました。けど、今思い出してもあの言葉はちょっと。彼は小学生の頃から国語が得意でしたけど、その分言葉が暴走してしまうところがあります。あの事件後は、かなり修正されてきたと思います。不安がまったくないと言えばうそになりますけど、まあ、何とかなるかな、と。
「唐橋さん。奥さんちゃう。旦那さんのほうや。ちょっと、よろしいかな?」
彼女が話し終えたところで、珈琲を飲み切った教授が一言声をかけた。いつになく乾いた感じの関西弁である。堀田教授がそんな話方をするときは、厳しい訓戒を含めた説諭をするときである。
初奈さんの今の話、今先ほど私も山藤さんからお聞きしたので、それを踏まえて唐橋君には訓戒を与えねばなりません。先般山藤さんとお会いした際、貴君は現在よつ葉園さんが行う児島への泊りがけ遠足を「口減らし」と評された。
確かによつ葉園の児童、子どもさんらがそちらにお世話になっておる間、食費等の経費は節減できる。しかもその間、善意の皆さんによってその間の食事や寝床、さらに海水浴場のシャワーまで無料で使わせていただき、滞在中の遠足では下津井のタコを昼飯にいただく。その分、よつ葉園の運営費としては幾分食材にかかる費用その他の経費節減は可能ですな、確かに。
さて、その泊り込みの遠足を「口減らし」に例えられた件であるが、ある意味鋭い社会評論となる要素はある。法科の大宮哲郎君あたりがそのような論を述べたとすれば、内容次第やが鋭い評論と評しもしよう。しかし、養護施設の児童指導員という職責で仕事する貴君がそれを人前で述べるのは、いかがなものか。
孤児や被虐待も去ることながら、貧困にあえぐ故によつ葉園での生活を余儀なくされている子もいるでしょう。その子の親族、特に両親からしてみれば、ある意味それも「口減らし」ではないか。仮にも職員として勤める貴君の業務はどうか。口減らしのさらなる口減らしの意識でかかる行事をされているなら、そんな行事は金輪際おやめなさい。ただでさえ家族のもとで過ごせない子らをますます窮地に追いやるような言葉は、貴君におかれては立場上間違えても使うべきものではない。
ところで唐橋君、あなたは高校時代「ベクトル」を数学で習われたか?
物理学の教授をしている人物の前で数学の話を出された新郎は、その事実を肯定した。数学はそれほど得意ではなかったが、赤点を取るほどでもなかった。
彼の答えを聞いて、教授はさらに話を続ける。
私の実家は兵庫県の姫路です。学生時代は三高から京都帝大で、さらには助手に至るまで京都で過ごした。ところが京都に残れるほど賢くも強運もない私やが、旧制六高の後身である岡山大学から、講師どころか助教授の声がかかった。
さて、私の実家の姫路を拠点として、これまで京都まで行っていたのが逆方向、実際は京都の方が若干遠いが、ほぼ等距離の岡山に来ることになった。
その事実を矢印のようなもの、数学や物理学ではこれをベクトルと申すが、これはベクトルの向きが逆になったと言えますな。そこに価値判断を入れれば、私はそれこそ京の都に出られていたのが逆方向の田舎の岡山とやらに島流しに遭ったなどという表現も出来んことはない。とはいえ、単にそれまでの仕事場が別の仕事場になっただけと思えば、実家から移動する方向が真逆になっただけや。
こんな話ならどちらでもよさそうな話であるが、問題は貴君の言葉や。
ベクトルの方向というより内容面の長さも問題であろうが、先の口減らしの件についても初奈さんと喧嘩したエピソードというか事例にしても、それらはどちらもベクトルの向くべき方向が不適切であるがゆえに起きた問題ではないかな。
あまり偉そうなことを言えるほどのものではありませんが、唐橋君におかれては何よりも、普段の業務の際はもとより奥さんとなる初奈さん相手には特に、自らの言葉のベクトルの方向というものをきちんと意識されることをお勧めしたい。
これが、唐橋修也君への私からの祝辞です。
「堀田先生、ありがとうございます」
まずは新婚夫婦が謝意を表した。
「さすがは物理学の教授さんですな。堀田先生、ありがとうございます。わしが唐橋君に申すべきことを、訓戒を込めてよくお話ししてくださいました。おおきに」
謝意を述べる森川園長に続き、今度は山藤氏が一言。
「今しがた堀田先生がお二人に祝辞としてベクトルを例えに述べられましたが、私が先日唐橋君に申上げたかったのはまさにその点です。私がかねて述べたいと思っていたことを、堀田教授が見事に表現してくださいました。唐橋君ご夫妻におかれては、これからもしっかりと腰を据えてともに生活をされることを望みます。この度は、本当におめでとう。ところで・・・」
「ところで? 何かあるのか山藤君?」
老園長の疑問に旧制中学の後輩が答える。質問先のベクトルの方向がこれでどうやら変わった模様。
「よつ葉園の子どもらや職員の皆さんに、お二人の結婚の事実はまだ発覚していないとみてよろしいのでしょうか?」
森川園長は、後輩の質問に少し回り回るような感じで答えた。
「これ見よがしに言いふらすような話でもあるまいが、わかられてしまえば、それはそのときじゃ。今日の第1班の子らにバレかけているのではという勘が、昼頃ふと働いたもので、な。それで、この店に二人を呼んだんじゃ」
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